第281話 四度目の夏に
夏への準備が進んでいる。
大規模フェス二回に加えて、アリーナでの二日間公演。
武道館公演での経験で、どれぐらいの体力があるのかも分かっている。
暁などは一人暮らしを始めてから、毎日朝には川沿いを走っているらしい。
ちなみにそのルートで、例のアイドルグループの一員にも会ったとか。
ミュージシャンにも体力が必要だ。
月子も多摩川沿いを走っている。
彼女もまた体力の必要なボーカルの歌い方をしているのだから。
千歳はそれに比べると、喉を維持することを求められている。
アメリカなどはハスキーボイスを好むところがあるが、日本では高音の響きも充分に求められる。
そもそもアメリカで今好まれている日本のボーカルなどは、クリアなトーンであることが多い。
欧米の特徴は、バンドのボーカルが男性であることが多いことか。
女性ボーカルがいないわけではないが、女性となるとシンガーになる。
シンガーソングライターとして、活躍している女性はそれなりに多い。
横浜でのコンサートライブが二日で四回、これが夏のフェスの二回の間に行われる
全てが八月に行われるもので、とにかく準備が大変となる。
フェスの方はまだ、イベンターが多くの部分を取り仕切っている。
しかしアリーナでのライブは、演出までも含めて、かなりのことを計画しなければいけない。
フェスは50分から一時間程度の長さだが、アリーナは二時間が四回。
ただしフェスの直射日光を考えれば、アリーナの方が体力の消耗は楽であろうか。
自分たちのみのコンサートであるので、演出はかなり凝ったものが出来る。
武道館も一つの大きなステップではあったが、アリーナは最初から公演を前提として作られたもの。
ちなみに武道館においてはビートルズの来日公演など、音響が微妙であったという過去がある。
そこから音響の技術を積み重ねていって、アリーナでの演奏では音響が計算されて作られていった。
ノイズの活動については、俊がかなり現場のみに集中出来ている。
ヒットチャートの順位が当てにならない現在は、PVの回転数などが実際の評価の基準となりやすい。
もっとも無駄に何度も回転だけはさせる、という手段で人気を操作するミュージシャンがいたりする。
確かにPCでプログラムを組めば、それだけで何度も再生数だけは稼ぐことが出来る。
そういった人為的な操作で、人気を工作する。
そこまで金をかけたとしても、ペイしなければ意味のないことだが。
日本の音楽市場は、縮小したと言っても未だに世界で二番目である。
中国はいくらGDPで抜いたといっても、こういったコンテンツでは日本の総合力には敵わない。
もっともこういった広義のサービス業は、国家を挙げては参加するべきではない。
一次産業と二次産業が安定していてこそ、国家は安定する。
そして安全保障とインフラ整備が充分ならば、その国は明るい。
音楽にも時代性というものがある。
80年代から90年代というのは、世紀末を娯楽に出来る余裕がまだあったのだ。
しかしバブル崩壊から、世紀末の氷河期を越えて、少子化の影響がはっきりと見えてくる。
するともう音楽の中身にしても、世界に訴えかけるようなものではなく、内面を表現するものになっていく。
ラブソングが減っているというのも、現実的な話ではあるのだ。
それでも人間は生きているだけで、色々な悩みを持つ。
心情を吐露した歌というのは、その内容にもよるだろうが、ある程度は普遍性があるものだ。
60年代から70年代、アメリカはベトナム戦争と、その後の社会問題を抱えていた。
だが実際は完全に、世界でもトップの大国であったわけだ。
それだけの余裕があったからこそ、若者は大人に反抗することが出来た。
これが日本の場合は、80年代から90年代に当てはまるのではないか。
やはり労働組合の運動や、学生運動は起こったりもした。
しかし生活自体は80年代まで、豊かになり続けたと言っていい。
90年代にバブルは弾けたと言っても、まだ余裕があった時代であるのだ。
決定的な日本の衰退は、おそらく就職氷河期によるものだ。
その時代に上手く就職出来なかった人間は、家庭を築くことが難しかった。
また就職したとしても、経済的にはここからどんどん、苦しい家庭が増えていく。
そして少子化が決定的になる。
経済力というのは、労働人口が左右する。
政治経済の失敗というのもあるが、労働人口の減少というのは、そのまま国力の衰退を意味する。
人口が減っていくなら、そもそも文化を摂取する人間も減っていく。
だからこそ海外への進出は、確かに考えるべきものだ。
もっとも音楽というのはマンガやアニメと同じく、なくても生きていけるものではある。
さらに言うなら今は、無料で消費することが出来るものでもあるのだ。
自分の音楽を後世に残そう。
そう俊が考えるのは、結婚に関してもあまり、興味がないからであろう。
遺伝子を残すよりも、自分の思想や心情を残したい。
俊のそういった名声欲に近いものは、性欲を上回る。
そして実際に、ある程度はそれに成功していた。
ネットワークが崩壊せず、そして情報の記録媒体がなくならない限りは、人類の歴史の片隅に残り続ける。
そういった存在に俊はなりたかった。
永遠に生き続ける存在になる。
もちろん人間は、いつかは死んでしまう。
むしろ人類そのものが、いつかは絶滅するものであろう。
ただ人類が存続している間は、おそらく音楽というものはなくならない。
そのために残しておきたいのは、まずは実際の演奏。
それが維持できなくなったとしても、楽譜で残っていくか、伝わって残ればそれでいい。
日本人の識字率の高さの理由の一つに、平家物語というものがある。
これは識字率以外にも、方言をある程度修正したとも言えるが。
盲目の琵琶法師などが、日本各地を歩いてつないだ。
三味線弾きも現代はともかく、昔は盲目の人間が多く、それでどうにか食っていたという現実がある。
俊の音楽には、それほど日本の要素は強くない。
基本的には60年代から70年代の洋楽に、90年代の邦楽の要素が強い。
それに加えてクラシックやジャズといった、古典やスタンダードナンバーの確立したジャンルも、かなり頭に入っていた。
民謡は逆に、月子がやるまでは知らなかったが、それでも基礎知識だけはあった。
人間の生きる苦しみは、いつの時代でもある。
世界がいかにポジティブであっても、楽観的に生きられない人間はいる。
むしろ周囲が幸福であれば、自分が不幸になる人間もいる。
そういった感情を俊は書く。
ただ歌うのは、他の人間だ。
月子も千歳も、苦しみながら生きている。
今はまだしも、楽になれたかもしれない。
ただ苦しみの中から、何かを吐き出すことを知った人間だ。
そういった人間の本音は、そのまま俊の本音につながるわけではない。
特に月子も千歳も、才能を持っていない人間の気持ちは、微妙に分かっていないだろう。
月子の場合は地下アイドル時代、不遇を充分に経験している。
だが人格形成においては、周囲からの蔑視と祖母の厳しさが、幸福を感じないようにしていた。
それでも生きられるように、と祖母は思っていたのだ。
しかしそんな厳しい愛情は、両親を失った子供に対しては、あまりに不器用だったと言える。
だから二人の子供も、離れていってしまったとは言える。
会ったこともない月子の祖母に、最も感謝しているのは俊かもしれない。
月子にジャンルこそ違うが、音楽の基礎を叩き込んでくれた。
そして発声に関しては、おおよそのシンガーよりも上にある。
もちろん単純に、力量や技術の問題だけではないが。
東京に出てきて、色々な回り道をしたが、大きなステージに立っている。
ほとんど実力だけで、俊はその実力を上手く引き出した。
ただ俊と月子だけでは、ここまでの成功はなかった。
周囲に人が集まってきた。
これは運命的なものに感じる。
しかし俊と会わなくても、暁は大学に進学でもすれば、普通にバンドなどは始めたかもしれない。
もっとも彼女を活かすことは、他の人間には出来なかっただろう。
俊は月子と暁の才能が、自分を上回ることを理解している。
素直にそれを認められるという時点で、向上していく余地はある。
「八月は中旬から地獄のスケジュールだな」
栄二はそう言うが、彼にはまだ余裕がある。
スタジオミュージシャンとしてもバックミュージシャンとしても、これ以上のスケジュールを経験したことはある。
ノイズとしてもツアーで、名古屋から神戸までのツアーは、かなりの過密日程であった。
週末に三連続で、フェス、ライブ、フェスとなっている。
せめてもう少し、余裕のある日程であったならば、といったところだ。
しかしハコの予約というのは、おおよそがいっぱいいっぱい。
上手くキャンセルなどを取れれば、それでありがたいものなのだ。
俊の負担が一番大きい。
確かにマネージャーがついたことで、日程の確認などはかなり任せることが出来ている。
しかし演奏する曲のアレンジなどは、俊がほとんどやっている。
さらに作曲なども、まだ俊一人に負担がかかる。
英訳にしてもMVにしても、俊が最終的に、音楽の判断はすることになる。
春菜から逐一報告を受けているが、阿部は本当に心配になる。
止まったら死ぬかのように、俊は色々と活動している。
もっとも本人に言わせれば、インプットの時間はしっかり取っているということになる。
いや、少しは休養しろと言いたくなるのだが。
他のメンバーはまだしも、暁でさえ少しは、他のことに時間を使っている。
月子などは最近、映画などはよく見ているらしい。
本を読むのが難しいが、今ではそれを代わりに読んでくれる音声ソフトもある。
月子が求めているのは、表現力であろう。
そのために声に、どうやったら感情が乗るのかを考えている。
それをずっと続けて、さらに上のレベルを目指す。
千歳は最近、ボイストレーニングは大学のものに変更した。
なので花音の話が、あまり入ってこなくなっている。
フラワーフェスタの活動自体は、そこそこ有名になってはいる。
日本人以外のメンバーもいることであるし、演奏する曲もそのまま洋楽であることが多い。
四人全員が歌えるという、かなり攻撃的なバンド。
確かな人気はあるのだが、それがまだ爆発し切れていない。
あれはおそらく、プロデュースに失敗している。
本人たちに下手に自信があるだけに、売れ線を狙えていないのだ。
それこそ俊が考えて、活動を上手く説得したりすれば、一気に売れるとは思う。
花音の声は、他の誰にもないものだ。
かろうじて白雪が、少し似ているかもしれないが。
本来ならばシンガーソングライターでいいのだ。
ただ楽器を演奏しながら歌うという、そのスタイルが脳の神経に構築できていないだけで。
今のままではあの才能を、無駄に眠らせてしまうことになりかねない。
音楽の世界ではそういったことは、珍しいことではないのだ。
レコード会社もかなり、資金投下はしている。
そして花音単独は、顔出しをせずに曲だけを発表し、それなりにCMなどの仕事は取っている。
ただバンドに時間を取られているのが、阿部の目からすると無駄のように思える。
阿部からすれば俊もたいがい、回り道をしているように思えた。
メジャーレーベルから一気に宣伝をして露出を増やせば、あっという間に売れるであろうと思ったのだ。
だが俊は徹底的に、音楽をやりながらも儲けを考えていた。
父親はふんだんの資金力でもって、大きな成功を果たした人間。
しかし死亡時には巨額の借金があったからこそ、子供は金に汚いということか。
もっとも金に汚いことは、経営者やプロモーター、プロデューサーとしては重要なことだ。
俊はその点では、他のミュージシャンの誰よりも、収支を考えて活動をしているのだろう。
七月に入ると、もうアリーナ公演のチケットの方は、完全に売り切れていた。
ライブハウスでやるライブは、通常のルートではほとんど手に入らない。
300人規模のハコでやるには、もう人気が出すぎている。
1000人以上が入るコンサートホールだと、逆にバンドメンバーだけでは手が足りず、あちこちに阿部や春菜が手を回すことになる。
しかし俊はこの時期、身軽に動けることを重視している。
フェスの宣伝と共に、アニソンカバーアルバム第二弾を、宣伝しながらもアンケートを取っていく。
比較的新しいアニソンであっても、カバーすることに躊躇をしない。
どうせなら聞きたいと思わせる曲を、集めた方がいいであろう。
この収録作業については、八月が終わってからが本格的に始める。
アニソンカバーをするということは、アニメタイアップを募集していますよ、と言っているようなものだ。
今の日本の輸出製品の中では、マンガとアニメが一番伸びているとも言われる。
それに便乗して売っていくのは、確かに悪い戦略ではない。
フラワーフェスタは、正直なところ花音が歌っている時は、ノイズよりも上だ。
ただバンドのバランスが悪い。
そして楽曲も、カバーはともかくオリジナルが弱いし、カバーもアレンジが上手く出来ていない。
自分たちだけでやっているので、そこに限界がある。
もっともまだ若いので、そこの挫折をあえて、体験させようとしているのかもしれない。
俊は下から追い上げてくる存在のことを、とりあえずは忘れる。
国内ではトップクラスになったが、誰もが認めるトップなどではない。
もっとも今は既に、海外で人気の出ているバンドもあるし、永劫回帰はあちらでも売れ始めている。
その開拓してきた道のりを、自分たちも利用させてもらう。
最初に飛び込むペンギンは、それは確かに勇気のある存在だ。
しかし俊はそれより、ずっと計算高い。
成功するために躊躇がない。
それを金儲けと同時に行っている。
とにかく表現の幅を広げて、なんでも出来るようになっていく。
なんならEDMをふんだんに取り入れるぐらいの覚悟もある。
しかしヒップホップは、取り入れていない。
ラップは少し入れるのだが、正確には取り入れる感性を持っていない。
才能の限界と言えるのだろうか。
そもそもヒップホップも、その古い流れはそれなりに、俊の生まれる前からあったものだ。
月子の民謡さえ取り入れたのに、ヒップホップはラップを少し拝借しただけ。
これは才能の性質の違いなのだろうか。
「ヒップホップはいいよ。分からないし」
「わたしも」
「あたしも」
フロントメンバーもそんなことを言う。
別にヒップホップだけというわけではなく、音楽性は充分にメタルが入っているが、歌はシャウトが入っていなかったりもする。
そもそも高音を、女声であるから出しやすいというのはあるが。
現在はバンドブームが、また沈みかけている波の時代であろうか。
しかしノイズはバンドではあるのだが、単純にロックバンドでもポップのバンドでもない。
俊がいることによって、ジャンルは大きく広がっている。
それが売れている理由になるのだろうか。
Yourtubeに上げているMVは、一億を超えたものもある。
もっともこれは、アメリカでの再生数が多いからだろう。
ノイズの音楽ではあるが、俊の音楽ではない。
ただこの六人が、ノイズのメンバーではあるのだ。
「お盆休みだから、社会人も来るだろうな」
まずはフォレスト・ロック・フェスタ。
二度目の参加となるこのフェスは、またメインのトリ前となっている。
少し参加する海外ミュージシャンのネームバリューが落ちているな、と見ていて思ったりはした。
そして準備が完了していた頃に、阿部の元にはまた一つ、海外からのオファーが入っていたのである。
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