第289話 ギターショップ
九月はライブを一度行ったが、基本的には休養にあてられた。
本当に休養していたのかどうか、阿部からも春菜からも疑問視されている、俊はいたが。
そこは同居している月子が、ある程度は見張りをしていた。
ただ俊は出会った頃から、さほど変化のある生活を見せていない。
止まったら死ぬ存在として、脳を半分ずつ眠らせているのか。
さすがにそれは冗談であるが、睡眠時間が少ないのは間違いない。
ただ生きているというだけで、どんな価値があるというのか。
俊はそういうタイプの人間であったらしい。
もっとも受けなかった時代がそれなりにあったので、今の勢いを止めたくない。
そのために無理をしてでも、仕事はどんどんとこなしていく。
個人で出来る仕事があるからこそ、俊はそこに作業を入れてしまう。
いっそのことツアーでもすれば、強制的に移動時間などは、休ませることが出来るかもしれない。
もっとも俊はスペックの高いノートPCさえあれば、相当の作業はやってしまえる。
なのでPCまで取り上げて、無理に仕事を奪わなければいけない。
ドラッグもやらないし、酒もほどほどであるし、自殺願望などもない。
それでも俊は早死にしそうだな、と周囲に思われてしまっている。
ただ俊がこのペースで仕事をするのは、全てバンドと事務所のため。
とにかく今は、稼ぐタイミングではあるのだ。
金と暇があると、人間悪い方に流れてしまう。
俊はそう教えられたし、実際に破滅する父も見てきた。
自分の楽曲で勝負して、そして何度もヒットチャートの一位を取ってきた父。
あの天才の登場があったとしても、まだそれなりに売れる曲は作っていたのだ。
それにあの時代はカラオケでの収入が馬鹿にならなかった。
上手くプロデュースだけをしていれば、それなりに業界で生き残れたはずだ。
結局は音楽が一線で売れなくなったのが、父の人生を終わらせることとなった。
金はあるのだが、生活レベルを落とすことが出来ない。
その生活レベルというのが、母の目から見てもおかしなものであった。
そもそも母は元々お嬢様育ちで、小さいながらも会社の社長令嬢であったのだ。
父の会社が倒産したことにより、東条高志の歌姫となり妻ともなった。
それだけの才能とルックスを持っていたのだ。
不貞行為を理由に、離婚した母。
俊の父は俊との面会をそれなりに要求した以外は、おおよそ母の要求を受け入れたのだ。
完全に不倫をしていたのだから、原因は父の方にあった。
母の生活にしても、家事をほぼ外注にしていたあたり、そんなに節約をしていたというわけではない。
ただ声楽の世界で活躍するようになり、俊を私立の学校に通わせても、充分なほどに資産はあった。
それでも母よりは稼いでいるはずの父が、簡単に破産した。
一度知ってしまった栄光からは、逃れられなかった。
こんな反面教師があるからこそ、俊は節度をもって贅沢をしている。
もっと世界中でヒットするような、そんなアーティストになったなら、いくらでも贅沢は出来るだろう。
だが東京の一等地に広大な家を持ち、設備もしっかりと整っている。
ここで俊がやったのは、地下スタジオにレコーディング設備を再設置したぐらいだ。
これからアニソンカバーのレコーディングをするというタイミングで、これを行った。
ただ最新の設備を揃えたので、これまでに稼いだ金は、ほとんどなくなってしまったが。
お金の話である。
多少の維持費は必要になるが、ノイズはこれでレコーディングに、金をかけなくて済むようになった。
ただこの設備は、かなりの金額が必要になったため、減価償却の形で確定申告をしなければいけない。
実際の作業は税理士に任せているが、金の流れ自体はちゃんと把握している。
出来るだけ機器に関しては、経費扱いで税金をかからないようにしたい。
いっそのことレーベルを自分たちで作るか、ということも考えた。
だがいくら俊が仕事好きでも、やはり好きな仕事とそうでない仕事はあるのだ。
音楽に関すること以外は、あまり遊びもしたくはない俊だ。
多少は食事に金をかけるようにはなったが、それでも基本はハウスキーパーの作った食事をする。
車ではなくちょっと自転車を走らせれば、普通に食事が出来るところはあったりする。
酒などを飲むことはなく、夜の店にも行かず、女にも手を出さない。
音楽星人とでも言うべき、ある意味破綻しかけた人間だ。
睡眠欲と食欲はともかく、性欲はないのではと思われている。
また睡眠は電池が切れれば寝てしまうが、食欲は度々摂取するのを忘れている。
信吾がいない時はそれなりに多いので、月子や佳代が気にかけなければ、本当に音楽中毒の生活と言えよう。
これだけの実績を残していて、どうしてまだ仕事をしようとするのか。
それは業界人としては、仕事がある間が華、と考えているからだ。
売れなくなった時のことを考えると、今を全力で稼いでいく。
どうしてもいつかは、自分の曲が時代に合わなくなるという、そういう恐怖感を抱いているのだ。
あとは才能の枯渇も恐れている。
アイデアが浮かべば、出来るだけそれを曲にしてしまう。
今は全てが上手い具合に回っているので、曲もどんどんと作れて行く。
そしてそのためのインプットとして、映画や小説などを摂取していくわけだ。
インプットに関しては、千歳が暁を誘って、俊にアニメを見せることが多い。
ちょっと古い作品であっても、世の中には埋もれている名作がある。
なんで埋もれているのか、と不思議に思ったりもする。
それはもう、古い作品はスポンサーの都合だ、ということが言えてしまう。
音楽の売れ方が、違う時代になってきた。
それと同じくマンガやアニメ、それにゲームも売れ方が違う時代になってきているのだ。
その中で俊が疎いのは、ゲーム関連であろう。
基本的に俊はゲームをしない。
特にソシャゲの部門に関しては、そこにアイデアはあっても、ストーリーが薄いと感じるからだ。
無理やりにでも、俊を休ませる。
そのためには着眼点を変えて、暁は自分の職場に俊を誘ったりした。
俊は機材には興味を持っているし、楽器に関しても興味がある。
それでもこれまでギターの構造を、深く知ろうとはしなかった。
DAWなどによって作れる、曲の方により興味を抱いていたからだ。
だが今はエレキギターとエフェクターに、強い興味を抱いている。
シンセサイザーを使っているとしか思えない、その電子的な音。
だがギターとエフェクターを使えば、かなりそこは近い音が出せる。
打ち込みを否定するのは、ボカロPとしては愚かなことだ。
しかし俊はボカロP以前に、コンポーザーでありミュージシャンであり、さらにはアーティストであるのだ。
今のDAWは本当に、わずかな音の違いさえ、表現出来るようにはなっている。
ボーカロイドの調声というのも、似たような感じで行うのだ。
だが肝心の俊に、満足な演奏をする技術がない。
どうすればフィーリングが合うかは、暁などに任せてしまう。
彼女たちの音の、どれを選んでいくかが、俊の役割なのだ。
ギターリペアとクラフトというのは、どちらも職人の技である。
安いギターも高いギターも、しっかりと修理して客に渡す。
暁は自分のギターの制作を、そろそろ準備から始めている。
まずは木材を選ぶところから、その作業は始まるのだ。
もっともライブで使う分には、あまり音の微妙な差など、聴く側には分からないという現実がある。
音の差を感じるのは、演奏する暁なのだ。
暁が満足してこそ、演奏にもパワーが乗っていく。
ライブにおいて重要なのは、テクニックではなくパッションとフィーリングだ。
ただそうは言っておいて、暁がライブでミスすることは、滅多にないことである。
土台となる技術があってこそ、パワーのある音楽が成立する。
ちなみに暁が働いている店は渋谷にあり、周囲には普通の楽器店もたくさん存在する。
渋谷と御茶ノ水は特に、ギターショップが多い。
なぜかはぼっち・ざ・ろっくを読めば分かる。
ここまで出てきてしまうと、暁にギターショップ巡りに付き合わされた。
基本的に暁は、ヴィンテージギターには興味がない。
あくまでもほしいのは、音がいいギターなのである。
もっとも暁のレスポールも、買った時点から比べると、二倍近い値段になっていたりする。
当たり年のレスポール・スペシャルでさらにレフティ。
希少性だけでも、充分な価値があるのである。
なお暁はここいらで、顔を広げている。
学校に行った頃は、コミュ障ではなかったのに、友達の少ないぼっちであった。
しかしぼっちちゃんのようなコミュ障ではないので、話の通じる仲間がいれば、普通に友人が増えていく。
そしてちょっと試しに弾いてみてよ、という話にもなる。
おおよその人間は、この若さの女子で暁ほど、弾けるギタリストは見たことがない。
暁はギタリストの宿痾と言うべきか、ギターを見ると鳴らしたくなる。
そしてハイエンドギターであろうと、自分の中での価値を決める。
暁は確かにヴィンテージギターには興味がない。
ただヴィンテージだからこそ出せる音というのも、しっかりと把握しているのだ。
楽器の良し悪しというのは、単に安定しているか、正確であるかというものでもない。
音には特徴というものがあるからだ。
ヴィンテージのテレキャスや、レスポールでしか出ない音は確かにある。
ただそれは、実は雑味であったりするのだ。
古いギターというのはそれだけ、材質が均一でなかったりする。
アメリカのエレキギターというのは、それだけ大味なものであるのだ。
ただそれぞれのギターで、それぞれのいい音色が出る。
暁はここで働くことによって、多くのハイエンドやヴィンテージのギターを、弾かせてもらうことが出来た。
ギターショップの店員などは、ほとんどが自分もある程度、ギターを弾けるものである。
しかしただ弾くのと、奏でるのでは大きな違いがある。
暁が弾くギターは、音色が歌っているように聞こえる。
またコードなどを弾いていても、その歪みがぎりぎりのところを攻めてくる。
ギターショップの多くは、販売だけではなく買い取りも行っている。
そういったギターはおおよそ、コンディションが悪くなっていることがある。
簡単なチューニング程度なら、そのまま直す事も出来る。
しかし暁の店にはそういったところから、リペアや大幅な調整を、求められたりもするのだ。
そんな時には仕上がったギターを、弾かせてもらう幸運に遭うことがある。
レフティの暁であるが、別にちょっと音を弾くぐらいなら、逆でも弾けるのだ。
本格的に弾くならば、弦を張り替える必要もあるだろう。
ギターの状態が悪ければ、そうやって改めて、しっかりと確認することもある。
ジミヘンの真似をしているわけではない。
ピックアップと電装系。
暁が特に注意しているのは、そのあたりであろうか。
フレットの微妙な部分も、弾き易さには関係しているが。
右利き用のギターを、普通に演奏して思うこと。
それはやはり、右利き用のギターを、弦を張り替えて弾いていたジミヘンは、かなりおかしいなということである。
そもそもボリュームやトーン、ピックアップの切り替えが、利き腕でやりやすいように作られているのだ。
ただレフティのギターというのは、個体数自体が少ない。
やはり自分の満足するギターがほしいなら、作ってしまうしかないのか。
暁は今のメインのレスポールには、不満は感じていない。
だが予備の二機については、普通のギターだなと思ってしまう。
普通であることが、別に悪いことではない。
ただ満足できないのであるから、それは仕方がないのだ。
ギターの話になると、暁は雄弁になる。
だが暁が最も雄弁になるのは、ギターを弾いた時だ。
言葉にはしない、感覚的なものを、その音で表現していく。
ただ激しいだけではなく、哀しさとか寂しさとか。
枯れたような音を、どうして暁は出すことが出来るのだろうか。
「しかし、右でも平均程度には弾けるようになってるんだな」
「まあ持ち込まれるギターはほとんど右利き用だしね」
必要であるがゆえに、暁は右でも演奏出来るようになってくる。
ただ左に比べれば、圧倒的に技量が落ちるのは言うまでもない。
ギターだけではなく、このあたりを巡っていると、エフェクターにも色々と巡り会う。
暁はギターはそれほど買わないが、エフェクターにはそれなりに金を使っている。
基本的にはエフェクターボードは、一台でどうにかなるようにはしている。
しかしライブではなくレコーディングだと、音の特徴をはっきり出すために、他のエフェクターを試したりするのだ。
日本のブランドのエフェクターに、アメリカのエフェクター。
さらにはロシアの物までと、暁はエフェクターのコレクターと呼べるかもしれない。
俊としてはこのあたり、微妙だなと感じてしまう。
ヴィンテージに限らず、今のいいギターというのは、基本的に値上がりしていく。
これはアメリカの物価上昇に、日本のギターも引きずられているからである。
ただエフェクターの金額は、そこまで上がるものではない。
もちろん既に生産終了しているものなどは、希少価値が出ていたりするが。
今のギター初心者にならば、俊は国産のギターを勧めるだろう。
あるいは安いギターでも、充分な音が出ることは分かっている。
ヤマハのギターなどは、俊も買っている。
値段の割にはしっかりと、音がクリーンに出るからだ。
もっともギターの音の雑味は、そういうところでは出ない。
じつはあのあたりは、電装系の金属の、不純な物質の含有量から、生まれているものであったりするのだ。
いい音と悪い音の判別は難しい。
ただギターにはそれぞれ、個性というものがある。
俊としてもヴィンテージのレスポールなど、独特な音だなとは分かる。
しかしそれが値段に見合ったものであるとは、とても思わない。
俊は演奏者ではなく、エンジニアなのだなと感じる。
リミックスで切ったり貼ったり、そしてマスタリングまでするからだ。
今は音の色を変えることも、ごく普通に出来てしまう時代。
レコーディングに関しては、多くのバンドの場合、スタジオミュージシャンが代わりに弾いている、というのは普通なのだ。
ノイズにしても他のメンバーはともかく、千歳のギター程度ならば、他の誰かに代わることが出来る。
身近に暁というお手本はいるが、それでも千歳のギター歴は、まだ四年にも満たない。
ただ他のミュージシャンに頼むぐらいなら、俊や信吾が弾いてしまってもいいのだ。
それこそ暁が、弦を逆に張ったテレキャスで、演奏してしまってもいい。
レコーディングされた音源と、ライブの音源が違いすぎれば、それは聴くほうも冷めてしまうだろう。
そのあたりを考えて、俊は千歳には厳しくしながらも、スタジオミュージシャンの力は借りない。
千歳にはまだまだ期待している。
もっともその千歳は、大学でやることが多いのだが。
いくら勉強したところで、千歳が俊に追いつくことはない。
また暁のギターにも、追いつくことはないだろう。
ただアレンジはともかく、作曲まではやれるかもしれない。
また俊や信吾のギターには、追いつけるかもしれない。
レコーディング機能を復活させたスタジオで、ノイズはレコーディングを行う。
アニソンカバーについては、アレンジが完了したものから、どんどんとリズムを録音していっている。
そんな中には、難しい曲もあったりした。
使っている楽器が、和楽器であった場合、DAWでも再現する音でなかったりするのだ。
ただこの秋、ノイズの動きは平穏であった。
月に一度か二度はライブをするが、年末のフェスにだけ照準を合わせている。
結局アニソンカバーのアルバムは、完成が年を跨ぐことになりそうなのだ。
これまでの動きに比べれば、ずっと穏やかなノイズの動き。
しかしそれは外から見た場合であり、内部ではしっかりと俊が、今日も働きすぎていた。
独立自営業者には、労働基準法は適応されない。
自分は自分を訴えないのだから、俊はいくらでも働いてしまう。
そして他のメンバーに、あちこち連れまわされて、無理やり休ませるというのが、冬の始まりまで続いたのであった。
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