第285話 俯瞰
横浜アリーナでのコンサートは、前座にソルトケーキを置いたものであった。
当然ながら彼女たちは、ノイズのライブもしっかりと見ている。
そこで感じたのはやはり、自分たちとは違う、というものであった。
単純に演奏技術の差はある。
また歌唱力も絶対的に違う。
当然ながらオーディエンスの熱狂具合も違った。
ノイズのファンは割りと上品な人間が多いので、ブーイングなどはなかったものの、反応は薄かったのだ。
「何が違うんだろ」
圧倒的に違うところばかりではある。
しかし根本的な部分では、何が違うのか。
それが分かったのは、二日目夜の公演が終わった後。
呆れたように阿部は、疲れ果てたノイズのメンバーたちを眺める。
ドレスが汚れるのを防ぐため、必死で月子は椅子に座り込むだけであったが、他は五人のうち四人が床に座り込み、暁と千歳はひんやりした床の冷たさに喜んでいる。
完全に頭がゆだった状態で、よくもここまで全力を出し切れたものだ。
この楽屋に戻ってくるまでは、気を張っていたのだから、プロ意識が違う。
「月末のフェスが終われば、休みながらレコーディングするから」
「完全な休みじゃねーんだよな」
俊と信吾のやり取りに、驚かされるばかりだ。
来週のフェスが終わっても、また次がある。
舞台の規模を考えれば、横浜アリーナで二日間公演というのは、おおよそ日本でもトップクラス。
夏のフェスにも二つ出場していて、メインステージで演奏する。
それをノイズのメンバーは、能動的に行っているのだ。
もちろん全員がそういうわけでもないのだが、ソルトケーキのメンバーには、そこまでの判別はつくものではない。
そっと見つめるだけであったが、阿部に促されて別の楽屋に移動する。
「あれがあの子達の全力」
ただソルトケーキもダンスメンバーの二人などは、ずっと踊っていればあんな感じになってしまうだろう。
もちろんMCを入れることで、休憩をしていくことは間違いないが。
本格的なダンスをしていくと、二時間を踊りきるのは無理である。
上手くペース配分をして、ダンスの内容も変えていく必要があるだろう。
ソルトケーキの前座について、マイナスな反応はほとんど見られなかった。
だがプラスの反応もあまり見られていない。
完全にノイズのパフォーマンスだけに、オーディエンスは集中させられたのだ。
それを悔しいとは思わないでもないが、ジャンルが全く違うとも思える。
「ノイズもまた、全力でポップスに寄せていたけど、アイドルもその方向性は同じよ」
阿部は難しいことを言っている。
前座で二曲ずつ演奏していたが、ダンス振り付けはともかく、作詞作曲は俊がやったものだ。
それを公開していたからこそ、サリエリのアイドル向け楽曲と言うのに、オーディエンスはそれなりの注意を向けていた。
実際にこの巨大なアリーナにおいて、ライブハウスでやったのとは違う人数でも、それなりに関心は持ってくれたのだ。
しかしノイズの演奏が終わると、このような結果となってしまっている。
全て上書きされてしまうのだ。
単純な売れ線というものとは、完全にどこかが違う。
もちろん演奏も歌唱も、違うのは分かっている。
仮にもアイドルの形態で音楽をしているのだから、スター性というものも認識している。
その中では特に、月子のボーカルと暁のギターは、深みを感じさせるものだ。
ソルトケーキが果たして、商品になるまで伸びていくのかどうか。
それは阿部としても分からないものである。
ただ見切りをつけたのなら、損切りはすぐにしておかなければいけない。
もっともこれだけ前座としての限定的な評価であっても、彼女たちは絶望しなかった。
もちろん単純に、まだ力量差が分かっていないからとも言える。
ステージでの反応を見れば、違うことは分かっただろう。
そして同じように売れ線に向けていても、ノイズの演奏は格段に違う。
しかし演奏の力は、まだまだ伸びていると阿部は思った。
ソルトケーキだけではなく、ノイズの方にもまだ、伸び代を感じている。
千歳の演奏に関しては、かなりの上達が見られる。
ただ暁との技術差が縮まっていないのは、笑えるぐらいに暁もまだ上達しているからだ。
いや、あのレベルになると上達とか、そういう表現ではないのかもしれないが。
ギターを弾いているのに、何か叫びを発しているような、そんな感情が乗っているのだ。
月子や千歳が歌に乗せていることを、暁はギターでやっている。
ただ音が聞こえているのではなく、そこに感情の動きがある。
技巧に走るばかりの年齢であるのに、どうしてそこまでの領域に達したのか。
それはやはり過去のレジェンドをコピーする上で、感情までコピーしていったからかもしれない。
単純に譜面通りに弾けばいい、というわけではない。
むしろそこから、ぎりぎり外れそうなところを攻めている。
暁のギターに対して、信吾と栄二はリズム隊として、確実にリズムをキープする。
楽曲の中にはベースソロの部分もあったりして、そこは信吾の見せ場となる。
だが演奏の華やかさとは別の、哀愁と言えるほどの感情。
そこまでのインスピレーションは、彼の演奏からは感じられない。
暁のギターはやはり、人間を理解することによって、より上手くなっているのだ。
そのあたり同じ女性ギタリストでも、紫苑などとは明確な違いが出てきた。
あちらはスリーピースバンドであるため、よりギターの役割が明確化している。
なのでソロのリフなども、はっきりと技術的に分かりやすいものだ。
対してノイズの音楽は、より多層構造になっている。
純粋に音の厚みが、圧倒的に違うのだ。
ただ音を正確に出すだけなら、打ち込みを使えばいい。
だがライブにおいては、その場の空気に合って、リズムがわずかに変わったりもするのだ。
それが出来るメンバーが、今のノイズなのである。
暁が突出しそうになるが、他のメンバーもそれについていく。
逆に打ち込みの調整などをその場で行う、俊が一番大変であるかもしれない。
アリーナ公演は大成功に終わった。
少なくともSNSの反応などを見ると、ほぼ悪い書き込みなどはない。
もちろん前の人間がいて見えにくかったとか、音響の悪い席だったとか、そういうものはどうしてもある。
しかしノイズに対する感想としては大成功と言っていいのだろう。
阿部のプロモーターとの交渉も上手くいった。
来年の春から夏にかけて、欧米でのフェスに推薦してみるというものだ。
もっとも準備などにかけては、自前で行わなければいけない。
正式な決定は、もっと後のことだ。
俊までも含めて、さすがにダウンしたメンバーが眠っている頃、彼女の仕事は始まる。
欧米の中でも特にアメリカは、ヒップホップのR&Bがメインストリームとなっている。
ただそこに和製ロックというのは、一種の民族音楽めいて、受け入れられつつある。
シティポップが向こうで流行ってから、その潮流が日本の90年代音楽に移っていくのは、ある程度予想された。
ただその遷移はスムーズなもので、90年代から現代までが、一気に入っている気もする。
2010年代後半頃からは、日本の音楽もかなり変化している。
ボカロPから生まれたものが、当然のように受け入れられ始めた時代。
俊などはここで、かなり苦心しているらしい。
何か大きくヒットする曲があったら、同じタイプのものを求められてしまう。
新しいものを作りながらも、受けた要素を正しく理解する。
自分に酔わない客観性があることが、俊の才能の鍛えられた部分であるのかもしれない。
現在の日本のミュージシャンで、一番ネットなどで使われるのが多いのは、TOKIWAになるであろうか。
彼はそもそも多作であり、アニメ以外にも色々とタイアップをしている。
ノイズの場合は俊は、既にある曲を使いたいというならともかく、普通のCMに新しい曲を作るのは乗り気ではない。
なんだかんだ言いながら、テレビでCMが流れれば、それだけ音楽も聞かれることはある。
ただ15秒や30秒に収めるというのが、俊としては難しいのだ。
過去曲を切り取って使ってもらうのは、全く問題ではない。
これぞまさに不労所得であるからだ。
さほどの金額でなくとも、過去の蓄積で収入が入るのは、嬉しいのが俊である。
阿部が俊のことで考えているのは、歌のある曲だけではなく、インストやBGMも作れないのか、ということだ。
ボカロPであるからには、基本的に作れるだけなら作れるのだろう。
もっとも俊が望む仕事かは、別の話である。
アニメタイアップと共に強いのは、映画タイアップ。
さすがにこちらの方は、すんなりと決まるはずもない。
それに俊が本当にやりたいことか、それすらも分かっていない。
だが知名度を高めていくのには、これも悪くないことだ。
俊の自由度が、より広くなっていく。
音楽で稼ぐということに、躊躇のないのが俊である。
そのうちそういう声もかかるのでは、とずっと思っているが、意外とまだかからない。
おそらく年齢的に、信用がまだ不足しているというのもあるのだろうが。
映画の音楽ともなると、動く金額も巨大になるし、それに監督のこだわりも大きくなる。
実績をどんどんと積み上げていかないと、やはり声もかからないだろう。
阿部がこれまで担当した中では、一番成功したバンドと言える。
もっとも事務所の収入としては、それほど大きなものではない。
宣伝もかかっていないインディーズというのは、そういうものであるのだ。
金がかからないので、大きな失敗にもならない。
その構造を変えようというのが、今度の案件なのである。
コンサートの翌日には、店を一つ貸切にして、スタッフも招いて打ち上げを行った。
俊は出来るだけ金を使わない主義だが、こういったところで使うべき金は分かっている。
上でどれだけ話が動いていても、現場を回すのは現場であるのだ。
もちろん現場も上から命じられて動くわけであるし、その内容にはしっかりとプライドをもって行う。
それでも現場と仲良くなっていくのにこしたことはない。
スタッフもスタッフで、売れっ子のミュージシャンに変な絡み方をしていくことはない。
もしも酔っ払ったとしても、そこはほどほどに周囲が止める。
なお暁と千歳はまだノンアルコールである。
俊の家で飲んだ時は別として、外で飲むことは厳禁だ。
もう高校も卒業しているのだし、そこまで大きなダメージにもならないだろうが、それでもイメージ戦略はある。
ノイズのメンバーは基本的に、ステージ以外で派手なことをするわけではない。
なので普通に出歩いても、正体に気づかれない。
無名であるよりは悪名が響いた方がいい。
そんな意見もあるだろうが、それは完全な無名であればこそ、選択する手段である。
ノイズは真っ当な道を歩いている。
だからこうやってはっちゃける時も、しっかりと一線を引いておくのだ。
俊は現場のスタッフにも、ビールなどを注いで回る。
恐縮されることもあるが、こういったことをリーダー自身がやっていくのだ。
ただし女性陣にはさせない。
セクハラだのなんだのという前に、フロントマンには遠い存在でいてもらう必要があるからだ。
今年の夏はもう、あとはフェスを一つ残すのみ。
ただライブ自体は、月一頻度でしっかりと行っていく。
だが長期的な予定は、夏が終わればしっかりと、また話し合う必要があるだろう。
ソルトケーキの面々も、こちらにはやってきていた。
実は彼女たちの中には、成人済みのメンバーもいたりする。
この業界は上に気に入られれば、それだけ上にいける、と思われているところもある。
しかし実際はあえて現場に残っている、プロフェッショナルな人間もいるのだ。
そういった人間に俊は、しっかりと挨拶をして回る。
意外と言うほどでもなく、レコード会社のお偉いさんとかとも面識があって、つながりが発生することがある。
このあたりの知識はおおよそ、岡町などから聞いているものだ。
もちろん阿部も、その点は周知している。
暁と千歳は和気藹々と話しているが、しっかりと月子の両脇に座っていたりする。
とにかく月子はこういう場合、反応がおかしかったりする。
それでも酒が入っていれば、ある程度は言い訳がきくのだ。
俊はまだ、海外フェスのことに関しては、メンバーには話していない。
まずは八月のフェス、全てを終わらせることが大事なのだ。
自分自身でも、変に集中力が削がれないよう、最低限のことしか調べていない。
ただどうしても時々、意識の表層に出てくるのは、防ぎようがなかった。
コンサートに集中するにも、普段よりも疲れてしまった。
タクシーを使って家に帰ってきて、そのままシャワーも浴びることなく汗まみれのままダウン。
またシーツなどを洗濯しないといけないが、そこはハウスキーパーに任せている俊である。
そこからちゃんと着替えて、今日の打ち上げに参加しているのだ。
あとはフェスを一つ、終わらせればいい。
月に一度のペースではライブをしていくが、それでも大きなものではない。
都内でのライブによって、充分に集客は出来る。
そしてそれだけで、しっかりと収入は確保しておくのだ。
レコーディングからのカバーアルバム発売は、かなり時間がかかっている。
まずレコーディングに入るのに、準備が整っていないのだ。
夏場のフェスというのはやはり、バンドにとっては認知度を上げる機会なのである。
ノイズは今年、国内でもトップレベルのフェス二つに、出場することとした。
ただ来年はもう、他のスケジュールを立てておく必要があるかもしれない。
やはりアメリカか、あるいはイギリスというのが、ロックの源泉であると言えよう。
そのアメリカではもう、ロックは完全な下火であるのだが。
なぜそんなことになっているのかというと、商業主義に走りすぎた、とか色々と言われるのだろう。
だが俊としてはアメリカで、アニメタイアップの邦楽が売れているのを、ある程度は知っている。
ただ単純にアニメタイアップで、楽曲が売れるわけではない。
上手く作品の世界観に、フィットさせなければいけないのだ。
スタイリッシュに作った業に比べれば、サバトはもっと陰湿。
だがよりイメージとしては、作品に沿ったものになっていくのか。
こういった成功を蓄積していくこと。
アーティストとしてもビジネスとしても、それは重要なことである。
俊は確実に、もっと高い場所を目指している。
しかしそこまでの道のりが、分かりにくくなっているのも確かだ。
(海外のフェスで成功、本当に可能なのか?)
そのあたりは自分たちの実力を、過信していない俊なのである。
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