第277話 タイミングの問題

 梅雨時というのは誰もが嫌なものである。

 そう言うと、それはそれでいい、と俊などは言うのだが。

「ギターの調子も変わっちゃうし」

「それは仕方がない」

 そして梅雨が明けて七月。

 いよいよフェスに向けての準備が始まる。

 そんな忙しい時期であるのに、ノイズのメンバーは事務所に呼び出された。

 わざわざ顔を合わせて、というのが不思議な話である。


 阿部は深刻な顔で、メンバーに告げたのである。

「アメリカからフェスの打診が来てるのだけど」

 最近は大舞台にも慣れてきた一同であるが、さすがにこれで空気が変わった。

「この時期……どれだ?」

 俊の呟きに、他のメンバーも首を傾げる。


 アメリカには大規模な音楽のフェスが、色々とある。

 伝統のあるものから、比較的新しいものなど。

 ちなみに単に規模だけで言うなら、最近はブラジルの方が、巨大なフェスを開催していたりする。

 おそらくリオのカーニバルで、巨大なお祭り騒ぎに慣れているから、というのが通説の一つにはなっている。


 準備期間的に、八月後半のフェスであろうか。

 ただフェスの出場者というのは、ぎりぎりまで変更するものなのだ。

 ミュージシャンの誰かが急病などになれば、そこの穴を埋めなくてはいけない。

 ノイズのアメリカでの知名度は、向こうのアニメーションと日本のアニメ、二本を通したものがほとんどであろう。

 かなり認知はされているが、まだそこまででもないと言うか。

 それにアメリカはヒップホップが主流なので、ノイズの音楽性は古いと思われるかもしれない。

 実際のところはテクニカルメタルとでも称すべきものなのだろうが。


 阿部は無言のまま、モニターを出した。

「マジか……」

 俊でもそう言うぐらいには、アメリカでも三本の指に入るような巨大フェス。

 その規模も内容も、さすがに資本主義国家の総本山というだけあって、動員力も桁違いだ。

 ステージが七つもあって、その中でも三万人を集めるといったところ。

「でもここって」

 暁はすぐに気づいている。

「そうか、スケジュールがバッティングするのか」

 日本のフェスと完全に、日程が重なっている。


 普段は俊だけに連絡することも多い阿部だが、さすがにこれはリーダー一任というわけにはいかなかったのだろう。

「え、どっちがいいの?」

「規模は日本のメインステージの方が上だけど、知名度とかはもちろん向こうね」

 千歳の問いには阿部が答える。確かに日本のフェスのメインステージの方が、規模としては大きいのだ。

「海外でやったら、日本でやるよりも箔が付くのは間違いないよ」

 暁の目が爛々と輝いているのは、それだけ彼女に海外志向があるからだ。

 もっとも彼女の愛したロックンロールは、アメリカでは完全に絶滅危惧種なのだが。


 やる気がある人間が多いのはいい。

 昨今の日本のバンドやミュージシャンの先達のおかげで、こんな大きなオファーも回ってくるのだ。

「けれど急すぎるな」

 こんなビッグウェーブに対しても、俊は慎重であった。

 乗るしかない、などという考えはないのだ。

「こんな時期にオファーが来るっていうのは、明らかにどこかの穴埋めだろう。それに既に出場が決まってる、こっちのフェスをキャンセルしないといけない」

 本当にノイズを求めているのならば、もっと早くに依頼があるはずなのだ。

 もう一ヶ月ちょっとしかないという時期に、普通の依頼が回ってはこない。

「それにこっちのフェスは、もう契約を交わしているし、既に発表もされてしまっている」

「一応はまだ最終決定ではないけど……」

 阿部はそう言うが、既に契約はしている以上、なんらかのペナルティはあるはずだ。

 それに何より、ノイズの音楽を期待して、チケットを買っているファンがいるはずなのだ。


 これは別に弱気なわけではない。

 イメージ戦略と契約の問題なのだ。

 もしもちゃんと先に、こちらのオファーがあったなら、ステージの規模では負けていても、アメリカの方に出演したであろう。

 あちらでの認知度を高めるとことを考えれば、確かに直接演奏するのは悪くない。

 フェスのいいところは、これまでに興味を持っていなかった人々にも、広がっていくところにあるのだ。

「違約金は払えなくもないわよ?」

「ここでは金じゃなく、日本のファンの信頼を優先しよう」

 俊らしくないのでは、とメンバーの人間も思った。




 俊にはしっかりとした計算と打算がある。

 それに時期的に、今から準備をしていては、他のことまで疎かになるのは確かなのだ。

 アメリカ進出というのは、確かに目標の中の一つではある。

 だがどういうタイミングで行くかは、ちゃんと考えないといけない。

(せめて発表の前だったら)

 完全にタイミングが悪かったのだ。


 アメリカでも三大フェスの一つにも数えられることのある、シカゴでのフェス。

 確かにメインステージではなくても、巨大ステージのどれかで演奏しただけで、充分に箔付けにはなったろう。

 昔ほど洋楽の人気はないが、アメリカという舞台で演奏することは、それなりに大きなニュースにはなるし、何より知名度を高めていく。

 向こうではもうロックが流行ではないというのも、かえって好都合だ。

 日本のポップスを融合させたロックは、むしろ新しく聞こえるかもしれない。

 ポップスに寄せたならば、普通にメロディであちらにも突き刺さるだろう。

 だが、時間が足りなかった。


「チャンスじゃん」

「時間がない」

「違約金を払ってでも、行く価値がある!」

「ただ行くだけでいいなら、俺も行っている!」

 珍しいことに、俊と暁が口論になった。


 暁の魂はロックの形をしている。

 その魂は商業主義だのなんだの、そんな馬鹿な分類は音楽に対してしていない。

 心に届くブルースがあれば、それはもうロックなのだ。

 俊が月子や千歳に注文をつけるのに比べると、暁に対してはほとんど指摘などもない。

 せいぜいが走りすぎたとか、そういう程度のものである。


 睨み合う二人の間の身長差は、ほとんど頭一つ分。

 それでもお互いに一歩も引くことはない。

「俊、俺たちの音楽は、アメリカで通用しないとでも言いたいのか?」

 信吾から言われて、俊は首を横に振った。

「通用すると思うし、実際に通用している。コメントを見ていたら英語以外にも色々な感想が見られるしな」

「それでも初めての海外だと、分が悪いと思ってるのか?」

「いや、そういうことじゃなくて」

 わずかにクールダウンした俊は、内心の感情ではなく、理屈で説明する。

「アメリカで演奏するなら、歌詞を英語訳して歌いたい」

「それは……確かに時間がないか」

 信吾としては、しっくりといく理屈である。


 日本の古いシティポップなどが、そのままで向こうで受けている、ということなどはある。

 それにアニメタイアップの曲は、様々な作品の歌が、しっかりと日本語でも受けているのだ。

 しかしニュアンスの違いというのは、どうしても存在するものである。

 それなりに英語の会話が出来る俊でも、実際には少しおかしな言葉に聞こえるらしいのだ。


 日本語のままで歌っても、ちゃんとフィーリングで伝わるかもしれない。

 ただここが、ボーカルとギタリストの違うところである。

 ギターは完全にフィーリングで伝わる。

 だがボーカルはメッセージ性が強い。

 それこそラップが流行しているのは、そこの部分があるからだろう。

 しかしノイズの歌には、ちゃんと歌詞に意味があるのだ。


 暗喩表現や比喩表現が多い。

 そのため英語に訳するには、専門の翻訳家が必要だと思う。

 そしてその英語の歌詞を、二人に憶えてもらう必要がある。

 さらに日常では使わない言葉に、二人のパッションを乗せることが出来るのか。

「けど日本語のまま歌ってる人たちもいるじゃん。永劫回帰なんかそれこそ、あれで箔付けが完了した感じだし」

「俺はどうせ行くなら、メインステージでオーディエンスを熱狂させるような、そんなステージにしたいんだ。今のノイズでそれが出来るか?」

 出来ないことは、暁にも分かる。

 正確にはやってみないと分からないが、ノイズも客を完全にノせることが出来なかったライブはあるのだ。

 海外というのはよりアウェイ感がある。

 今の自分でそれが出来る、という明確なイメージがない。


 どんな舞台でも、自分の力で熱狂させる。

 そんな絶対的な自信が、今の暁にはまだない。

 珍しいことかもしれないが、俊が明確に反対するのなら、それは確かにそうなのだろう。

 そして他のメンバーも、暁の後押しをするようなことはなかった。




 実際問題として、海外で通用するかどうか、一番自信を持っていたというか、可能性を感じていたのは月子だ。

 霹靂の刻はアメリカで、相当の回数を再生されていたのだから。

 だが月子は俊の言葉になら従う。

 俊の判断力を信じている、と言うべきであろうか。


 順番的に考えている、ということもある。

 既に出場が発表されているのに、それをキャンセルした上で、海外のフェスに出場するというのは、外聞が悪いというのも確かだ。

 ただこういうチャンスというのは、タイミングが重要ではないのか。

 そういったことを考えるのだが、判断する力は誰が持っているのか。

 おそらく俊ですらなく、阿部が一番なのだ。


 単純な経験の問題だ。

 俊も様々な海外フェスへの参加の例を、多くの媒体から知っている。

 それこそ参加した本人たちからも、聞いているのだ。

 ただ実際に参加したと言っても、参加したフェスが違えば、ステージの規模も違う。

 またそれぞれのバンドやミュージシャンの特徴も違うだろう。


 そして重要なのは、実際には体験していない、ということである。

 見聞していても、それは自分自身のものではない。

 阿部などは担当のアーティストが海外ライブなどを行ったこともあるので、まさに実体験を持っている。

 彼女自身が演奏したわけではないが、そのバックアップやマネジメントは、何度も行っている。

 だから俊は自分で判断せず、阿部の意見を聞くべきであった。

 結果が同じであったとしても、俊は自分の判断に自信がありすぎるか、他者の意見をあまり聞かない。

 もっとも影響を受けにくいというのは、自分の意思を貫き通す上では、大切でもある。

 普段からインプットを続けている俊としては、一貫性がないと言えるが。


 実際に阿部も、これはさすがに準備期間がなさすぎるのでは、と思っていた。

 もっともノイズであれば、上手くどうにかしてしまうのでは、とも思っていたが。

 それでも俊の判断は常識的で問題ないと思う。

 しかしチャンスと見たら逃さない、という暁の姿勢も間違いではない。

 結果が出てからでないと、どちらが正解であったのか、などは分からないのだ。

 国内向けに宣伝するなら、海外のフェスに呼ばれたというだけで、むしろ宣伝効果は高かったろうが。


 問題となるのはこれが、既に出場の決まっていた、フェスと日程が重なっていたということだけ。

 今はアーティストへのアンチが、SNSなどでどんどんと加熱していく時代だ。

 だから一度出場が決定したフェスを、このタイミングで辞退して、他のフェスへ参加する。

 金銭的なペナルティなどもあるが、もっと純粋にこれに誰かが気づけば、評判が悪くなる。

 もちろん海外からのフェスと聞いて、それを誇らしいと思うファンもいるだろう。

 しかし海外のフェスになど、行くだけの時間と労力と金銭が、国内と比べてどれだけ違うか。


 まさか代理とはいえ、今年に早くもそんなチャンスがあるとは、阿部も思っていなかった。

 早めにフェスへの参加を決めれば、イベンターなどに払う代金も、特急料などが発生しなくてお得である。

 今はライブハウスなどのハコを予約するのが、とても大変な時代だ。

 そのノリでフェスの参加も、早々に決めてしまった。

 アリーナでのライブはさすがに、早めに予約を入れておく必要があったが、フェスはぎりぎりまだ待ってもらえたのだ。

 ここははっきり行ってしまえば、俊と阿部のミスである。

 ミスというにはちょっと、可哀想な展開かもしれないが。




 モチベーションの維持というのは、アーティストには重要なものである。

 そしてミュージシャンでありギタリストでもある暁は、間違いなくアーティストであった。

 そのパフォーマンスに関しては、確かにメンタルが影響する。

 海外フェスの件は、もう阿部と俊の二人だけで、不参加を決めておいた方がよかったかな、とさえ思ったものだ。


 ただこういったグループの大きな選択を、誰かが事後承諾で決めること。

 これはもう不満とかではなく、分裂の危機にまで発達するのだ。

「そりゃ説明されれば分かるけどさ」

 ファミレスで月子と千歳に対して、こぼしながらヤケ食いをする暁である。

 この数日の練習に身が入っていないと、今度は彼女が指摘されたのだ。


 仕方がないことではあるが、俊がそれを指摘するのも、やらなくてはいけないことだ。

 暁はそもそも、海外志向が強いのであるから。

 もっとも今の欧米、特にアメリカと、暁の憧れる洋楽はもう、かなり傾向が変わってしまっている。

 基本的に暁は、ヒップホップはあまり聞かない。

 魂がロックではあるが、音楽性もロックが好きなのだ。


 実はビートルズやストーンズ、ヤードバーズあたりの初期曲は、さほど好きではなかったりする。

 ハードロックからメタルに入って、グランジになるあたりまでが好きなのだ。

「俊さんはちゃんと、分かってると思うよ」

「正直一ヶ月後に海外でライブって言われても、わたしは切り替えられなかったと思う」

 覚悟がついていない月子である。


 ステージを段階をかけて、登って行くというイメージがある。

 全国ツアーをやって、それからフェスのメインをまたやって、その次が海外展開か。

 そういったイメージならば、漠然と持つことが出来ていた。

 霹靂の刻でアメリカに受けた、月子でさえそうだったのだ。

「あたしは今さらアメリカで受けるのが凄いとは思わないけど、話が急すぎるのは確かだよね」

 千歳としてもアニメタイアップ曲が、向こうでバズっているのは知っている。


 ただ千歳もやはり、その元となるのはバラードであったりカントリーであったりするのだ。

 ヒップホップが主流とはいえ、だからこそ食傷している人間もいるのでは。

 そう千歳は考えるが、日本のラップが向こうでバズったりもしている。

 大学では向こうの話も聞くが、日本のヒップホップスタイルは、まるで黒人スタイルの模倣、というものが多い。

 実際のところは日本語だからこそ、上手くラップをやっているという者もいるのだが。


 千歳はいまだに、免許が取れていない。

 この夏休みには教習所に通って、さすがに取らないといけないと思っている。

 暁は既に取ったものだが、今のままではペーパードライバーになりかねない。

 車を自分で買ったなら、少しは乗る機会も増えるのかもしれないが。

 引っ越した物件は、近くに駐車場があったりする。

 ただ東京の駐車場は、とんでもなく料金が高い。

 いい稼ぎをしている暁だが、一人暮らしに加えて車まで買ってしまうとなると、なんだか急に生活が変わるような気がする。


 ロックスターという自覚はないが、ギターを安全に運ぶためには、車は確かに便利ではあるのだ。

 もっとも都内のライブハウスなど、結局は駐車場が限られていたりする。

 郊外などに移動する時は、確かに便利なのかもしれない。

 しかしそれも行き先が限定されているなら、タクシーを使った方がいい。

 もっとも最近は、タクシーも少なくなっているのだが。


 フェスまでには暁も、ちゃんとメンタルを立て直してくるだろう。

 そう期待してはいるが、果たしてどうなることか。

 メンタルが不安定な月子や、そもそも下手な期間が長かった千歳に比べれば、暁は安定していたと言えよう。

 そして単純に安定していただけではなく、ライブではちゃんと爆発していた。

 その爆発がなくなったギタリストが、どんな演奏をするのか。

 前にも千歳がフォローしたことはあったが、あれは偶発的な事故によるものだ。

 今の暁のメンタルケアは、それこそマネージャーの春菜にも頼みたいところであった。

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