第282話 南米からのラブコール
世界的なフェスを見てみれば、その多くは夏場に行われる。
野外型のフェスであれば、気温の関係で当たり前のことではある。
ただアメリカの南部であったり、中南米であったりすると、日本の冬場でも気温は充分。
あるいはオーストラリアであったりすると、季節は逆転する。
実際に夏以外の季節にやっているのは、南半球の場合が多い。
世界中に発信されるロックやポップスは、当然ながら欧米圏が多い。
英語という共通の要素は、メッセージを伝えるうえでは分かりやすいものだ。
ただ何を言っているのか分からなくても、声の質だけで何かが伝わることはある。
人類が先に獲得したのは、言語ではなく叫びである。
動物にすら伝わるものは、まさに声自体なのだ。
今回のオファーというのは、南米のブラジルで行われるものだった。
時期は三月で、日本ならようやく春らしさが見えてきた、といったところであろう。
歴史的にはさほど古くからのものでもない。
だが場所がいいのだ。
南米ブラジルは、リオのカーニバルなどでも有名である。
そういった人の集まることに、地域の抵抗がない。
条件がそうなっていたのなら、そこで開催してもいいだろう。
リオデジャネイロの郊外に、ステージを作るわけである。
阿部はこのオファーについては、かなり前向きであった。
ブラジルは実は、日系移民の多い国である。
そしてアメリカやヨーロッパが目立つが、日本のコンテンツもしっかりと浸透している国なのだ。
リオで大規模なライブを行ったレジェンドは、相当の数になる。
日本のアニメ関連のアーティストも、招いてみようかという話になっているらしい。
何よりもいいのは、準備の時間がしっかりしていることだ。
今からまだ、半年以上の準備期間がある。
そして向こうは歴史が浅いが、規模は大きい。
もっともギャランティの方は、そこまで高額というわけでもない。
「どうかしら?」
「返事の期限は?」
「一応は10月末までとなっているけど」
もうフェスの直前となり、ヘロヘロになっている俊。
だがそれでもこの案件は、耳に入れておかないといけない。
俊としてもこれは、重要なことだと分かる。
しかし今は自分の判断力が落ちているとも自覚していた。
「とりあえず保留で」
「そうね」
俊の言葉に、阿部も素直に頷いた。
色々とまだ、やらなければいけないことがある。
少なくともこの八月の間は、フェスとコンサートで大忙しだ。
向こうのフェスは三月に行われる。
幸いと言うべきか、その時期には全く、ノイズの大きな予定は入れていない。
俊にはまず、目の前の大きなイベントを三つ、片付けてもらう。
春菜も付けた上で、しっかりと土台を固めてもらう。
SNSなどで世界が狭くなったと言っても、まずは足元は重要だ。
戦争でも後背地があればこそ、余裕をもって戦える。
日本の国内でしっかり利益が出せるからこそ、他のタレントを売り出すことも出来る。
そして金をかけていけば、より大きな興行も打てるようになるのだ。
もっともアメリカの場合は、あちらから大きな金額を出してくる。
あちらの力だけで、充分に舞台は整えてしまえるのだ。
阿部は名前と概要こそ知っているこのブラジルのフェスについて、さらに詳しく情報を集める。
ネットでもそれなりに分かることはあるが、実際にステージに立ってどういうものなのか。
今年でまだ九回目、つまりオファーのある来年は10回目。
そこに日本のバンドを呼ぶということの意味。
規模は本当に大きなものだ。
しかしその内実はどうであるのか。
今年までに参加したミュージシャンを、ざっと見ていく。
その中には阿部のコネクションで、連絡の取れるマネージャーなどもいた。
リオで行われるフェスは、まだ歴史が浅い。
それでも毎年、動員数は増えていっている。
既に権威のあるフェスに参加するのではなく、自分たちが参加することで格を上げていく。
俊はこういうフェスに対して、どういう対応をするのだろうか。
阿部としては夏にあったフェスに比べると、歴史も権威も劣るなとは思う。
もっとも権威などに反抗するのが、ロックであったはずだが。
これは他のメンバーまで話すと、また俊と暁の意見が対立するのではないか。
俊には伝えたが、今の彼は思考力をそちらに割くリソースがない。
まずは目の前のフェスなどを終えてから、話した方がいいだろう。
ただプロモーターは、本気で南米のこのフェスを、大規模なものにしていくつもりはあるらしい。
フェスの実施が、大規模なものは北半球の夏場に、固まっているというのは確かだ。
人数の動員力がそれなりにあり、カーニバルなどの実施経験により、ノウハウもそれなりにあるのだろう。
アメリカやイギリスといったところではなく、ブラジルから海外進出というのも、ちょっと変わったノイズらしいと言えるのではないだろうか。
それにジャンルはロックだけではなく、むしろポップスやダンスミュージックなど、踊れる分野が多い。
ヒップホップなどに加え、ボサノヴァなどもある。
かつてはまさにブラジルの音楽と言えたボサノヴァも、今ではそこまでの人気とまでは言えない。
しかし高齢者を中心として、根強い人気もあるらしい。
日本における演歌のようなものなのか、と思わないでもない。
もっとも演歌もまた、古い音楽ではないのだ。
現代のような演歌は、60年代頃がその原型であるとも言われる。
そもそも演歌というのが、違う意味を持っていた時代もあった。
60年代と言えば世界では、ビートルズが活躍していた頃ではないか。
演歌は昭和歌謡になっていったとも言われる。
確かにそういった要素が全くない、とも言えないであろう。
しかし日本古来の音楽というのは、宮廷音楽を除くならば、民謡などのものになってくる。
能などに使われる音楽は、明らかに演歌とは違うものだ。
俊の作る曲というのは、基本的にはなんでもありだ。
ただ自分の感覚には従っている。
なのでロックでも、パンクスタイルはあまり好まない。
そしてヒップホップへの微妙な距離感。
それでも10月から始まるアニメへのタイアップには、ラップ要素を取り入れたものだ。
これまでに俊の作ってきた音楽には、ボサノヴァの要素を取り入れたものはない。
ブラジルがポルトガルのかつての植民地であっても、現代音楽へはそれほど影響していない。
普通にロックなどのポップが人気ではある。
ただボサノヴァ要素を取り入れた音楽は、やはりあるのだ。
ロックやファンクもあるが、微妙に言語によって違いはあったりする。
色々と調べているうちに、阿部はこのフェスに対しては、かなり前向きになってきた。
だがやはりシカゴのフェスに比べると、格落ちであることは間違いないな、とも思ってしまう。
本当なら若者であれば、失敗覚悟で挑戦しても良かったのだ。
むしろ失敗してからこそが、その真価とも言える。
しかし俊の場合は、バンドでの失敗やボカロPでの停滞など、それなりの挫折経験がある。
ノイズのメンバーで挫折らしい挫折がないのは、暁と千歳であろうか。
ただ千歳の場合は、素人から始まっているので、かなりの下手くそ期間がある。
そういう意味ではずっと負け知らずなのは、暁だけか。
ちょっとしたアクシデントはあっても、大きなミスなどはない。
だからこそ海外からのオファーにも、他の誰より積極的であったと言えよう。
実際に先月まで流れていたアニメの曲も、国内ばかりではなく海外でも、かなりの評価をされている。
そしてメッセージなどは、英語がやはり多いのだ。
海外でも通用する、という感覚。
それは阿部にも共通した認識だ。
俊の持っている欠点と言えなくもない部分。
慎重すぎるのではないか、と阿部は思っている。
ライブが終わった後などは、打ち上げを行うノイズ。
しかしおおよそは、反省会となる。
あそこは良かった、ここは悪かった。
満足しないことこそが、上達への条件なのだろうか。
リーダーである俊は、とにかく貪欲である。
社会的な名声と共に、純粋に優れた楽曲を作りたい。
その優れた楽曲というものが、どういう基準なのかはまた別の話で。
それにしてもブラジルか。
阿部はこれまで仕事で、アメリカやヨーロッパにはかなり行っている。
回数は少ないが、AC/DCを生み出したオーストラリアにも行っている。
南米では確かに、レジェンドのバンドが公演をしたりする。
しかし阿部自身は一度も行ったことがない。
一度ぐらいは行っていてもよさそうなのだが、やはり欧米が現代音楽のマーケットとしては最大なのだ。
あとはアジアでは、韓国と台湾か。
俊は上手く思考を切り替えられている。
阿部から話は聞いていたが、決定するまでには充分な時間がある。
また来年の三月であるので、色々と準備にも時間が取れる。
成功するための戦略を立てるのは、まず夏のフェスが終わってからでいい。
やりたいことは他にも、色々とあるのだから。
夏のフェスに関しては、とにかくクオリティを上げること。
メインステージで演奏をするのだから、とにかくパワーがないと遠くにまで届かない。
重要なのはそれよりも、横浜アリーナでの公演である。
前座としてのアイドルグループは、名前も決定した。
ソルトケーキという、ちょっと変わった感じのものではある。
本当なら甘いはずのケーキが、実際にはしょっぱい。
音楽性から考えたら、そういうイメージになるわけだ。
なので俊がメイプルカラーに作った楽曲も、かなりアレンジが加えられたりする。
さすがにそこまで面倒は見ていられないので仕方がないが、そもそも思いいれがなかった曲でもあるのだ。
ポップスなメロディに、日常のちょっとしたことを楽しもうという、分かりやすい曲ではあった。
ノリのいい曲というのは、ドルオタもノれるものだ。
分かりやすい語彙を使った歌詞も、ちゃんと誰に向けて歌うのか分かっている。
ただ外部に編曲を頼んで、最終的なチェックだけを聞いたら、随分とロック系になったものだな、とは思った。
そもそも月子の歌唱力をメインに考えたものなので、メインボーカルが決まっているグループとしては、使いやすい曲ではあったのだろう。
八月に入るまでには、アリーナ公演の演出計画は全て終わっている。
ちなみに設営などにかかるスタッフの手配は、さらにそれより前に終わっているのだ。
人数と技術の範囲内で、どれだけのことが出来るのか。
武道館でも東京ドームでも演奏はしたが、おそらくこの規模のステージにおいては、一番音響設備が整っている。
フェスに手を抜くわけではないが、それでもあちらはイベントの中の一つのバンド。
アリーナ公演はノイズだけを見るために、来てくれている客なのだ。
「時間が足りない」
俊はいつものことを言っている。
そしてここで俊をフォローするのは、月子と暁が多くなっている。
月子はそもそも居候している者であるし、暁は免許も取って少しは余裕が出てきた。
アルバイト先では接客をしたり、リペアの様子を見せてもらったりもしている。
今はアンプやエフェクター、そしてピックアップや電装系の知識を、増やしていっているところだ。
曲のアレンジについては、暁がかなりやってのける。
そしてそれが実際に歌えるかは、月子が確認していく。
千歳は大学の課題やレポートを、夏休みの前に出す必要がある。
ちなみに免許はようやく取れたところだ。
どうにか演出まで含めて、アリーナ公演のセットリストも作成出来た。
フェスについては設営などは、イベント屋がやることなので、ノイズには関係がない。
とにかく全力でやってみて、そして多くの客に聞かせる。
そして満足してもらうという以外に、何も目的などはない。
ここで俊は、微妙にモチベーションが落ちていた暁を主な対象に、海外フェスの話を出した。
夏のフェスとコンサートを考えて、そこでいい結果が出せれば、オファーに応じるという感じである。
「ブラジルかあ……」
地球のほぼ反対側にあるような、遠い場所でのフェスである。
来年の全国ツアーは四月から行う予定に調整されているので、これは完全にタイミングがいい。
三月の終盤までならば、大きなイベントが入っていなかった。
今後は何か入るとしても、ライブ系の仕事ではないはずだ。
今の俊が苦心しているのは、ノイジーガールの英訳版を、上手く演奏することである。
月子と千歳に歌ってもらうのは、ボーカロイドを使って耳で覚えてもらう。
もっとも発音というのは、ボーカロイドでもちょっと難しいところがある。
そもそも英語にしても、アメリカの通常の英語と、ごりごりのブリティッシュ英語では、かなり違うところがあるのだ。
日本語にも標準語と、訛りがあるのと似たようなものだ。
こちらのレコーディングが終えたなら、あとはそれに合わせたアニメーションMVを作ってもらう。
特急料金で作ってもらうかどうかは、悩ましいところである。
重要なのは目の前のフェスとコンサートを成功させること。
海外フェスを話題にしたことで、メンバーのモチベーションは上がっているように思う。
もっともノイズの人間は、ライブで手を抜くことはしない。
常に全力であるからこそ、二日間の公演の後では、体力を使い尽くして倒れたりするのだ。
アーティストとしては東京ドームよりも、むしろ横浜と埼玉のアリーナで公演する方が、目的としては正しい。
どうしても音響の問題が、ドームなどにはあるからだ。
あちらはあくまで野球をやるのがメインの場所。
四大ドーム公演などは、いずれ箔付けのためにやってもいいかもしれない。
「五大じゃなくて?」
「札幌を埋めるのは難しいと思う」
春菜に問われて、素直に答えてしまう俊である。
現在においては音楽は、国内と海外の展開を、両方考えていかないといけない。
確かにまだ日本は、音楽の市場としてはそれなりに大きい。
だがCDショップは潰れているし、レンタルもどんどんなくなっている。
アメリカはこの動きがさらに早く、サブスクへと移行したものだ。
大きな人口を持つ中国はどうなのかというと、あそこはそもそも英語圏ではない。
また海賊版に対する寛容さと言うか、甘さがあるのが問題だ。
英語圏に広がるべきなのだ。
アメリカとイギリスだけではなく、ヨーロッパの諸国はそれなりに、英語が通じる人間が多い。
そもそもヨーロッパで音楽をするなら、目的はアメリカの市場ということになるだろう。
日本は確かに単一の国としては、大きな市場を持っている。
だが若者の音楽離れは言われているし、実際に可処分時間をどう奪い合うか、それが重要な問題ともなっている。
俊がサブスクなどにあまり肯定的でないのは、プラットフォームに取られる金が、相当のものになるからだ。
色々と条件はあるが、世界的な大企業のプラットフォームは、売上の三割をそのまま奪っていく。
これなら国内向けに、自分たちで作ればいいのではないか。
そう考えて実際に、マンガからアニメ、そしてアダルトなものさえも、一括して提供している会社がある。
俊としては自分のこだわりもあるが、どうしてもフィジカル媒体を残しておきたい。
そもそも自分で技術的なことが出来れば、かつての90年代に比べて、はるかにミュージシャンに入ってくる金額は大きくなるのだ。
サブスクに関しては、いつ特定のアーティストが、自分の曲を引き上げてしまうか分からない、という理由もある。
ノイズはそのあたりを考えて、DL販売に注力している。
これは自前のサイトで行っているので、中抜きされる金額が少ない。
ただやろうと思えば、海賊版で色々と、流すことが出来てしまう。
欧米の中でもアメリカというのは、とにかく勝者が総取りという感じの市場を持っている。
富裕層があまりにも豊かになるというのは、それなりに問題があるのではないか、と俊も思わないでもない。
またノイズは確かに収入という点では、他のトップバンドと比べても恵まれている。
しかし他のトップミュージシャンというのは、会社の金によって様々な恩恵を与えてもらっているのだ。
ノイズはインディーズであるので、事務所に対してもレーベルに対しても、金はあまりかからないものの、売れてもものすごく儲かるわけではない。
俊としてはそれでも、ミュージシャンに還元されることが、一番重要であると考えている。
ミュージシャンは売れなくなれば、過去の遺産で食っていくしかない。
しかしスタッフというのは、次のミュージシャンなどのために、また仕事が生まれてくるものなのだ。
90年代の話というのは、今から聞いても無茶なものがある。
ノイズはもう日本のアーティストの中でも、明確なトップではないものの、トップレベルにはなっている。
それなのにこれだけ地味であるのは、実利を得ているからだ。
それに俊はビジネスも含めたマルチプレイヤーではあるが、それでも基本はアーティストだ。
その気になればもっと、稼ぐことは出来たであろう。
だが金と時間を、音楽のために使うのはいいことだ。
金と時間が余っていると、周囲にはそれにたかる人間が出てくる。
それに対して月子は俊の家に居候しているし、暁や千歳はそれぞれ親や保護者も自営業者だ。
下手に金を使わないように、ちゃんと税金を払えるようにしている。
おそらくいまだに地に足のついた活動をしていられるのは、そういった金銭的な事情により、生活レベルが下手に上がっていないからであろう。
間もなく熱狂の夏が始まる。
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