第276話 日常との乖離
千歳は人間の悪意を感じている。
高校時代はむしろ、学校の人気者枠であった千歳だ。
しかし音大の中では、嫉妬と嘲笑が彼女に向かってくることが多い。
そんな中である程度心を許せるのは、シュリとそこからつながっていった関係である。
またやはり既に結果を出しているということで、打算目的で近づいてくる者も分かる。
それならそれで、むしろ分かりやすい。
ギタリストの中には千歳を格下扱いする人間もいるが、千歳の本質はボーカルなのだ。
「おうおう、暁連れてきてやろうか、おう」
こんなことを実際には言わないが、それぐらいの気持ちではいる。
ただどうやらそういったギタリストは、本当に暁には会ってみたいらしい。
レフティの女ギタリスト。
ハーフで父親は伝説的バンドのギタリストで、本人は本番のステージの上で脱ぐ。
ちょっと属性が集まりすぎな暁なので。
千歳は大学でしっかり、知識や技術を蓄積している。
すると今まで自分のやっていたことが、どういうものであったかも分かってくるのだ。
そして大学の中には、暁よりもギターの上手い人間はいない。
また俊よりも凄い人間もいない。
当初思っていたよりも、千歳よりギターの下手な人間はそれなりに発見した。
だからといってそれを笑うことなどありえなかったが。
ノイズのトワというのは、ポップスの世界では知名度が高い。
高校からギターを始めて、インディーズレーベルのくせにメジャーシーンで活躍する、かなり特殊な存在だ。
ただ案外ノイズにおける、俊の拝金主義的なところは、知られていなかったりする。
また俊は明らかに、フィーリングではなく頭を使って音楽活動をしている。
俊は頭脳、月子は情念、暁は感性。
ならば自分は何を使っているのか、と考える千歳である。
内にあるものは衝動だ。
それを上手く表現するためには、叫びが必要になる。
今でもボイストレーニングには、週に一度行っている。
ただこれはトレーニングと言うより、調整のようなものになっている。
千歳の声は耳に残るものだ。
あとはこれにどれだけ、歌詞の強さを乗せていくのか、という話になっていく。
夏は二度のフェスとアリーナライブは決定している。
だがそれ以外にもそこそこの大きさのハコで、何度もライブは行うのだ。
音大の課題というのは、それぞれの大学によって違うし、専攻する課程によっても違う。
千歳の場合は作曲の方面の知識と技術を磨いていく。
どうも俊は将来的には、千歳にそちらを任せたいらしい。
ただメロディラインを作っていく作業などは、暁の方が向いていると思うのだが。
千歳は叔母の影響で、本を読むことが多い。
本棚にある紙の本を、だいたい一冊はバッグに入れている。
叔母の文乃はそれなりに、千歳に付き合ってアニメなどを見たりもする。
そして感心することもあれば、途中で興味をなくすこともある。
基本的に彼女は、テンプレ作品には一切の価値を認めない。
児童向けのファンタジーが得意であるのに、進撃の巨人や鬼滅の刃は大好きであったらしいが、そちらもマンガの方が好きであったそうな。
本を読む人間というのは、アニメとは相性が悪い場合もある。
映画などはそれほどでもないのだが、ドラマなどとも微妙であったりする。
理由を訊いてみたところ、時間の支配が下手くそであると、見るのが辛くなるらしい。
本で言うならばテンポなのかもしれないが、それもちょっと違うのだ。
どれだけの時間で、どれだけの情報量が、視聴者に伝わってくるか。
マンガならば一瞬であっても、アニメやドラマであると、話すスピードによって間が悪く感じる。
原作を知っていると、自分のペースでそれを読むため、アニメでのたのた話されるスピードに違和感があるのだ。
映画だと大丈夫というのは、そのペースまでがしっかりと作りこまれているから、という理由らしい。
もちろん作りこまれていない映画もあって、それは途中で見るのをやめる。
話のオチが気になるなどの例外はあるが、そういった稚拙な映画はおおよそ、オチなどもつまらないのだ。
千歳はそこまで徹底していない。
ちょっとした違和感などはあっても、そのまま流して見ていく。
むしろ映画などは、一気に長めの時間を必要とするため、30分以内で続いていくアニメの方が見やすかったりする。
二人に共通して言える価値観は、はっきりと言えるものが一つある。
某国の長編ドラマは全て、見るだけ無駄、というものである。
一年を通した大河ドラマでさえ、今はもう見ることは少ない。
むしろ文乃などは、千歳が生まれる前の大河ドラマなどは、改めて見ることがあるらしい。
ただそちらは千歳が、あまり興味のない分野だ。
シーズン物のドラマであっても、面白いのはせいぜい3ぐらいまで。
それ以上は問題の根本的な解決がなされないのに、惰性でどんどんと続いていく。
もっとも千歳はアニメタイアップによって、業界の内情を少し知ることが出来た。
そこで大きな問題として分かったのが、アニメスタジオの不足である。
同じシーズンに50本も60本も、アニメは放映されている。
だが千歳がそこで見るのは、いくら多くても10本までだ。
本当に楽しみな作品が、五本もあれば大当たり。
そして大当たりしたアニメこそが、なかなか続編が作られなかったりする。
特に原作はさほど強くないのに、アニメ化で大きく人気になったものは、その傾向にあるだろうか。
もっとも続編を作るスタジオが、変更になるということも珍しくはない。
CDが売れなくなった時代の音楽業界より、さらに現場に金が還元されていない。
それがアニメスタジオの世界である。
俊が上手くやってくれているからという状況もあるが、千歳の収入は相当のものである。
それこそ学費を全部払い、一人で生活をしながらも、贅沢が出来るぐらいに。
ただ時間があれば、そこに俊は仕事を入れてくる。
千歳の場合はそれに、勉強の時間の方も多く取られる。
アニメスタジオが不足しているのだ。
正確に言えば、優れたスタッフを持つ、アニメスタジオが不足している。
資金を確保するのは、昔に比べればずっと楽になったという。
それはなぜかと言うと、スポンサーが違う方向から付くようになったからだ。
ネット配信限定の作品でも、充分に資金が投入されたりする。
1クールを作るのに五億以上の金が動くというのも、珍しくはなくなっているらしい。
ただしこれが、ちゃんと現場まで回ってきているのか。
そこは怪しい話になってくる。
それなりの重要なポストで、全世界でとんでもなく売れたとしても、給料にはそこまで反映されない。
基本的には版権が、会社に所属するからである。
音楽で言えばノイズは、原盤の権利を自分たちで持っている。
だから曲が売れれば、そのうちの15%ほどがノイズの収入となる。
俊に限ればそこに、6%の作曲と作詞の印税が加わってくるが。
これに関してはこの二年など、月子の収入が俊を除いた他のメンバーより、ずっと多かったりもした。
霹靂の刻がアメリカで、ガンガン使われたからである。
日本でも多く使われたが、やはり市場の規模が違う。
物価の違いや円安の影響で、向こうで売れたら大きな収入になるのだ。
ライブなどを行うのは、もちろんファンのためではある。
それに暁などもライブをしなければ、モチベーションは下がるだろう。
ただライブをすることで、それに必要なスタッフに、給料を払うことが出来る。
これが事務所やレーベル、音楽業界にとっては重要なのである。
アニメスタジオほどではないが、ライブハウスも需要は多くなっている。
そしてライブハウスは規模によって、ちゃんと需要が変わったりする。
ノイズの場合はある程度の規模であれば、キャンセルがあればそこに入ったりもする。
機材などのセッティングは、最初からライブハウスにあった場合、スタッフは最低限で行えるからだ。
チケットの金額は、あまり高くなりすぎないようにする。
ならばネット配信でもいいではないかと思われるが、そこがライブの体験の違いなのである。
耳で聴いて、目で映像を見るだけではない。
肉体で体験してこそ、ライブなのである。
ノイズのMVについても、かなりアニメーションを使ったりしている。
アニメスタジオが不足しているとは言ったが、逆に突然にラインが空いてしまったりもするのだ。
また下請けのアニメスタジオであれば、そのラインを埋めようともする。
そこに依頼をして、数分間のアニメを作るのだ。
どれだけのカットが必要で、どれだけの動画枚数がいるのか。
そのあたりはさすがに、俊でも専門外ではある。
もっともアニメのコンテに関しては、ちゃんと作ったりもする。
手間がどれだけかかるのか、そういったところまでは分からない。
一番最初のノイジーガールのMVなどは、よくも自分たちだけで作れたものである。
またノイズはデザインに関しても、原案は自分たちで出したりしている。
居候の佳代に、ちゃんと依頼として作ってもらったものもある。
なお一番最初のデザインは、権利も含めて全て買取であった。
それが相当に売れているのだから、佳代としては頭を抱えたところだろう。
確かに音楽は、才能がなければやっていけない。
ただその才能というのは、単純な音楽だけではない。
金を儲けるという、世俗的に思える才能。
しかしこれがなければ、持続して音楽をやっていくのは難しいのだ。
バンドがあったとして、10年後も生き残っているのはどれぐらいか。
10%を簡単に切っている。
ただそのバンドメンバーの何人かは、新しいバンドに入ったり、なんらかの形で音楽に携わったりしている。
アニメ制作会社も、そこまでひどくはなくても、それなりに倒産していたりはする。
ただスタッフがそのまま、アニメ業界から消えてしまうはずもない。
技術があったとしても、会社として上手く儲けていけなければ、それは続かないのだ。
これがさらに極端なのが、ゲーム業界であると言われる。
ゲーム業界に関しては、特に下請けに関しては、独立から10年後には、3%程度しか残っていないと言われる。
ただしこれもやはり、スタッフ自体は他の会社に再就職したりしている。
ジブリにしても初期は、作品は評価されても、興行収入は微妙であった。
ここでプロデューサーが入ると、しっかりと利益が出せるようになる。
もちろんプロデューサーの力だけではなく、広告代理店の力でもあるのだが。
ただしオリジナルアニメは、監督か総監督の、個人的な才能によるところが大きい。
結局は才能もともかく、どれだけ継続していけるシステムを作るか、というのが重要であるのだ。
この点で大成功しているIPなどは、ウマ娘が上げられる。
これの何が素晴らしいかというと、新しいキャラクターが必ず、毎年生まれてくるという点だ。
実在のサラブレッドをモデルにしている以上、競馬が消滅でもしない限り、新しいキャラをどんどんと出していける。
キャラクタービジネスとしては、大成功のものなのである。
擬人化というものは、もっと古くから行われてきた。
あるいは過去の英雄の、キャラクター化とでも言うべきか。
戦艦や駆逐艦の擬人化、あるいは国の擬人化というものさえあった。
しかしそれは限度がある。
対してサラブレッドは、毎年新しい馬がスターホースとなるのだ。
馬主の許可が下りない、という一部の例を除けば、これはキャラクタービジネスとしては半永久的に食えるものだ。
ただでさえ競馬というのは、国の認めた公のギャンブル。
ここから競馬に入っていって、馬券の売上まで上がっていったりするのだから。
音楽の話では、ある程度単純であり、そして耳に残る楽曲が、何年も後に映画に使われたり、CMに使われたりする。
なので長期的にも、著作者には収入が入ってくる。
曲ではなくボーカルの声に魅力があるなら、原盤権を持っているところに収入がある。
つまりノイズにそれがあるのだ。
純粋に曲だけで売るよりも、タイアップの方が強い。
アニメが見られるたびに、その曲も流れるのだから。
ただ現在、ネットによって発信が拡大しすぎて、問題になっていることもある。
切り取り動画に使われている曲が、完全に無断であったりする。
実は既に、ノイズの曲もこの被害には遭っている。
しかし現時点では、これに対して法的な措置などは取らない方がいい。
マンガやアニメの二次創作は、同人誌として販売している場合、完全に著作権に抵触している。
それをあえて見逃しているというのは、知名度が高まるのを期待しているからである。
逆に欧米の場合は、これには厳しい。
マスコットの無断使用が、絶対に許されない場合がほとんどだ。
日本においても二次創作で、年齢制限のされている分野には、完全にアウトになっている作品がある。
これは幼年向けにも展開している場合、そちらに流出してしまった場合、大きなイメージダウンになったりもするからだ。
もっとも80年代ぐらいまでは、このあたりの認識は相当に緩かった。
また日本の場合は、二次創作によってその認知度が、高くなっていくことさえ計算されていたりする。
俊も阿部と同じように考えて、少なくとも今の段階では、よほど悪質なものを発見でもしない限り、発信を停止させたりはしない。
悪名も美名も名声は名声と言われるように、とにかく認知度が高い方が、有利とされてはいるのだから。
これは別にキャラクタービジネスだけではなく、政治の世界でも同じようなことが起こる。
元芸人の政治家というのが、なぜそれなりに存在するのか。
明らかに言っていることがおかしいのに、それを支持する人間がいるのはどうしてなのか。
頭の悪い発言というのは、逆に目立つからである。
そして頭の悪さを確実に見抜けるほど、日本の一般人は賢くないらしい。
ただ日本においては、与党勢力の内容に、問題があったりもするのだが。
ノイズは現段階でも、まだ知名度を上げていくところだ。
紅白に出ることで、少なくとも日本の世帯の10%以上には、一度は名前を聞いてもらえただろう。
だが今さらではあるが。この簡潔すぎる名前には、もうちょっと何かなかったのか。
とはいえ逆に今から変えると、昔から知っているファンの中では、混乱が起きるかもしれない。
やるとしたら、前か後ろに何かの単語をつけるぐらいなのだが。
千歳は大学においても、俊の作成中の曲を、聞いていたりする。
それに友人たちと夏休みの予定を話していても、ほとんどはフェスやライブ、それに対する練習で埋まっている。
ここで練習をサボって、遊びに行くという選択がない時点で、千歳はミュージシャン向けではあったのだろう。
もっともあのステージでの歓声に魅了されてしまった人間は、他のものでその欲望を満たすことは難しい。
千歳も一般人並には、そういった欲を持っているのだ。
大学の講義などに関しても、千歳は四年で卒業する必要はない。
極端な話、大学よりもバンドを優先した方がいいのだ。
それによってエリートサラリーマンよりも、はるかに大きな年収を得ることになる。
もっともこの大学は、かなり緩い部分はある。
学ぶ側に意欲がなければ、無駄であると分かっているのだろう。
課題の提出に関しても、千歳は自分に不要だと思えば、ほとんどコピーしたようなものを提出する。
優先順位を間違えてはいけないのだ。
このあたりは俊の、音楽第一主義というところが、彼女にも適用されているのだろう。
暁もまた同じであったし、月子も同じであった。
他のバンドのヘルプに入るのは、ほとんど信吾と栄二だけであるのだ。
このあたり俊は、かなり長いスパンで見ている。
ノイズが第一戦で活動するのは、おそらく10年程度であろうと。
むしろそれ以上、自分の作る曲が、ずっと売れ続けると思えない。
それが俊の、自分の才能に対する限界と言うべきか。
そしてそうなれば、ノイズのメンバーはそれぞれの道を進んでいくことになるだろう。
月子に関しては霹靂の刻のおかげで、安定した収入がずっと入ってくるのだろうが。
暁はこの業界で生きていくだろうし、千歳には選択肢を増やすために、大学進学を勧めた。
そこまでやっていて、はたして自分はどうなのか。
誰かをプロデュースしていく方に回っていくのか。
確かにそういった技術は、自分にあると思っている俊である。
ただ今はまだ、その頂点への道の途中。
音楽の夏の前に、俊のやらなければいけない仕事は山積みであった。
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