第265話 過去と未来
俊は自分に才能はあまりないが、環境には恵まれていたと、しっかりと認識していた。
逆に月子の場合は、ある意味では才能はあった。
努力がそれほど苦にもならないという才能。
それは音楽が好きというぐらいに、同じく重要な才能である。
俊はもう音楽に対して、好きと単純に言ってしまうには、あまりにも巨大な感覚を持ってしまっている。
執着の強烈さとでも言おうか。
そういったものもまた、才能の内に入れてしまうべきだろう。
普通の家庭で育っていたならば、高校ぐらいまでには音楽を諦めていた。
しかし親の残してくれたものによって、なんとか続けられていたのだ。
そして才能と巡り合った時、自分の中に蓄積していたものを、ようやく解放することが出来た。
月子の存在によって、俊は救われたと言ってもいい。
もちろん今となっては、月子だけのおかげだとも思っていないが。
ノイズは若手バンドの中では、トップレベルの人気となった。
もっとも今はバンドよりも、ユニットの時代になりつつあるのかもしれない。
ただ日本の場合は、ずっとバンドブームが定期的にやってくる。
ボカロPから多くの才能が、コンポーザーとして生まれてきた。
これが上手くアニメとタイアップすることで、確かにサブカルチャーとして今、90年代以来の出来になっているのかもしれない。
最も自然な形で、日本のポピュラー音楽が、世界中に浸透している。
しかし実際のところは、日本の音楽で育った、欧米のコンポーザーまでいたりするのだ。
現在では日本で、最新のアメリカの音楽というのは、あまり聴かれない傾向にある。
メッセージ性の強いヒップホップが、言葉が通じないがゆえに聴かれないのとは、また別のことだが。
アメリカの音楽は意外なほど、コード進行が単純であったりもする。
変に転調などを入れると、踊りにくくなるというのも理由らしい。
ロックが死んだなどと言われるのは、そのあたりの傾向も関係しているのか。
今の音楽業界は、ロックが死んだというのではないと思う俊である。
ロックスターが死んだというなら、まだ分かる。
かつてのロックというのは、反体制と言うべきか、常識から離脱したいという時代性があった。
エキセントリックであり、ものにもよるが犯罪などをしでかしても、むしろ格が上がったような感じさえした。
しかし今の潮流は、そういうものではない。
日本にしても暴力団が、地方での興行のケツもちをしていた時代とは、全く違うのだ。
60年代から70年代は、まさに日本の高度成長期が、安定してきた時代であった。
そして90年代は音楽のCD販売全盛期。
ただその少し前に、バブルは弾けている。
文化的にはバブルの遺産が、まだ続いていたとも言える。
本当にバブルが弾けても、実際に貧しくなったという感覚はなかった。
おそらく本当にそれが実感されるようになったのは、就職の氷河期世代あたりからではなかろうか。
仕事に就けないというのは、確かに実感として分かるものだろう。
そこからまだしばらく、洋楽も聴かれる時代は続いていたのだ。
しかし今では完全に、洋楽が日本でヒットすることはない。
もちろん人気の海外ミュージシャンはいるが、年代が近づけば近づくほど、聴かれなくなっていると思う。
これはネットなどでの、切り貼りの文化が影響しているとも言える。
ドラマやアニメを倍速で見て、話の流れだけを確認する文化。
音楽すらも倍速で聴く、ということをやっている者がいる。
もっともそれは昔から、技術としては存在していた。
しかし聴く側があえてそれを選ぶ、などということは少なかったはずなのだ。
時間が貴重になりすぎている。
そもそも消費するためのコンテンツが、多くなりすぎているのだ。
無料でいくらでも、作品を楽しむことが出来る時代。
これに危機感を抱かないのなら、それはよほど頭の出来が明るいのだろうと俊は思う。
俊にしても時代性というものを、無視しているわけではない。
だがやっている音楽のジャンルは、ハードロックに源流を持つようなものだ。
60年代から80年代の洋楽、そして90年代の邦楽。
俊がルーツとしているのは、そのあたりの音楽である。
しかし彼が専門としたのは、三分以内で終わる楽曲が多い、ボカロ曲のジャンル。
もっともボカロ曲であっても、五分を超えるような曲もしっかりとあるのだ。
ただボカロ曲はボカロ曲で、欠点はあるとも思う。
音を重ねすぎているな、と思うところはあるのである。
また一つのヒットを生み出したら、それを再生産するようなボカロPもいる。
それはそれで、しっかりと需要はあったりするのだが。
徳島はおそらく、一番ボカロPの出身の中で、独自性を持っている人間だ。
TOKIWAなどもパターンは豊富だが、それをどのように変化させていくか、案外複雑ではない。
ボカロ曲は打ち込みで作るために、バンドに比べればずっと多くの、音を重ねることが出来る。
その複雑さは技術では優れているが、フィーリングに優れているかは微妙である。
またボカロ曲の中には、ネタに特化したものもある。
それらは愛されはするが、商売にするのは難しい。
SNSでバズることは、簡単な成功のルートである。
実際にはそのバズることが、計算して出来るわけではないのだが。
ただそれでも俊は統計やバランスなどを考えて、どういった曲が好まれるのかを考えている。
しかしネットでただ受けるだけではいけないと、それも確かなことなのだ。
一度ある程度の人気曲を作れば、そこからは評価される。
別にネットに限ったことではなく、昔から音楽の世界ではあったことだ。
ブレイクした後に、ブレイク前の曲をセルフカバーでパッケージを変えて売れば、100万枚に達する。
実際に昔はあったことである。
認知度が高くなければ、そもそも聴かれる対象にすらならない。
俊はその一度目が、本当に難しいのだと分かっている。
サリエリとサーフェス、そしてこしあんPと名前を使い分けた理由。
それは実験をまず行って、傾向を掴もうとしたものである。
ボカロP出身者は、もう商業的に受け入れられる曲を作っている。
しかしながらボカロ曲の最先端は、パターンをどう使うのか、とそんな動向にもなっている。
同じような曲ばかりに聞こえるようになるのは、果たして自分の感性が鈍ったのか、それとも本当にテンプレパターンが使われているのか。
コード進行に関してなどは、昔から確かに同じようなパターンが多い、というのは言われている。
むしろ日本の音楽の方がコードは多く使われているが、それは技巧に走りすぎだ、などということも言われたりする。
技術的に優れているのが、悪いはずがないのにである。
ただその動きは、洋楽の80年代にもあった。
技術的に優れていて、ファッションも独特のものとなる、メタルの台頭。
それに対して商業主義と言ったのは、皮肉にも爆発的に売れてしまったグランジであったが。
アメリカのような本物の経済原理が働く中で、売れる音楽ではなく本物の音楽をやる。
皮肉にもそういった音楽は、若者に圧倒的に支持されて、爆発的に売れてしまったわけだ。
現在はネットの時代だ。
そしてネタ曲と普通の曲が、共存している。
ボカロ曲はメルトから、かなりその方向性が変わった。
千本桜は一般認知度で最初に高くなった曲かもしれないが、ボカロPの方向性を変えたという点では、メルトの方が重要かもしれない。
ネットとなると今は、サブスクの問題になる。
ノイズはその中で、ほとんどの曲をサブスクには流していない。
MV付きでYourtubeには、何曲も流しているのだが。
アメリカの場合はサブスクのプラットフォームが、直接ミュージシャンと契約して、大金で独占という手段を取ったりもしている。
実際にそれで、ヒップホップ系の大金を稼ぐミュージシャンがいる。
ただ俊はずっと、サブスクに関しては懐疑的であった。
特にそれは、90年代に一世を風靡したシンガーが、自分の曲を全て引き上げたというあたりで、確信に近いものになっている。
フィジカルの媒体か、それでなくともネットから独立したデータとして存在していないと、突然に聞けなくなる音楽がある。
それにプラットフォームに払う金額も、かなりの割合を取られてしまっているのだ。
かといってCDが100万枚売れた時代には、もう戻るはずもない。
レンタルCDの最大手でさえ、どんどんと店舗を縮小していっているのだ。
とんでもない回数を再生されるか、独占配信の契約を結ぶかすれば、サブスクでも稼げるのだろう。
だが俊としてはまず、独占配信は選びたくない。
一つのチャンネルだけで配信するというのは、広く聞かれない危険性を秘めている。
アニメにしても配信が一つ独占であると、そのクオリティはいいのにもかかわらず、人気が出ないということがあるのだ。
なのでサイトからのDL販売が、CDのフィジカル以外の提供となっている。
そして無料で聴けるのは、Yourtubeである。
本当ならこちらも、全ての曲を流したいのはある。
広告さえつければ、全ての人間が接続できる。
また有料会員にさえなれば、その広告すらも無視できる。
再生回数に従って、収入になるのは他のサブスクと一緒だ。
しかし利用している人数の母体が、圧倒的に違う。
京都のライブは地元のバンドに前座で一曲をやってもらい、そこから二時間をノイズが担当するというものであった。
最初の頃は月子と暁の二人で、全力で数曲やっただけで、歩けなくなるほど消耗していたものだ。
今は単純に力を出すのではなく、どうすればちゃんと伝わるかが分かってきている。
変に力を抜くことを憶えてしまうと、それはそれでライブ感がなくなるので、それも困りものではある。
しかしライブというのは、曲のアレンジがマスターとは違ったりするものだ。
その違いによって、盛り上げていく。
このあたりの役割が、リードギターには主に期待される。
純粋にマスターとして聴くだけならば、確かにメッセージ性の分かる歌詞の部分が重要だ。
ただライブとなると高揚感も重要となる。
その場合はギターソロのアドリブが、盛り上げるのには一番となるだろうか。
ドラムの巨大な音も、それはそれで魅力的だ。
またメロディーを奏でるならば、キーボードも悪くはない。
しかしやはりギターであるかな、とは俊もずっと思っている。
このあたり古い洋楽であれば、ディープ・パープルなどがかなり、ギターと同じくキーボードを重視していた。
右手と左手が使えて、音階も広い。
また叩きつけるように素早く弾くのも、指先の動きだけで出来る。
ノイズの楽曲の中には、他に三味線のアドリブが入ったりもする。
そして三味線というのは基本的に、アドリブがものをいうものであったりするのだ。
ノイズはリズム隊が、しっかりとグルーヴ感を出している。
バンドとしてのバランスが、この六人で完全に取れているのだ。
そしてボーカルとギターの中間で、千歳がリズムを取りながら歌っている。
隙間をぴったりと埋めた、この六人目のメンバー。
もう二年半以上、もうすぐ三年が結成してからの年月となる。
完成形ではあるし、だからこそ変化していくことが出来る。
それが今のノイズだ。
そしてこの京都でのライブでも、物販で色々と売れるものがあった。
その中で俊が、一つの基準として見ているのが、やはり音源である。
CDをどれだけ買ってくれる人間がいるか。
今の時代にわざわざ、形が残るものとして買ってくれる人間。
そういう人間はおそらく、熱心に布教をするような人間でもあるのだ。
また京都は大学生が多いと、月子からも言われている。
つまり若いファンを獲得しやすい街ではないのか、と俊は考えているのだ。
実際のところノイズは、古い曲をカバーしたりして、ファンの年齢層はバラバラであったりする。
だがちゃんと、若いファンも多いのだ。
メンバー内の年齢も、一番年上と年下の間に、10年以上の差がある。
このあたりカラーが変に一色に、なってしまわない理由であるかもしれない。
京都はまだしも、CDを売っているショップが残っている。
だが地方都市になると、もう一軒もなかったりするのだ。
それでも本当に欲しければ、今は通販という手段がある。
ただどうせならばライブに行って、その勢いのまま買ってしまいたい、と考える人間もいるだろう。
実際に今は、いくらでもネットで手に入る時代であるのに、物販で売れるということはあるのだ。
特にまだメンバーが手売りしている段階などであると、ファンは直接声をかけてきたりする。
もっともノイズの場合は、月子の顔隠しがあったため、すぐにそれはスタッフに任せるようになった。
ただライブアンケートに関しては、ずっとしっかり目を通している。
今の時代、ネットでのアンケートなどというのは、あまりアテにならないと俊は考えている。
なぜならばスマートフォンのSNSなどで、一瞬で投票が出来てしまうからだ。
わざわざライブまで来て、そしてアンケートを書いてくれる。
そういうファンの意見こそが、より重要視すべきものなのだ。
もっともそこは、コアなファンばかりを重視しても、それはそれで問題と言える。
古いファンを大切にしつつ、新しいファンも獲得する。
両方しなければいけないというのが、大変なところではある。
ただそれは別に、音楽に限ったことでもないだろう。
野球などは極端な話、音楽よりもよほど分かりやすい。
身体能力が落ちれば、どれだけのスタープレイヤーであろうと、引退するしかないのだ。
音楽はそれに比べれば、まだ蓄積していくものがある。
60年代から70年代のスーパースターが、今でもライブツアーなどを行っている。
もっともそれは金を儲けるためではなく、全盛期に必要だったスタッフを、食わせていくためであるとも言われているが。
また本場ではどうであれ、海外であれば全盛期の威光が、まだ残っている。
日本であっても過去のスーパースターがやってくれば、それなりの動員が可能なのだ。
ただ日本の場合は、本当にもうそういった、娯楽に使う金がなくなってきている世帯が多いらしい。
俊はそのあたり、なんだかんだと金に困ったことがないので、どうも実感出来ないのだ。
これは確実に欠点である。
京都でのアンケートの結果は、それほど目新しいことは書いていなかった。
目立つ意見としてはやはり、カバーでもっと色々と聞かせてほしい、というものだった。
他のバンドであれば、オリジナルであることにプライドを持つのだろう。
だが俊にはそういったところはない。
名曲であればその根底をしっかりと保ち、アレンジの許可さえ出ればやってみるのだ。
もっともそれをまた京都でやるのかというと、それは難しい話だ。
カバー曲こそライブでやらなければ、意味がないものだ。
ネット配信で流したとしても、その著作権料は元の作曲作詞を行った人間のもの。
初期こそノイズは、カバーアルバムを作ってはいた。
だが最近ではもう、白雪の作った曲が例外的なだけで、オリジナルばかりを配信している。
ただ、アニソンカバーをやるという計画は、前からずっとある。
最近は忙しかったために、後回しになってしまっていたが。
稼ぐためにすることの、優先順位を間違えてはいけない。
アーティストはやはり、オリジナル曲をどれだけ出来るか、というのが一番大きな問題であるのだ。
過去の名曲をライブの頭に持ってきたり、そういうことはやってもいい。
だが今は配信するにしても、金銭的なメリットが全くない。
このあたり東京でライブをすれば、色々とカバー曲が聴けるので、ファンとしては喜んではいる。
ただ重要なのは、これをちゃんと届けることだ。
そのために必要なのは、CDとして売ることなのだ。
そして選曲も重要になるし、レーベルをどう使うかも重要になる。
ここがいまだに、ノイズがインディーズレーベルでやっている理由だ。
もっともタイアップ曲などは、そのマスター音源そのものは、メジャーレーベルから出したりもしている。
そこは大きな金額が動いているため、どうにもならない。
インディーズで発売する場合、マスター音源を新たに作り直している。
面倒な話だと思うかもしれないが、そうしないと金にならないのだ。
俊は金に困ったことはないが、それはあくまで生きていくためのレベルである。
大きな演出を行ったり、ツアーをしたりする場合は、やはり金が必要になってくるのだ。
昔は全て自分たちで、やったものだと懐かしくも思う。
だが今ではハコの規模が多くて、とても自分たちだけではどうにもならないことが多い。
武道館などはそれが、はっきりと分かった例である。
意外と完全にライブ専門のハコだと、1000人規模でもどうにかなったりする。
しかし今回のツアーの場合だと、機材の搬入なども自分たちではしないため、どうしてもスタッフが必要となる。
下手をすれば都内で、300人のハコでやった方が、金になるという場合も確かにあるのだ。
そのあたりはまた、違った問題になってくる。
確かに自分たちの収入を、確保するのは重要である。
しかし音楽業界には、裏方の人間が大量にいるのだ。
そういったところにも仕事を生まなければ、いざ武道館などといった時などは、スタッフが足りなかったりする。
もちろんスタッフを完全に、自社だけで揃えているわけではない。
イベント屋を通じて手配などもしているが、そういった計画も全て、最終的にやっているのは阿部なのだ。
やりたいことはある。
しかしそのためには、普段からやっておくべきこともある。
それとは別に、金も稼いでおきたい。
そのあたり一人暮らしをしていた月子や信吾、それに家族持ちの栄二ははっきりと分かっている。
暁と千歳には、まだそういった意識はないだろう。
なにせ彼女たちは、チケットノルマを捌く苦労さえ、したことがないのだから。
今さらであるが、ノイズは上手くいきすぎた。
ここで変に調子に乗って、何か悪いことが起きるのではないか。
関西遠征のツアーにおいて、全くそんな兆候もないが、俊はなんとなくそう思ってしまうのであった。
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