第278話 挑戦の準備

 現代のロックの源流というのは、果たしてどこにあるのか。

 ビートルズだ、という答えが一番多いかもしれない。

 それ以前のバンドやミュージシャンと、最も違う点。

 つまり自分で作曲し、作詞する。

 ただアメリカにはフィル・スペクターのような人間もいて、そもそもビートルズが聞いていた音楽は、アメリカのロックンロールであったりする。

 さらに源流を辿っていけば、黒人音楽になったりもする。

 しかし結局のところは、一般論ではなく個人としての感覚が、重要な世界なのだろう。


 アメリカにおいて成功する。

 これはビートルズもそうであったが、現在の資本主義世界において、一番の指針ではあろう。

 暁の中の基準でも、これは確かにそうであった。

 市場規模として、日本よりもはるかに大きい。

 中国などは海賊版国家なので、全く信用が置けないものだが。


 俊の言い分に感情が納得するには、少しだけ時間がかかった。

 だが次には論理的に、未来の目標としてどうなのか、それを尋ねたいとは思ったのだ。

「正直なところ、基準が難しいからな」

 少し身構えていた俊であったが、暁がちゃんと冷静になっていると分かると、そうやって話し出したのだ。

「日本国内のチャートだけだと意味がないし、今はCDが売れた枚数は関係ないし、だが空いてしまったにしてもフェスのステージなのだから、それなりに期待はしていたんだろう」

 単純なPV数などを見ると、国内の長く人気を誇るバンドより、早く数字が達成することは多い。

 もっともそれがそのまま、人気につながるとは考えにくい。


 ライブのチケットがいつもソールドアウトというのは、純粋に売上の見込みを見極めているからだ。

 ならば何を基準に海外で通用するかなど、判断すればいいのか。

 もう単純に、海外からもアクセス出来るMVが、どれだけ回っているかということだろうか。

 英語以外でも色々な言語で、感想は書かれている。

 それでも日本語と英語、そして中国語がほとんどであるが。


 日本のアニメはフランスなどでも人気なので、フランス語が多くても良さそうなものである。

 わざわざフランス人が、英語で書いてくれているのだろうか。

 もっともドイツ語や韓国語などもあるので、別にそう深く考える必要はないのかもしれない。

 だが霹靂の刻は英語が多く、この間1クールが終わった業は英語以外の言語も多かった。


 俊は悩んだ末に、一つの選択肢を考え付いてはいる。

 それは英訳したバージョンの楽曲を、MVで流そうかというものである。

 日本人のロックバンドながら、海外で英語の曲だけで勝負しているグループもある。

 ボカロP出身で、日本語と英語の二つの言語で発表しているユニットもいる。

 英語の歌詞に翻訳するのは、単純に辞書を引けばいいというわけではない。

 そこで金銭は発生するだろうが、それよりも英語版を作ったとして、それで月子と千歳が歌えるのか。


 月子は意外と、アルファベットは判別できる。

 だが根本的に、日本語の漢字の時点で多くが読めない。

 ボーカロイドに歌わせることと、さらに俊が語彙の意味を説明する。

 歌詞の物語性まで含めて、ようやくそこから歌えることになるのだ。

 そう考えると案外、月子の方が英語の歌詞に、感情を乗せることは上手くなるかもしれない。




 さて、そう考えるとどの曲を、英訳するべきか。

 単純に考えるなら、霹靂の刻は意味自体は、既に翻訳されている。

 ただその通りに歌うというのは、微妙にニュアンスが違うかもしれない。

 また単語の音の多さが、日本語とは根本的に違う。

 学校英語の歌詞や、洋楽の歌詞と同じ感覚で、翻訳してしまってもいいものなのか。

 そのあたりが俊の悩みどころなのだ。


 英語訳でのMV作成。

「今のMVにかぶせれば、それでいいんじゃないのか?」

「栄二さん、確かに霹靂の刻ならそれでいいんだけど」

「他の曲をするのか」

「ノイジーガールがいいかなって」

 これにはメンバーも複雑な顔をする。


 ノイズの中でも一番、象徴的な曲とは言えるだろう。

 原点であり、また多くの派生曲が、この楽曲のなかから生み出されている。

 ただしこの曲は、実写MVで全部自前で作ったものだ。

 口パクが合わないのである。

「するとアニメMVにするの?」

「その予定かな」

 千歳としてはまた、ノイジーガールでアニメーションを合わせるというのは、悪くないと目が言っている。

 ただその前に、英語版の収録をする必要があるのだが。


 マスター版が存在するノイジーガールだが、ライブで演奏される場合には、かなりアレンジが入っていたりもする。

 暁のアレンジもあるが、むしろ栄二や千歳の演奏で、アレンジが加わっているのだ。

 単純に千歳は、技術が向上したから。

 そして栄二はリズムキープだけに専念しなくてもよくなったため、ドラムのパターンを複雑化している。


 最初に勝負に出たのが、この曲であったのだ。

 だから英訳のトップバッターも、この曲にしたい。

 単純に市場への訴求力というなら、霹靂の刻でいいのだ。

 だが俊はこれを、象徴的な曲だと考えている。


 金になることをする、というのが俊の主義である。

 だから霹靂の刻でなくても、アニメタイアップした曲の方が、望ましいのは間違いない。

 それなのにノイジーガールを最初に持ってくる。

 ここに何か合理的な理由があるのか。

「今回ばかりは合理的な理由じゃなく、ただの感傷かな」

 らしくもないことを言っている。絶対に嘘である。


 メンバーの中での話し合いを見ていて、春菜は時に意見を求められたりもする。

 それを何度か繰り返して分かったのだが、俊はメンバー全員と話す前に、数人にその議題を相談する。 

 そして味方につくような方針にまで修正して、実際に話し出すのだ。

 根回しをしておいてから、誘導していく。

 この間の海外フェスは、その中では例外であったらしく、後に阿部がため息をついて説明したものだ。




 俊はノイズというバンドを、支配とまではいかないが、自分の制御下に置きたいと考えているのは間違いない。

 物語であればメンバーに去られる悪役ポジションなのは間違いない。

 特に今回は意見が対立したのが、天才タイプの暁であった。

 彼女はなんなら、フラワーフェスタにリクルートされるという可能性すらあったのだ。

 ただ俊はメンバーの中でも、月子と暁の二人には、ある程度の甘えのような共依存である気がする。


 月子は純粋に、俊に生活の多くの面を見てもらっているため、離れることが難しい。

 生活だけではなく、メンタルケアの多くも、俊は上手く距離を取っている。

 暁に対しては音楽の趣味に、あとは父親の代からの関係性であろうか。

 他のメンバーはとにかく、俊がしっかりと稼いでくれるリーダーであることに、強い信頼を抱いている。

 あれだけ食うのに困らない育ちの人間が、いい意味で金に汚いというのは、春菜からしても不思議に思えるが。


 ノイズが海外フェスを蹴ったというのは、当然ながら業界に流れていく。

 バイアスが複数かかっているが、確かに話題にはなっている。

「らしくないわね」

 レコード会社に一人で向かった時、彩と会った。

 偶然なのか、向こうがそのつもりだったのかは分からない。

 だが良くも悪くも彼女は、俊にとっての特別である。


 ノイズの蹴った案件は、大きなチャンスであったのは確かだ。

 もちろんマイナスの側面も、確かにたくさんはあった。

 だがそれでも、アメリカのフェスで成功したとすれば、それで補填出来る。

 二人きりではあるが、エントランスの密室でもない状況で、こうやって会話をする。

「結局のところ、自信がなかったんでしょ?」

「そうだ」

 俊も遠慮しなくていい。


 この業界には確かに、ここぞというタイミングでチャンスが回ってくる。

 それを掴めるか掴めないかで、その後の全てが変わってくるのだ。

 ノイズの売り方はむしろ、それと正反対であったろう。

 ただひたすらに、コネを利用した上で、分に合ったハコでやり続けた。

 実はこれも一つの、成功するための方法なのだ。


 常にチケットが完売になるように、ハコの大きさを考える。

 また準備にかかる費用も、ライブハウスのセットが最初からあるところを選ぶ。

 心配になったのは、初めてのツアーを行った時ぐらいだが、あれも地元のバンドと対バンして、はっきりと赤字にならないようにはした。

「チャンスは降ってくるものじゃなくて、自分で掴み取るものだと思う」

「リスクはあったけど、リターンも相当にあったはずだけど」

「何も準備が出来てなかったからな」

 オリバーなどに話して、向こうでの人気の実感を知りたかった。

 だが彼も忙しい人間なので、簡単に時間は作れない。


 絶対的な自信があれば、成功や失敗など、そもそも考えずに渡航していたであろう。

 だが準備が出来ていないのは本当のことだった。

 単純に演奏の準備だけではなく、根本的に海外に行くための準備。

 なのでこの夏の間には、パスポートも作るようには言ってある。


 本気で海外進出は考えているのだ。

 だが準備期間が足りなかった。

 あちらも穴が空いたところを、向こうで有名なバンドを探す、という条件だったのだろう。

 フェスの参加に特急料金が入っている割には、ギャラが安めであったのは確かだ。

 そんな舐められた状況で、ホイホイと向こうに浮ついた気持ちで行ってしまう。

 失敗する条件は、充分に満たされていた。




 リスクがあっても挑戦することが、必ずしもいいことではない。

 そのリスクとリターンを、ちゃんと考えることがいいことなのだ。

 もちろんそんなことを考えず、とりあえず挑戦してみる、という姿勢も悪いものではない。

 失敗が経験になるのは、音楽に限らず人生では確かなことなのだから。


 ただ今回の場合は、失敗が0ではなくマイナスになる可能性があった。

 既にあるフェスに出場の予定を出していて、チケットの販売も始まっていた。

 他にも目的のバンドなどがあるにせよ、ノイズを第一の目的として来る客もいるだろう。

 他のフェスに出るために、このフェスをキャンセルする。

 全てのファンが、より高いステージに推しを上げようと考えられる、聖人のような人間のはずもない。

 むしろファンというのは、欲望を満たすためにこそ、ファンをやっているとさえ考えた方がいい。


 俊は完全に、性悪説で動員を考えている。

 だからこそネガティブになる動きは、発生しないようにしている。

 別に客に媚びる必要はないが、裏切ってはいけない。

 この裏切りのラインにしても、かなり微妙なものはあったりするのだが。


 レコード会社の単位で見れば、空いたところを埋めることは出来ただろう。

 だがそれはノイズのファンの心を埋めたことにはならない。

 もっとも俊も後から、そのマイナス要素を最低限に出来る方法は、今後のために考えたりもした。

 どのみち今回は、準備不足というのは間違いないのだ。


 秋から始まる新アニメは、またそれなりに人気が出るかもしれない。

 そしてアメリカでも人気になれば、さすがにMVが回っていくのではないか。

 そのためにもまずは、ノイジーガールの英語版、というものを考えている。

「それも自分たちの金で作るの?」

「事務所には一応相談するけどな」

 このなんでも自分たちでやる、というところは彩には、理解出来ないことなのだ。

 もちろん彼女自身に、そんなマルチな技術があるわけでないこともあるが。


 音源の原盤権を持つことを、俊は重要だと考えている。

 インディーズだからこそ、出来るものだとも彩には分かる。

 俊は自分はともかく、メジャーデビュー直前であった信吾と栄二がいるため、その前後の動きなどを知ることが出来る。

 また岡町は俊を助手として使っているが、同時に俊にコネクションを作らせている。

 だからこそレコード会社やレーベルの資金投下なしに、これまでに稼いだ金を投資して、そういった活動が出来るのだが。


 初期に投下出来る資金があるのは重要だ。

 そもそも月子と信吾は、アルバイトをやめたり減らしたりして、こちらの方に時間をかけられるようになった。

 俊の家という居候先は、二人にとって大きな援助となった。

 なんだかんだ言って、実家が東京にあるというのは、とてつもない利点である。

 さらに言えば練習スタジオが、一切代金がかからないというのが素晴らしい。

 このあたりは、そもそも彩には考え付くことさえなかったものである。




 俊のポジションは別に、作詞作曲を除くなら、他の人間でも出来る。

 しかしそれを一人でフォローするのは不可能である。

 事務所が手配をした上でも、まだ充分ではない。

 小器用だと言われても、小賢しいと言われても、一人でそれをやってしまうのが、俊の価値なのである。


 当たり前のように、そろそろバンド内でも、ちょっとした確執はあったりする。

 だがそれを抑えるか解放するのも、俊やマネージャーの役目である。

 ノイジーガールの英訳化にしても、伝手をたどってしっかりとした人物を見つける。

 ただ訳すだけではなく、どういうニュアンスが含まれているかで、使う単語は変わってくる。

 背景事情まで含めた上で、翻訳をやってもらうのだ。

 本などと違い短い文章であるが、これが音楽に乗るからこそ、難しかったりもするのだ。


 俊の作業量を聞いていると、彩はさすがに心配にもなる。

 ただ今さら心配などをしても、それはまた二人の関係に、悪い変化を与えかねない。

(マネージャーにでも、伝えておいた方がいいわね)

 そう彩が思ってしまうぐらい、二人の関係は改善している。

 もっともあまり親しくなると、変なゴシップ記事に狙われるかもしれないが。


 二人の関係は、知られてもそこまで困るものではない。

 あの若い日の過ちさえなければ、良くあることで済まされる。

 悪いのは全て、もう死んでいる父である。

 彩はともかく俊としては、全てを父の責任にしようとは、欠片も思っていないが。


 俊は気にしていないが、彩は彩でまた、夏にツアーがある。

 アリーナを埋めるようなコンサートも企画していて、地方も何箇所も回るのだ。

 それに彩は顔がいいので、音楽以外の仕事も入ってくる。

 CMに自分の曲を使ってもらって、さらに自分も出演すれば、それだけで大きな稼ぎになる。


 ただ海外進出に関しては、彩は何もアドバイス出来ることがない。

 女性のソロシンガーで、ポップスからR&Bという路線の人間は、アメリカでは普通にありふれているからだ。

 アジア系というのも、プラス要素にはならない。

 もちろん歌唱力は高く、アメリカで受けそうな声質もあるのだが、彩のようなタイプにとっては、アメリカ市場はレッドオーシャンなのだ。


 グラミー賞に選ばれることは、彩にとっては夢でもなんでもない。

 それはただの妄想だ。

 レコード大賞を何度か取って、そして今も実力はトップレベルと言われる。

 女優としてもある程度使われているので、マルチタレントとしての需要がある。

 これ以上のことを、彩は望めない。

 そもそも想像が出来ないのだ。

 そして想像出来ない領域に達するには、それに精通したプロデューサーが必要になる。

 今の日本には、そういったジャンルのプロデューサーがいない。

 それこそ一から、アーティストと共に育っていくしかないのだ。




 だが、俊は違うのだ。

 今はまだその時ではない、ということが分かっていた。

 そしてどういった理由であれ、声がかかったことの意味を理解している。

 あちらのプロモーターが、ある程度はいけると思ったからこそ、オファーが来たのである。

 もちろん先人たちが、そうやって切り開いてきた道だからこそ、今の自分たちには楽になっている、ということもある。


 彩のような女性のソロシンガーと違って、ロックバンドの成功例がある。

 それにやっていることは音楽に特化している。

 音楽業界ではなく、芸能界で生きていくことを彩は選んだ。

 活動の一環として音楽があり、それが最も重要であることは確かだが。


 次のチャンスが来た時のためにと言うか、次のチャンスを向こうから依頼させるために、準備を始めた。

 英訳歌詞で新規録音に新規MVなど、日本の市場だけを見ていたらペイしない。

 しかしここでかかるのは、コストであってリスクではない。

 もちろんその分のコストを他に回せば、より良い仕事が入ってくるのかもしれない。

 ただ遠い目標に対して、やっていくべきことを選んでいる。


 彩は知らないし、俊もわざわざ言わないが、これによってメンバーのモチベーションが、回復したのは確かだ。

 アメリカというのは結局、世界で一番傲慢な国であるのは変わらない。

 まずは向こうに、届く音楽を作らないといけない。

 インストバンドではないのだから、英語歌詞は必要なのだ。


 まったく、目指す先がはるか未来だ、と彩は思った。

 ただこれは俊も言われてもピンと来ないのだが、今は本当に日本の音楽は、世界に拡散するチャンスなのだ。

 アニメという巨大な武器に、タイアップでついていくことが出来る。

 またネットというものがあるために、宣伝媒体が限られていたりもしない。

 世界を目指すというのも、あながち無理ではない。

 彩が本当に、ノイズというバンドが自分を超えたと感じたのは、この日であったのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る