第258話 果てしなき流れの果てに

 時間の経過を忘れさせる、そんなステージであった。

 それぞれのバンドの原曲を、上手く拡大していったような演奏。

 本来ならば打ち込みでカバーするようなところや、ストリングス系の楽器を使うところも、バンド内の音楽で賄う。

 もっともノイズの俊が、シンセサイザーを持っているため、おおよその楽器はカバーできなくもないのだが。

 演奏されるのは古来からの、もはや古典と言ってもいいような、ロックナンバーもある。


 時代の流れを感じさせる。

 ロックンロールが発生してから、半世紀以上の年月が経過した。

 その中で細分化されていったロックだが、その根本的な部分は、今でも変わらないと言える。

 時代の中の音楽。

 それが時代遅れになってしまったのは、果たしていつ頃からだろうか。

 2000年前後にはまだ、ロックは主流の中の一つであった。

 ただずっとそれと並列して、カントリーもあればR&Bもあり、それらの中の要素をロックは吸収していった。


 今のロックはもう、さすがに閉塞感が大きいという。

 世界規模の感染症が、ロック以外の多くの文化の、息の音を止めたり、大きく退潮を促した。

 虚業の前にはまず、生き残るための実業が重視された、というのはあるのだろう。

 しかし精神のための栄養が、摂取できない年が続いた。

 もちろんロックはそれ以前から退潮ではあったのだが、最後の一撃とも言える。

 もっとも今はそれを埋めるように、バンドミュージックがまた盛んになっている。


 あの不要の外出を止めようという時代があったからこそ、ネットでの拡散の時代があったとも言える。

 俊としてはあの頃は、全く自分の成長が感じられない時代であった。

 視聴だけが音楽ではない。

 ライブの体感こそが、音楽の本質であるのだ。

 もちろんCDなどの、音源を否定するわけではない。

 しかしライブにしかないものがあるのだ。




 三つのバンドが演奏するという音楽。

 ともすれば食い合って、共倒れになるのでは、とさえ思われていたものである。

 しかしそれぞれの演奏の特徴が、しっかりと出ている。

 特にギターとドラムは、はっきりとその存在感を主張していた。

 楽器の中でもギターは、やはり人口が多いものだ。

 

 ドラムなどは携帯も出来ないし、人口が少なそうに思える。

 しかし、だからこそと言っていいのか、いいバンドにはいいドラムが揃う。

 栄二からすると自分の役目は、バンドのリズム保持。

 ただゴートには華があるし、紅旗には圧倒的なパワーを感じる。

(それはそうとあの二人、デキてるんじゃないのか?)

 MNRの紫苑と紅旗は、ギターとドラムの花と実のような関係だ。

 どちらもスピードがあって、それにしっかりとついていっている。

 下世話な勘繰りかもしれないが、二人は完璧に合っている。

 年齢的にも白雪と違って、くっついてもおかしくなさそうな関係でありそうなのだが。


 ドラマーには意外性のある人間が多い、と栄二は思っている。

 ゴートなどは他の楽器でも上手いのに、今はドラムを流暢に叩いている。

 男に言うものでもないのかもしれないが、どこか色気さえ感じさせる。 

 存在感が一人違って、それが前のバンドが解散した理由だとも言われている。

 紅旗にはそんな、複雑なリズムを刻むという、技術では劣っている。

 だがパワーとスピードという、ドラマーに大事なことが備わっている。


 この二人に比べれば、栄二は凡人に近いだろう。

 だが栄二はスタジオミュージシャンとして、叩いていた時間はとにかく長いのだ。

 没頭することが出来るというのは、それに対する才能と言っていい。

 栄二はこれによって、給料をもらって家族を養っていた。


 ノイズに参加した今も、他のヘルプに入ることはある。

 だがさすがにこの数ヶ月は、こちらにかかりきりになっていた。

 才能に溢れた二人は、確かに栄二の及ぶところではない。  

 だが凡人が叩き続けた、徹底的に正確なリズム。

 これはノイズに必要とされるもので、実際に栄二がいなければノイズの演奏は崩壊する可能性が高い。


 いつまでも同じバンドが、続いていくというわけでもないのだろう。

 だがノイズというバンドは、栄二にとっても特別なものになる予定だ。

 いや、それは予感から確信に変わったのだ。

 二年で武道館コンサートなど、相当のバックアップがあっても出来ることではない。

 それが運命的な事態の変遷により、可能になったのである。

 このバンドはこう言ってはなんだが、神に愛されているバンドだ。

 そして同じぐらいに実力のあるバンドと、こうやって同じステージに立っている。




 バンドのライブというのは、好調と不調の波があってもおかしくない。

 何度となくライブをやってようやく、安定していいライブが出来るようになるのだ。

 本当にいいバンドとは、どのライブでもオーディエンスを楽しませてくれるもの。

 そうでなければライブバンドとして、生き残っていくことは出来ない。


 想像以上のグルーヴ感を与える。

 インスピレーションの発露を、そのまま届けていかなければいけない。

 リズムをしっかりとキープするドラムと、低音域に深みを感じさせるベース。

 ベースに関してはどちらも同じぐらいの力かな、と白雪は考える。

 永劫回帰の紅一点であるロゼと、ノイズの信吾。

 この二人に比べると、本職はギターであった自分のベースと、そう変わらない実力か、と思える。


 永劫回帰は大舞台の経験が豊富だが、MNRとノイズはまだ、そこまでではない。

 とはいってもライブの回数自体は、ノイズは相当多い。

 またMNRはどこか、ぎりぎりのところでは、白雪に頼ってくるところがある。

 技術面ではともかく、精神面ではまだ少し、一人前とは言い切れないか。


 白雪の目から見ると、ゴートは才能に溢れている。

 この企画も最終的には、ゴートがぎりぎりに仕上げてくれた。

 もちろん彼の持っている、強力なコネクションも有効ではあったのだろう。

 だがそれをさりげなくやってしまうあたり、将来的にはコンポーザーよりも、プロデューサーの道を歩むのでは、と思ったりもする。

 あるいはレーベルを新しく作り、自分の好き放題にやってしまうか。

 そういう奔放さが、ゴートにはあるのだ。


 そして俊は、かなり逆の性質を持っている。 

 計画通りに物事を進めたがり、悲観的とまでは言わないが、かなり現実的な人間だ。

 それでいてこんなステージにまで辿りついたのは、相当に早い。

 まだ20代前半なのだから、ここからが本格的な成長となるのか。

 ただ音楽の世界というのは、若いうちに全盛期が来ることもある。

 枯れた音は枯れた音で、それなりの需要はある。

 だがそれは演奏者の音の話であり、コンポーザー自身は絶対に、その時代に合った曲を作っていかなければいけない。

 ごく稀にそういった曲が、時代を超えて作られることもあるが。


 ゴートが壮大な企画をして、白雪が現場を回して、俊が演出などを担当する。

 今から思えばそれが、一番いい役割分担だったのだろう。

 来年もこんなイベントが出来るとは思わない。

 だがもう少し先の未来には、三者が協力して何か、大きなイベントをするのではないか。

 このステージの中でも、特に花音と月子のボーカルは、ソロシンガーとしての能力を見せ付けている。

 頼れるリズム隊がいることで、久しぶりにゴートも歌ったりしていた。

 白雪も歌うが、今日のステージでは基本的に、コーラスの方に回っている。


 月と花があって、そこに雪もある。

 これで風が加われば、名作誕生となるだろう。

 多くの過去の名曲を、カバーしているのが今日のライブの特徴。

 それはそれでいいのであるが、白雪の言葉はどうにも、過去を向いたものになってしまった。


 ゴートも俊も、まだこれからがある人間だ。

 対して白雪は、自分の全盛期とも呼べる時間は、もう終わってしまったと思っている。

 枯れた音を鳴らしても、それはそれでいいのだ。

 音の中に哀しみを加えることが出来るのは、ある程度の時間を生きていないと出来ないことだろう。

 この集団の中では、月子の三味線か暁のギターが、一番哀愁を感じさせる。

 白雪のギターやベースでは、出来ないことではある。




 三時間というステージは、とても長いはずであった。

 だが演奏が続いていくと、あっという間であったとも感じる。

 やっと終わるのかという感情と、まだまだ終わりたくないという感情。

 それはオーディエンスの間でも、同じことが言えるのではないか。


 最後に準備した曲が始まる。

『これはMNRの白雪さんが作曲したもので、ヒートが解散してからずっと、お蔵入りしていた曲で、今日は初披露になります』

 ゴートの説明に、会場がどよめく。

 それだけ特別な曲であると、誰もが分かるのだ。

『ラストの曲、果てしなき流れの果てに、行きます』

 この曲において俊は、幾つか重要な役割を負っている。


 最初に入るのは、エレキヴァイオリンの音。

 花音が一番上手いのだが、楽器の演奏の順番で、ここは俊に任されている。

 わずかなイントロの後に、花音のピアノが入っていく。

 シンセサイザーのピアノではなく、生ピアノの音である。

 少し長めのイントロの後に、暁がアルペジオのギターが入り、そして月子のボーカルから始まる。

 ヴァイオリンはそこに置いて、俊はシンセサイザーで、花音のピアノパートを引き受ける。


 序盤はギターの中でも、クラシックギターに聞こえるような音で始まる。

 コード進行ではなく、アルペジオで音をはっきりと伝えていくのだ。

 それがピアノと絡み合っていて、クラシカルな音に聞こえる。

 月子の歌に被せて、ピアノからマイクを手にした花音が、前に出てくる。

 演奏と歌唱が一緒に出来るなら、もっと簡単であったろうに。


 シンセサイザーはピアノの音に、ストリングス系の音を加えていく。

 本当ならバックミュージシャンを引き連れた方が、本格的な音になるのであろう。

 ドーム公演ともなれば、そちらの方がむしろいい。

 ただ今日のステージは14人だけで回すことは決定しているのだ。


 ストリングス系の音は、時の流れを感じさせるのに、一番向いている。

 ギターはそれに比べると、どうしても刻む音になってくる。

 ピアノは音域の広さでもって、高低に深く広がっていく。

 そんな序盤の演奏から、月子と花音のデュオで歌いだす。

 やや似てはいるが、やはり違う二人の歌声。

 お互いの表現力が共鳴し、普段よりも声量が大きくなっている。


 才能と才能は響きあう。

 互いの歌声によって紡がれる歌詞で、より深く理解していくのだ。

 もちろんここまでも、しっかりと練習はしてきていた。

 だが本番のステージとなると、テンションが変わる。


 花音は純粋に、表現力が増している。

 まだステージでの経験が少ない彼女は、オーディエンスと共鳴し合うことによって、そのポテンシャルを発揮している。

 対して月子は、自分と同系統のボーカルと合わせるということで、やはりポテンシャルがさらに大きく響いていく。

 時折その二人に、コーラスとして白雪が混じっていく。

 残念であるが千歳とタイガは、このバージョンの曲では出番がない。


 曲の展開が変わっていって、ギターの音も増えていく。

 だがあくまでもリードギターでさえ、添え物になっているのがこの楽曲だ。

 四段階に分かれて、およそ六分ほどもあるこの楽曲。

 それぞれのメロディラインに、特徴的なものがあるのだ。




 最後の盛り上がりに向かって、転調すると共にテンポが上がる。

 ドラムの音は単色で、しかしその小刻みなビートが時間を感じさせる。

 ベースはこれまたリズムを刻みながらも、メロディラインを片方が奏でていく。

 完全にボーカルを活かすための、他のパートの献身的な演奏。

 ただピアノパートだけは、それなりに目立っている。


 これは作曲の原曲が、ピアノで作られたというのが理由だ。

 白雪はギターのコード進行などでも、それなりに作曲をすることはある。

 だがピアノとなると左手の伴奏と右手のメロディで、カバー出来る範囲が広い。

 これはロックと言うのは、ちょっと違うであろう。

 もちろん魂がロックなら、サイケでもファンクでもブルースでも、ロックはロックなのだろうが。


 アニソンでさえ、メタルで演奏することはある。

 音楽のカラーというのは、それだけ変更が自由なのだ。

 だがこれはコンポーザーが妥協を許さず、ボーカルを最大限に活かすために作ったもの。

 歌詞に表現されたメッセージを、人々に届けるものなのだ。


 時間の流れの果てに、人間という存在が生まれた。

 そして音楽が生まれて、歌が生まれて、人々の間に文化が生まれる。

 いつの時代のどの文化にも、音楽はあったであろう。

 その音楽に包まれて、人間は生きていく。


 多くの出会いと別れの中に、音楽は含まれていた。

 死別だけではなく、普通に二度と会えない別れが、人生の中には多すぎる。

 もう一度会いたい。会って話がしたい。

 何を話すのかというと、それはどんな話でもいいのだろう。

 時の流れの果てには、いったい何が待っているのだろう。

 どれだけ長命な人間も、無限に生きるわけはない。

 また生命だけではなく、不変と思われた大自然でさえも、はるかな時の流れの果てには変わっていく。


 全てが変わっていくのは、当たり前のことなのである。

 子供の頃であれば、変化するというのは、より世界を広げるということであった。

 だが大人になって、親になって、遺伝子をつないでいくようになれば、世界は子供が中心となっていく。

 子供たちの成長を見守ることによって、新たな時間の変化を強く感じるようにもなる。

 その中にも音楽があって、多くの音楽が残っていく。

 果てしなき時の流れの果てにも、音楽は残っているだろう。


 やがて人間は死を迎える。

 その先には何があるのだろうか。

 何もないと考えるのが、理性的な存在であるのだろう。

 しかし何かがあると、想像してしまうのも人間なのだ。 

 ただ死後に何かがあると想像するのは、救いであると同時に、ただの誤魔化しである。

 この一度きりの人生を生ききることが、どれだけ苦しいことであるのか。


 それでもいつか、人間は自分の望んだ、その世界に行き着くのだろう。

 この音楽のステージで、人は無限の存在になれる。

 歌も音も、どこまでも届いていく。

 今という瞬間につながると、それぞれの楽器が何重にも演奏される。

 そして最後、ピアノの音だけがわずかに響く。

 歌がそれに合わせて終わり、六分間の演奏は終了した。




 今までにはない体験であった。

 武道館も広かったし、フェスでも多くのオーディエンスが熱狂していた。

 だが今日のコンサートが月子に与えた影響は、過去のものと比べても圧倒的に大きい。

 アイドルの巨大ライブがあってこそ、ようやくペイするという東京ドームコンサート。

 それを体験したことによって、今までと違うレベルでハイになっているのかもしれない。


 楽屋に戻ってきて、ハイタッチをしたりハグしたり、あるいは握手をしたりする。

 それぞれがしっかりと、自分の役割を果たしたのだ。

 また思ったほど、疲労度は高くはない。

 演奏するパートを、それぞれ分けられたというのが、大きいのだろう。


 それでもこの広大な空間で演奏したことは、思考を随分とハイにしてしまったものだ。

 俊などはすぐさま、作曲にかかっている。

 自分の体験したこれを、上手く曲で表現出来るものなのだろうか。

 途中から俊は、自分の今の作曲しているものが、純粋なバンド曲ではないな、と気づいてしまったが。

 打ち込みとシンセサイザーを多用する、ノイズだから出来ること。

 またツインボーカルである、ノイズだから出来ることだ。


 このまま夜の街に繰り出したい、というぐらいにはハイになっている。

 だが公演は明日も明後日も、まだ残っているのだ。

 三日間が終わればとりあえず、スタッフは別としてメンバーなどと一緒に、打ち上げが出来るであろうか。

 もっともそれだと、花音だけが別になってしまう。


 最後の曲はやはり、花音と月子の二人があってこそのものだった。

 声量と音階が、他のボーカルよりもずっと優れている。

 月子が透明ながらも硬質であるのに対し、花音の声は淡く溶けていくようなもの。

 素晴らしいソロ向きのボーカルが二人いて、ようやく成立する楽曲。

 これは白雪が出してこなかったのも、分かるというものだ。


「やっと一日目か」

 果てしなき流れの果てに、は演奏の難易度だけで言うなら、パートごとに弾くならそれほど難しくはない。

 だがそれぞれの音を合わせるとなると、とにかく楽器が多いので難しくなる。

 またギターは特にアルペジオが多いので、ミスをしたら目立つ。

 それでも素晴らしい楽曲であることは、しっかりと理解出来た。


 これを他の場所で演奏するなら、バックミュージシャンがかなり必要になる。

 ただ打ち込みによって、ある程度はフォロー出来るものではあるが。

 俊は最初のヴァイオリンと、その後のシンセサイザーで、かなり集中力を使ってしまった。

 もうピアノは白雪にでも任せた方が、いいのではとも思った。

 ピアノの弾き語りは、彼女ならば出来ると思うのだ。


 これがあと二日。

 物販などの動きも順調で、しっかりとペイしている。

 ギャラ的にもMNRとノイズは、最初から赤字にはならない。

 永劫回帰もこれで、おそらくはちゃんと儲けが出ているのだろう。

 ただ今日だけは、そんな現実的なことは忘れて、このコンサートの余韻に浸っていたい。

 珍しくも感傷的な気分になりながら、俊は明日の演奏のことも考えていたのであった。

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