第262話 大学バンド
ポピュラーミュージック系の大学に来るというような人間は、既にセミプロレベルに達していたりもする。
実力はあるが売れていない、というミュージシャンはいるのだ。
そしてきっかけさえあれば売れる、と思い込んでいるミュージシャンは、それよりもはるかに多い。
そんな中に千歳は放り込まれた。
ノイズの中ではギターボーカルとして、サブボーカルとリズムギターを担当する。
だが曲によっては彼女がメインで歌うことも少なくない。
きっかけさえあれば、自分も。
そう思った者は多いが、実際に千歳の歌を聴けば、ショックを受けることは大きいだろう。
なんだかんだ言いながら、ボイストレーニングはずっと受けていた。
そして周囲の環境を見てみれば、安穏としていられるレベルではない、とずっと思っていたのが千歳だ。
他のメンバーを見てみれば、不動のドラムスがいたり、ファンキーなベースであったり。
中でも月子と暁の存在は、自分よりもはるかに格上であると思ったものだ。
それでも千歳が歌うのは、自分の人生の不条理を、どうにかプラスにしたいからとも言える。
月子と同じく、楽器を通してではなく歌うことで、自分の内面を表現する。
基本的に作詞は俊が作っているが、ボーカルの意見はおおいに取り入れる。
自分の言葉で歌わないと、歌というのは届かないのだ。
その意味では今回の場合、相当に難しい部分はあった。
音大に入学するにしても、それはどういった人間が多いのか。
やはり音楽活動で食っていく、というのを希望する人間が多いだろう。
ただこの大学は俊も考えていた通り、音楽業界全般への知識を身に付けていく。
また美術の分野まであって、そちらを学ぶ人間もいる。
そもそもヒップホップという分野が、音楽だけを指すものではないのだ。
アートまでも含めたものが、本来のヒップホップというものだ。
この大学でもやはり、ヒップホップの類は重視されていない。
そもそもがストリートから発生したもの、という認識が強いからであろう。
実際にはヒップホップも70年代から始まり、ストリート風ではあるが金持ちがやっている場合も多い。
そのあたりは暁が、ロックは音楽のジャンルではなく、魂のあり様だと言っているのが、一番正しいのであろう。
「ボーカルあたしでいいの?」
確認する千歳に向けられる視線は、何を今さらといった感じのものだ。
メジャーレーベルではないが、実質的にメジャーシーンで活躍しているバンドのボーカルに、ギターばかりを弾かせておくわけにもいかないだろう。
もっともこれはレクリエーションに近いもので、別に単位に関係するものではない。
千歳がノイズに入った時には、俊はもう大学内での活動には、あまり意味を見出してはいなかった。
自分で勝手に学んでいく、という段階に入っていたからである。
しかし千歳の場合は、まだまだ教えてもらいたいことがある。
そして同年代の人間からも、まだ学ぶことが多いのだ。
とりあえず問題なのは、作曲と作詞の問題である。
一ヶ月弱の間に、それを作って練習して発表というのは、あまりにもハードルが高い。
つまりそれだけ、これはレクリエーションのものであり、まずはやってみるところから始まる。
多くの音楽関係者が、若い頃には経験していること。
それは楽器を買ったり、バンドを組んだり、作曲をしたりした段階で満足してしまって、ライブにまで持っていけないことだ。
これは音楽だけではなく、ゲームやイラストなどの、専門学校でもよくあるパターンなのである。
もちろん実際の演奏まで至らなくても、それは自業自得という考えもある。
それに全ての学生が、本気でミュージシャンを目指しているというわけではない。
ただ音楽活動をするというのがどういうことか、その現場を経験してみる。
実際は他の形で音楽業界に関わるとしても、そういったことを知っておくのは必要であろう。
これだけで足りる、というものでもないのだが。
実際に授業では、DAWを使った作曲なども学んでいく。
千歳としてはこれが、俊の期待していたことなのだろうな、とは思う。
ノイズの活動の中では、もっと実践的で現場での、演奏や演出をしっかりとやっていた。
評価の高いノイズの感想の中には「かっこつけたのが逆にださいパフォーマンスがない」というものがある。
リードギターである暁の動きが、演奏に集中しているから、と言えるだろう。
ゆらゆらと揺れたり、わずかに前かがみになったり、やや仰け反るように演奏することはある。
だが寝ギターもしないしウインドミルもしない。
ステージの上を走り回ったりもしないのだ。
このあたりのリードギターのスタイルは、そういえばMNRも永劫回帰も同じであった。
演奏に集中するため、ギターパフォーマンスをしない。
アンガス・ヤングのようにステージ上を走り回る、ということはしないのだ。
あれはあれでもう、アンガスの個性のようなものなので、仕方がないとも思えるかもしれないが。
びょんびょんと飛び跳ねることも、暁はしない。
もちろんボーカル兼任の千歳も、そういったことはしない。
ギターパフォーマンスで印象的なものは、ツインバードのダブルリードのパートで、暁と千歳が向き合うぐらいか。
あれもホテル・カリフォルニアを参考にしているらしい。
パフォーマンスで魅せるのも、それはそれでライブならいいのだろう。
ぴょんぴょん飛び跳ねるライブは、見ていて楽しいとも千歳は思う。
だが暁はとことん、ギターを弾くことだけに集中するのだ。
かといって周囲が見えていない、というわけでもない。
作曲と作詞に関しては、シュリが自分で作った曲をベースにした。
ドラムパートとベースパートは、それぞれに作ってもらう。
メロディラインとコード進行がしっかりしていれば、それなりの曲になる。
千歳はリズムを弾いているが、ギターは一人でも成立する曲だ。
「じゃあ、演奏してもらおうか」
大学のスタジオを順番で借りて、演奏の練習をする。
その場になぜが、俊がいたりした。
大学のスタッフとして、正式に所属はしているので、いてもおかしくはない。
そして同じバンドのメンバーがいるのだから、それを聴きにきてもおかしくはない、とも言える。
俊は自己評価が低い。
ただアレンジ能力に関しては、ゴートや白雪も認めるところである。
シュリの作った曲を弾き、歌詞も歌った千歳であるが、ちょっと物足りないものは感じていたのだ。
頼んだわけではなく、俊が向こうから、見学させてくれと言ってきた。
彼にとってはこれも、一つの学習なのである。
俊はプロのミュージシャンである。
ミュージシャンのプロとアマの定義というのは、ちょっと微妙なところがあったりする。
メジャーレーベルに所属して、音楽を流しているのなら、それはプロであろうと思われる。
だが俊の価値観では、音楽で継続的に生活を維持できていることが、プロの条件であると思うのだ。
事務所に所属していても、アルバイトをしなければ食べていけない。
それはまだプロではないと言える。
収入があるだけではなく、その収入で食っていけるかが重要なのだ。
そんなプロのミュージシャンに、自分たちの演奏を見てもらう。
講師などに見てもらうのとは、また違った経験である。
「それじゃあ、行くよ」
関西弁のイントネーションで、シュリが促す。
ドラムがスティックを叩いて、演奏が始まった。
俊はここで、ストップウォッチのタイムを計っている。
五分以内と言われているのが、演奏の唯一の条件だ。
ジャンルはなんでもよく、楽器もなんでもいい。
ただし一般的なライブハウスなどで、普通に用意できるもの、という条件はある。
シュリの作った曲は、典型的なJ-ロックと言えばいいであろうか。
これはいい意味でも悪いいみでもない。
ギタリストが作っただけあって、やはりギターが目立つ曲になっている。
構成などもおおよそ、サビまでしっかりとある。
(オルタナティブ系かなあ)
ノイズもこの系統の曲は作るが、もっとキャッチーな方向に寄せてくる。
シュリの作ったこの曲は、メッセージ性に富んだ歌詞を持つ。
(でも曲自体は普通だ)
千歳が歌えばだいたいの歌は、名曲に聞こえてくる。
月子だとかなり、相性が絞られてしまうのだが。
ざらりと聴覚と、その奥の感性に訴えかけてくる。
それが千歳の歌なのである。
声自体はそれほど、変に濁ってはいない。
声量や音階などは、正式なボイストレーニングで鍛えている。
あえてクラシックの技術で鍛えた、千歳の声。
月子にしても民謡の技術で、鍛えたというバックボーンがある。
曲が終わってから、俊の反応が待たれている。
少し考えて、俊は言葉を紡ぐ。
「遠慮なく批評されるのと、マイルドに批評されるのと、改善点だけ指摘されるのと、どれがいい?」
「遠慮なく」
間髪いれずに、シュリが言った。
ただ千歳は俊が、そんなに辛辣なことを言う人間ではないと知っている。
少なくとも千歳に対しては、技術的な指摘をするのみだ。
むしろ難しいことを要求するのは、暁の方が多いであろう。
俊もこの即席バンドに関しての、経緯はある程度聞いている。
なのでドラムとベースについては、指摘する意味はないだろうと思う。
「作曲を始めてどれぐらいになる?」
「二年ぐらいっす」
「ならまあ、これからなんだろうけど、とりあえずコード進行が普通なんだから、メロディラインをもっといじらないとな」
それはギターについても歌についても、同じことが言える。
「歌詞に関してはボーカルの歌い方にもよるんだが、語彙の選択が直接的過ぎる。そこに至るまでのラインをもっと歌わないと盛り上がりに欠ける」
俊の指摘としては、千歳も気になったところであるのだ。
俊は千歳にかなりの初期から、意外なことを言っている。
洋楽の歌詞はダサい、ということである。
ただそのダサい歌詞を、意味をそのままに日本語で上手く訳すとする。
すると素晴らしい歌詞になったりもするのだ。
アメリカの誉め言葉というのは、英語であって色々とないわけではない。
だが日本がヤバイと言うのと同じぐらいの頻度では、クールという単語を使っていると思う。
あとはオーマイガーやSから始まったりFから始まったりする言葉で、心情をすぐに露にする。
ただ外国語の中でも欧米圏を学んでいくと、分かってくることがある。
それは日本語が漢字によってとんでもなく、たくさんの言葉が作れるということだ。
メッセージ性については全盛期のロックなども、とても単純であったりする。
だがよく分からない英語で歌っているだけで、お洒落だと思われていたのが昔であったのだろう。
千歳としては洋楽をカバーする時、一度翻訳して意味を知ると、けっこう普通のことが言われてるんだな、と思うことは少なくない。
日本語は漢字を組み合わせることにより、多くの外国語を日本語化した。
ただ時代が経ってくると、そのうちそのままの片仮名を使うようになっている。
今など普通に日本語でも通用するものを、わずかにニュアンスが違うなどといって、無理やり横文字にしたりする。
はっきり言ってそれはダサい、と俊などは考えている。
だいたい新しい横文字を使い出す時は、既にあるものを上手く誤魔化そうとする時だ。
おおよそ日本語で説明出来るものを、わざわざ片仮名にする。
そんなことは詐欺師がやることで、だいたい政治家や財界人が言うことである。
昔の日本は外来語を、上手く日本語に翻訳していたのだから、そういう能力が低下しているのか。
ただ元々外来語の片仮名として使っていれば、欧米圏と話す時には、ある程度の意味が通るという利点もないではない。
もっとも日本語を英語などに翻訳する時も、適切な言葉がなくて困ることはある。
せっかくの伏線回収であるのに、翻訳が台無しにするということはあるのだ。
翻訳が難しいのは単純に言語の違い以外に、文化の違いというものもある。
一番分かりやすいのは、神へのスタンスであろうか。
宗教問題はどの国でも、大きな厄介ごととなる。
何かあるごとに、オーマイガーと呟く欧米人。
昔は日本人も、幽霊を見れば念仏を唱えていたものらしいが。
仏教的な訓話などの道徳も、かなり薄れてきているのが現代の日本人だ。
そして根本的に、神を信じていない。
歌詞の中に神という言葉を、加えることはそれなりにある。
しかし日本人にとって神様とは、信じる者しか救わないせこいものであるのだ。
キリスト教が思想の根底にある、西洋の文化というか文明。
ロックやパンクでは神をあざ笑ったりしたものだが、それは逆にそれだけ巨大な存在であるからだ。
このあたり俊としてはどうにも、日本とそれ以外の文化の断裂を感じたりする。
世界の多くの土地では、キリスト教かそれ以前に分かれた、ユダヤ教由来の宗教が信じられている。
一神教を生み出したのは人類最大の失敗なのではとも思うが、神学論争ではそのあたり、既に決着がついているらしい。
かつてビートルズはキリストよりも有名だ、などとジョンは言って、それが問題になったりもした。
同じことを日本で言ったなら、仏陀よりも有名などと言ったところで、日本人は苦笑しただけであろう。
そのあたり文化や文明の奥深さで、日本は優れていると思う俊である。
アメリカは新しい価値観を作ろうとする文明であるが、同時にそれが行き過ぎることもよくある。
それは歴史を紐解けば、すぐに分かることなのだ。
そして広大な国土があれば、意外なほどに保守的な土地もある。
またその文化は現在進行形で、変化を遂げている。
そう、それは進化ではない。
ただの変化であるのだ。
それを勘違いしているから、進歩的文化人というのが、嘲笑の言葉になるのである。
仏陀とキリストが立川で同居する。
そんな物語を作れる国は、世界で日本しかない。
複雑に俊は考えたりするが、結局のところシュリの楽曲には、特に目を引くものはなかった。
だが及第点ではある。
ドラムのリズムパターンとベースのラインはもっと工夫してもいいだろうが、これがずっと続いていくバンドというわけでもない。
ならばこれで充分だ、というのが俊の感想である。
それでも全くいいところを言わないあたり、人間関係が難しくなりそうだ。
もっとも俊は認めた人間に対しては、しっかりと敬意を払っていく。
格下の人間にも無頓着なだけで、無意味に嘲弄することはない。
シュリとしても俊の言葉は、確かにその通りだなとは思えた。
だが思ったよりも身になるような、そういう言葉を言ってもらっていない。
「サリエリさんのアレンジなら、どうしますか?」
「ああ、そうだな」
俊としても昔に比べれば、ずっとレベルは上がっている。
特に上達したのは、やはりアレンジなのである。
原曲のままでは、キーが上手く合わなかったり、音が薄いということはよくある。
あまり音を厚くすると、変に技巧的だといわれたりもするのだが。
確かに俊は、小手先の技巧で音を重ねてしまう。
だがそれによって曲に、奥深さが出てくることもあるのだ。
丁度スタジオには、シンセサイザーなども置いてある。
そこで即座に、メロディラインを作ってしまうのが、今の俊のレベルである。
果てしなき流れの果てに、を作った時のことを考えると、たやすいことだ。
あれは原曲の魅力を損なわないために、細心の注意が必要になったからだ。
それに比べると学生の作った曲などは、いくらでも改善の余地がある。
映画「アマデウス」の中ではモーツァルトが、渡されたサリエリの曲を、その場で無邪気に改善してしまう、というシーンがあった。
今は俊がそれをしているのは、皮肉と言えば皮肉なのか。
現実のサリエリは、再発掘されている音楽家である。
長命であったために、それなりの曲は残っているのだ。
俊としては長さではなく、高さや深みで勝負をしたい。
自分の楽曲が残るということ。
それが即ちコンポーザーとしては、最高のことであるのだ。
ビートルズぐらいまで伝説になると、その生き様すらもが本や映画になる。
そこまでのものは、俊は目指していない。
だが今は昔と違い、MVというものがある。
それによって聴覚的にだけではなく、視覚的なイメージも添えて、未来に音楽を残したいのだ。
そのために必要なパーツが千歳だ。
大学生にもなって、見る世界が広がったとして、安易な方向に流れてほしくはない。
実際のところ千歳としては、周囲のレベルの高さには驚いている。
だがそういった知識などを、全て力でねじ伏せるのが、千歳の歌なのである。
ゼミで命じられた、簡単なバンド演奏。
それであってもしっかり、残っていってほしいものだ。
それが終わった後のゴールデンウィークには、また大きなステージがある。
1000人規模のコンサートならば、普通に埋められるようにはなっているのがノイズだ。
ただ今回はまた昔のように、西方へのツアーも考えている。
スタッフの経費のことを考えたりするなら、東京都内でやっていた方が、バンド単体としては儲かる。
だが自分たちの演奏で、関わるスタッフまでも食わしていく。
欧米のレジェンドバンドなどは、もう自分たちは充分に稼いでおきながら、いまだにツアーなどをするのは、そういう理由もあるのだ。
新しい環境で、千歳がどう変化していくか。
いまだにノイズの中では、一番の伸び代を持っているのが千歳なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます