第295話 新しい年

 海外のフェスの話は、ノイズのメンバーを盛り上げるものであった。

 ブラジルのフェスなどというのは、あまり聞いたことがない。

 そもそもあのあたりはラテンなのでは、というズレた意見も出ていた。

 ブラジルの代表的な音楽は、かなり前に大流行したボサノヴァ。

 今はそこから影響を受けた音楽が、かなり流行はしている。

 しかし意外なほど、アメリカの大物ロックスターなどが、ブラジル公演はしていたりするのだ。


 フェスにしても、歴史は短いが動員数はかなり多い。

「治安はどうなってんのかなあ」

 栄二が心配するのは、そういうところである。

 ただそういった不安があっても、さらなる飛躍であることは間違いない。

 来年はさらに、という気分で今年最後のライブを行う。


 さすがにノイズのメンバーも、新年から数日は仕事などはしないだろう。

 もっとも暁などは仕事ではなく、普通にギターは弾いている。

 それは別に仕事ではなく、日常の習慣であるからだ。

 俊としても作曲に関しては、少し抑えるだろう。

 そして図書館で借りていた本を読むのだ。


 自分の将来につながっていると思えば、ただの楽しみから何かを生み出すことが出来る。

 信吾は仙台に帰る予定であるし、千歳は叔母と一緒に祖母の家に帰る。

 栄二も実家に家族と共に帰って、すると東京に残るのは、俊と月子と暁だけとなるのか。

「京都にちょっと、帰ってこようかなって」

 月子としてもこの季節、高校時代に出来たわずかな友人と、話せる機会になる。

 売れているミュージシャンというのは、どうしても忙しくなってしまうものなのだ。


 今年最後の熱量を、ステージで発散する。

 これが終われば少しだけ休みだ。

 そう思ってステージの上で、フィーリングに任せた演奏をする。

 そして一人一人がどんどんと、お互いに上限を上げていくのだ。


 今一番ノイズの楽曲で、新しいのがサバト。

 この12月で、とりあえず1クール放送が終了である。

 大好評につき二期の制作もほぼ決まっているらしいが、そう簡単に続編が作れない。

 そのあたり日本のアニメ業界に、残された課題とは言えるだろう。


 そもそも前回にやったアニメも、第二期をやる算段はしているらしい。

 しかしそれがいつになるのか、まだまだ分かっていない。

 相当の評価を得た作品であるのに、それでもまだ決まらない。

 2クールをいきなりやった作品なので、絶対にまたやるはずではあるのだが。




 悪魔崇拝的な音楽を、奏でていくノイズ。

 不協和音だけではなく、まるで呪いのようなラップ。

 機械音声で作り出した、不安を醸す意味不明の言語。

 逆回転して聞けば、何かの言語になるかという噂もある。


 ラテン語やドイツ語の音の並びを、日本人は心地よく感じてしまうらしい。

 理由は必要ない。そこは感性の問題だからだ。

 理屈というのはアートの世界では、後からくっついてくるものだ。

 まずはフィーリングがあって、それが第一なのである。


 月子のボーカルは、シンガーとして通用するようなボーカル。

 対して千歳のボーカルは、まさにバンドに合ったボーカル。

 異質なボーカルを二人抱えながらも、それがノイズの音になる。

 今の世の中は、ボカロPがコンポーザーとなり、ユニットを組むという流れが大きい。

 しかし未だに、バンドを作るというのも一つの流れなのだ。


 そんな中でノイズは、ボカロPがユニットを作ろうとして、バンドにまで発展してしまったという稀有な例。

 バンド形態でありながら、ボカロPが打ち込みをも使う。

 さらにシンセサイザーで、ライブにも対応出来る。

 これだけ自由度の高い集団は、そうはないはずだ。

 オーケストラでも用意しない限りは、なんとかなる。


 ロックが商業主義になろうという時、それに対するカウンターが何度も起こってきた。

 ノイズの場合はそれが、バンドの中で起こっている。

 基本的には表現の幅が、とにかく増えていく。

 マイナーなコードであろうと、それが相応しければ使っていく。

 単調であり原初的なものには、もう戻らないのが日本のロックポップである。


 もっとも単調であり原初的なものでありながら、ずっと残るものはある。

 洋楽であるならば、We Will Rock Youは途中まで完全に、リズムと歌だけで曲が成立している。

 ドラムもベースもなく、最後にブライアン・メイのギターだけが入ってくる。

 他のメンバーはコーラスをするのだ。

 あれはいまだに現役で、CMなどに使われたりしている。


 俊は逆に、ああいう音楽は作れない。

 どうしても技巧に走りすぎてしまう。

 そしてその複雑な曲を、平気で演奏してしまえるメンバーがいる。

 ギターソロにアドリブがかかったりすると、演奏するごとに曲の印象も変わってしまう。

 一応どの曲も、マスターは作ってあるのだが。




 このステージでもギターソロは、大きく変化して弾かれている。

 俊としては苦笑しながらも、どうにかそれに合わせていくしかない。

 ライブは生き物であるという。

 リードギターがまさに演奏をリードし、ボーカルがそれに共鳴していく。

 ただギターが走るわけではなく、抑える曲はしっかり抑えるのも、ノイズの特徴ではある。


 メロディアスに高音から低音までも使っていく。

 リズムの変化によって、感情も変化していく。

 あえて楽器を止めて、ドラムの小さなリズムと、ギターの単音だけを聞かせる。

 またベースだけが目立つ、ほぼベースソロに歌を合わせていく。

 新曲もあったりして、ノリのいい曲でオーディエンスは盛り上がる。


 実験的な曲というのは作らず、曲の中に実験的な要素を組み込む。

 それはほんの一部のみで、あとはこれまでのノイズの音楽をやる。

 ただそれを繰り返していくことで、どんどんと変化していくのだ。

 一気に変化してしまえば、ファンが付いて来れなくなる。

 変わっていこうという力と、このままを維持しようとする力。

 二つのバランスを取ろうとするあたり、俊はアーティストではなく職人である。

 普通そういった路線の変化は、プロデューサーなどが考えていくのだ。


 時代の流れに合わせる能力と言うべきか。

 俊は父の音楽がそういうものであったから、売れる音楽は分かっている。

 ただその時代だけに売れても、世界には残らない。

 その時点での人気も重要だが、どれだけ深く浸透していくかが重要なのだ。


 30年後ぐらいにも、まだ聴いている人間がいる。

 そういう音楽こそ、俊の求めるものだ。

 1970年前後には、多くのロックスターが死んでいる。

 そういった人々の音楽は、少なくとも半世紀は生き続けている。

 ただそのままの形では、いかにも懐古的なところがある。

 メロディなどをどう変えていくかという、根本的な部分がそこにあるのだ。


 革新的な新しいメロディは、そう生まれるものではない。

 だが既に1であるものを、100に膨らませる仕事はある。

 俊の場合は0を1にすることもあった。

 しかし自分の作り出したものであれ、他人の作り出したものであれ、1を100にしていくのは楽しい。

 曲の一小節あたりから、その前後をどんどんと作っていく。

 ボカロ曲などから、着想を得ている曲は少なくない。


 売れている曲をパクっているわけではない。

 自分がいいと思った部分から、新しい曲を作り出している。

 同じ場所があると言っても、それが一小節程度であれば、偶然の一致で逃げることが出来る。

 そもそもその箇所に、アレンジを加えているなら、もう気づく人間は少ない。


 パクリとはまた違うが、ボカロPの中には、己の作品の縮小再生産をする人間も少なくない。

 また前に発表した曲と、対になるような曲を作ったりもする。

 ただボカロ曲において重要なのは、それが面白い曲かどうかだ。

 別に権威になど認められる必要はない。

 単純に音楽が好きで、暇なときにも出来るというところから、多くのボカロPは始まっていった。




 ノイズのステージが終わる。

 あとはトリで永劫回帰のステージだけである。

 今年も大きな飛躍を遂げた年であった。

 順調に知名度が伸びているノイズ。

 なんだかMNRと永劫回帰と、一緒にされることが多くなっているのは、あの東京ドームのイベントからずっとである。


 次のステップについても、俊は理解している。

 いよいよ海外展開ということだ。

 世界中でフェスは行われているが、やはり本場は欧米ということが出来る。

 その他の地区では、日本がほとんど例外的に盛んなのだ。

 アジアにはまだ、大きな商業圏がない。

 韓国は海外展開に失敗して、コンテンツ業としては明らかに全てが失敗している。

 そして中国は巨大なはずの市場が、ほとんど海賊版で荒らされている。


 年が明けてそのまま、俊は永劫回帰のメンバーと共に、ゴートのマンションを訪れた。

 なおMNRのメンバーは、素直にそのまま帰還している。

 俊と一緒に来たのは、ノイズの中でも暁だけであった。

 他のメンバーは予定が入っているのだ。


 海外展開については、永劫回帰も何度かやっている。

 ただフェスに参加するのはともかく、向こうでのライブに関しては、あまり成功していない。

 いや、そもそもロックバンドが、アメリカでは下火になっているのだが。

「あちらの人気バンドと組んで、ツアーの一部に参加もしてみたけどね」

 そもそもアメリカ本土では、新しいバンドが出てきていない。

 レジェンドがレジェンドのまま、予定調和で盛り上がっているらしい。


 北欧や東欧、またアメリカでも地方においては、ロックは別に死んでいない。

 ただミュージックシーンの主流でないことは確かなのだ。

 またヒップホップなどであると、むしろメインストリームに入っていくと、ダサいという風潮があったりする。

 それはロックでも、商業ロックと呼ばれてた時代があったものだ。

 資本主義社会で生きているのだから、それを否定するのもおかしなものだが。


 自分たちがアーティストであると考えると、作品の消費が嫌になるのだろう。

 自意識過剰なものであり、もっと気楽になってもいいであろうが。

 そんな俊は全く、気楽に音楽を作ってはいない。

 気絶するまで働いているのではなく、気絶するまで搾り出して、ようやくどうにか曲になるのだ。




 ゴートからしても、欧米進出は悪いことではない。

 ただ無理をして行くほどでもない、とも言える。

「今の日本の音楽は、普通にあちらで受け入れられてるからなあ」

 シティポップの大流行から、アニソンの大流行まで、向こうが日本の音楽を発見している時代である。

 もちろん向こうでずっと、地道に活動しているバンドもあったりする。


 やはりネットは偉大である。

 拡散という意味でも、保存という意味でもだ。

 60年代のライブや、70年代のテレビでも、発信されていれば見ることが出来る。

 そして需要があれば、すぐにそれは発信される。

 ただ日本でも頑なに、サブスクには入らない歌手はいる。

 かつては入っていたが、今は引き上げてしまったミュージシャンもいる。


 どういった背景があって、こういうことになっているのか。

 それは純粋に、収入の問題である。

 ただ日米の物価の格差なども関係している。

 またアメリカは純粋に、金儲けのシステムを作るのが上手い。

 商品ではなく、商品を流通させる部分を作ってしまう。

 だからこそアメリカは強いと言えるだろう。


 アメリカの対抗する国となると、ロシアや中国となるのか。

 しかしネットワークについては、その根本がアメリカから発信するシステムになっている。

 先端技術でリードしている限り、競争で負けるはずもない。

 ただ中国の場合は、自国内の都合の方が、対外競争より重要であったりする。

「海賊版もあるけど、中国はハリウッドとかを殺そうとしてたんだよな」

「中国資本の作品のことですか?」

「いや、それはどうでもよくて……」

 ゴートの持っている情報というのは、上流階級で流れてくるものなのだ。


 アメリカのコンテンツを今、大きく毀損している現象。

 所謂ポリコレ案件である。

 政治的中立性などとも言われるが、アカデミー賞の陳腐化などが上げられるだろう。

 日本のアニメがアメリカを侵食している現象。

 昔からアメリカは、リベラルがいきすぎて、馬鹿なことをけっこうしてしまうものなのだ。

 古くは禁酒法などというものもあったではないか。


 ゲームにしても年齢制限が大きすぎる。

 映像表現に規制を設けるというのは、芸術性に対する冒涜であろう。

 実際のところそれで、大きな損失をどんどんと計上している。

 日本は日本で売れる作品を作り、それが海外でも売れている。

 音楽にしてもワールドワイドな規模で作ることは必要かもしれないが、無理に向こうに合わせていくのはかえって長所を失うものだ。


 かつてビートルズのジョン・レノンが、ビートルズはキリストより有名だ、と言ったことがあった。

 日本で60年代の後半ならば、そう言ってもいいかな、と普通に流してしまったであろう。

 キリスト教の影響は、欧米の文明の根底にある。

 それがあるために、強烈なポリコレなどが、必要になったということもある。

 LGBT運動なども、強烈なキリスト教価値観に対する挑戦であるだろう。

 日本では同性愛など、江戸時代は全く問題とされていなかった。




 日本は日本らしくあればいい。

 確かに始まりは、欧米というか英米の真似であったのがロックやポップスであったろう。

 しかし今は日本で蓄積されたものに、海外のものをありがたがって導入する必要がない。

 マイナーなバンドの音楽などは、むしろ面白かったりするだろうが。


 DAWとボーカロイドの存在が、日本の音楽の現代に、大きく影響している。

 一人では出来なかった音楽が、今は一人で出来るのだ。

 それでもボーカロイドは、当初はネタ曲がメインストリームであった。

 しかし今はこの世界から、多くの才能が生まれてきている。


 コンポーザーだけではなく、歌い手もそうだ。

 そしてコンポーザーと歌い手が、一度も直接は会うことなく、ユニットを組んだりもする。

 もっともさすがにビジネスとして会社などが絡んでくると、顔を合わせないでは済まされないが。

 機材などはそれなりにかかるが、それでも一人でどうにか出来る時代。

 また調べるにしても、ネットがあればいくらでも、基礎的なことは調べられる。


 俊の場合は先に、普通の音楽の素養があった。

 そこにボカロなどの、自由な音楽が乗ってきた。

 かつての時代であれば、開花しなかった才能であったろう。

 むしろ本質的には、今でもプロデューサーに向いているとは思われる。


 ゴートもまたプロデューサーとしての能力を持っている。

 ただ俊に比べると、プロモーターとして売り出す力の方が強い。

 それは能力ということもあるが、生育してきた環境もある。

 そもそもゴートの場合は、バックグラウンドが俊と比べても、はるかに大きなものだ。

 しかし俊は俊で、全くジャンルの違う音楽と、母を通じてつながっている。


 クラシックの業界というのは、もう一種の伝統芸能に近い。

 ただ充分に市場としては、成熟しているのも確かだ。

 ポップスの世界とは、まだそこが違う。

 あくまでもロックやヒップホップは、ショービジネスの世界である。


 クラシックに加えてジャズなども、かなり史上として成熟しているだろう。

 日本においてそういった分野は、何と言えるであろうか。

 こちらもクラシックなどは、もうかなりの地位を占めてはいる。

 だが欧米に比べれば、その裾野はまだまだ広いとは言えない。


 ロックを権威化させてはいけない。

 それこそまさに、ロックの本質であるからだ。

 ただ今は、ロックが権威にはなっていないがため、流行から外れたところにある。

 ヒップホップはともかく、R&Bならば俊でも、しっかりと理解出来る分野だ。

 そこが永劫回帰などとは、違ったアプローチが出来る。

「まあ他のジャンルが切り開いていった道を、上手く後追いさせてもらおうや」

 ゴートはそのあたり、不要な矜持を持ってはいない。

 そしてその価値観は、俊も同じである。

 客の心をわしづかみにして、無理にでもこちらを向かせる。

 そんな気合が入っているのは、むしろ暁の方なのだ。

 年が明けて、雄飛の時がやってくる。

 それが本当に成功するかは、まだ誰も分かっていないのであった。

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