第255話 月と花
才能というものはなんなのだろう。
月子はそれについて、色々と考えることはある。
幼少期から祖母について、三味線と唄を習った。
それによって得た能力で、今はミュージシャンとして生きていけている。
地下アイドル時代など、自分に才能があるなどとは、全く思っていなかった。
だが俊は、メイプルカラーだけではなく、他にも色々といたシンガーの中から、月子を選んだのである。
そして芸能界に本格的に入ってみると、月子の歌は天性のものがある、とよく言われる。
そんなはずはないと思うのだが、素養はとても高いと、実力派のミュージシャンでさえも言ってくる。
だがいい気になりかけたところで、自分を発掘した俊が言ってくるのだ。
素質的にも実力的にも、花音の方が純粋な歌唱力なら上であると。
もっとも同時に、逆転は充分に出来るとも言ってくる。
花音の育った環境を知ってからは、よりそれがはっきりした、などとも言っている。
月子の声と歌い方については、俊は基本的に注文をつけなかった。
だがこの白雪の作った曲については、作曲と作詞を行った作者から、細かい指摘がたくさん入ってくる。
それは技術的なものと言うよりは、むしろフィーリングの範疇のもの。
そしてそういった部分を理解するのは、月子の苦手とする分野であるのだ。
情緒がないわけではないが、それが歪なのである。
その月子を理解した上で、俊は作曲や作詞を行っている。
もちろんその歌唱力の向上は、常に期待している。
ただ月子では届かない部分は、千歳にカバーしてもらっているということはある。
白雪が求めているのは、一気にステージを上がることだ。
ただそれは無理ではないな、と俊も思うのだ。
この数ヶ月で月子は、また今までとは違った才能に接している。
花音という素質の化物や、ゴートや白雪といった才能が与える刺激は、ノイズの中だけでは感じられないものであるはずだ。
本来なら競争する相手。
だが今は、ステージを成功させるための味方。
特に月子が意識するボーカルは、永劫回帰のタイガだ。
歌唱力の中でも、声が通る感じは音階の広さは、実はそれほどのものでもない。
だが存在感と、歌声に込められた説得力が、千歳を男にしてレベルアップさせたような、そういう感じだと思わせる。
純粋な歌唱力では、彩とはもう遜色がないと思うのが、月子の現在のレベルだ。
花音との戦いはこれからだが、カラーの違いはそれなりにある。
月子の心というのは、ずっと傷つけられてきた。
失った青春などを、取り戻すのは今からだ。
栄光に包まれて、それで本当に満足できるのか、それは分からない。
だがとにかく今は、進むべき道が見えている。
果てしなき流れの果てに。
白雪の作ったこの楽曲は、とにかくハイトーンが重要になる。
また肺活量で、かなり長く伸ばしていく箇所もある。
本当なら男性と女性、それぞれのパートで歌ってみるべきなのかもしれない。
だがそこはしっかりと調整が入った。
ゴートや白雪の助けを借りながらも、どうにか俊はアレンジを完成させたが、実際に歌ってみてさらに変えていくことはある。
この曲はイベント「The Time」で発表されるメイン曲だ。
三日間の間、最後に流れるのはこの曲である。
普通のライブコンサートと違って、少し長めの演奏時間。
ただその分、アンコールなどはない。
この曲を聴いたならば、これで最後だと分からされる。
そういう曲に白雪が作ったのだ。
10年以上も温めて来た、おそらく生涯最高のキラーチューン。
もしも相応しいボーカルが出てこなければ、死蔵していたかもしれない。
そこに花音と、月子が出てきたのだ。
二人でパートを分ければ、技術的には余裕で歌うことが出来る。
しかしそこにパッションを感じるかどうか。
むしろ静けささえ感じる曲であるのに、秘められたエネルギーははっきりと感じる。
一世一代の楽曲。
俊にとってはそれは、長くスキスキダイスキであった。
あんなフィーリングだけで作った曲が、自分の代表曲になる。
それは耐えられなかったが、どうにかノイジーガールを作ることが出来た。
もっともギターパートなどは、かなり暁の助けを借りたが。
霹靂の刻は俊のアレンジが大幅に入ったが、それでも月子の曲である。
アレクサンドライトや荒天にハッピー・アースデイなども、ノイジーガールを上回ることを目指して、作られた曲ではある。
だが確実に上回ったとは言えるであろうか。
なんだかんだ言いながら、再生回数はノイジーガールと霹靂の刻が突出している。
最初の曲が最高の曲というのは、ミュージシャンとしてないわけではない。
ただ俊はまだ、ノイジーガールが自分の完成形だとは思っていない。
まだ何か成長の余地があると、明確に感じている。
今回の楽曲にしても、曲はむしろシンプルにしてある。
だがメロディラインとボーカルの力で、よりストレートに届く曲にした。
最初にブレイクした曲から、どのように進化していくか。
徳島などは完全に、同じような曲はつくらないようにしている。
俊にはそんな才能はないので、同じラインをより洗練させる。
それによってあの時には作れなかった、前向きな歌詞を作ったりもしたのだ。
俊とノイズは、全ての準備を整えた。
また永劫回帰とMNRも、ちゃんと準備は出来ているらしい。
だがやはり問題になるのは、最後のテーマ曲である。
なんとかレコーディングも終わらせたが、この曲は来年になってから、ようやくレコーディングを開始することになるだろう。
もっとも演奏するメンバーを考えると、ライブバージョンの演奏しか、収録できないかもしれない。
そもそもライブで体験するのと、音源として聴くのでは、まったく感じが違うものになるのではないだろうか。
ただ普通のCDや音源にも、ライブ版からノイズを除いただけのものはある。
もしくは歓声までもそのままに、音源として残したものもあるのだ。
永劫回帰やMNRと違い、ノイズは比較的CDの販売が多い。
いまだにインディースレーベルから出している、という前提があってのことであるが。
永劫回帰やMNRは、基本的にライブにもっと力を入れている。
またタイアップの方も、ノイズよりも多いのだ。
このあたりは事務所の営業力と、レコード会社のゴリ押し力の差である。
バンドの音楽の力だけで売る、というのはずっと以前からありえないものだ。
それこそ60年代の頃から、アメリカだけではなく日本であっても、宣伝の力があってこそ売れたのだ。
個人のネット配信の力が、大きくなった時代とは言う。
だが一番見られる媒体に対しての営業力は、やはりレコード会社の力があってのものだ。
ただアメリカであるともう、今時はバンドなどは成立しなくなっているらしいが。
60年代のイギリス音楽の侵略は、逆にアメリカ国内の音楽も活発化させた。
80年代にはメタルに入って、90年代にはハードロックへの回帰に近い、グランジなどが生まれている。
00年代あたりまでは、まだバンド音楽が生まれていた。
しかしこの10年以上は、本当にアメリカのバンド音楽は生まれなくなったような気がする。
実際にソロシンガーや、ヒップホップばかりが売れている、というのは確かなのだ。
最近の日本はアメリカの音楽を聴かない、内向きになってしまっている、などという頓珍漢な意見がアメリカではあるらしい。
単純に需要というものが、国内だけで満たされているというのと、アメリカの音楽が日本人の感性に合わなくなっているのだ。
ヒップホップやラップの音楽というのは、基本的にあまり日本では主流にならない。
もちろん全く売れていないわけではないが、日本人の音楽資産は、一般家庭でもピアノの習い事などをさせるぐらいだ。
それがクラシックのピアノ曲から入ろうと、やはりメロディアスな音楽が、その根本にはあるのだ。
俊だけではなく、ゴートや白雪、また他のメンバーにしても、アメリカの音楽を理解はする。
だが全く共感できなくなっている。
そもそも洋楽のラップなどというのは、日本に対しては相性が悪すぎる。
これがロックであれカントリーであれR&Bであれ、メロディーがあるものならば、何を言っているのか分からなくても伝わるのだ。
ただラップであるとなんだか、変に韻を踏んでいるだけで、要するにぺちゃくちゃまくし立てているだけのように感じる。
そもそも文化的背景が違うので、共感はしにくい。
しかし日本にしても、現代はラブソングが減った、という本当か嘘か微妙な統計はあったりする。
時代の流れによって、歌が広めたいというものは変わってくる。
90年代などはまさに、恋愛至上主義であったと、年配の人間などは言う。
だが今は自分らしさの追及などがいきすぎて、俺が俺がという音楽になっている。
他人との接触などよりも、自分らしく一人で生きる強さなど、そういったメッセージ性が強い。
俊としてはそこまでは思わないが、そういうメッセージ性が強くてもおかしくないな、とは思うのだ。
月子はラブソングが苦手だ。
そもそもノイズは、単純なラブソングなどは歌わないが。
恋愛感情もあるのかもしれないが、それに気づいていも今はもう会えないとか、そういったことを歌にしてしまっている。
俊は男女間の愛情よりも、人間同士の友愛というのを、意識して歌詞などは作るのだ。
相互理解による世界平和は、もう70年代で終わってしまった。
東西冷戦の頃の方が、むしろそういう音楽が流行したというのは、皮肉な話であろう。
現在のアメリカにあるのは、差別と行き過ぎた逆差別。
その中で自分を肯定しすぎることが、メッセージ性の主流になっているのだろうか。
俺は俺、という主張をするのが正しい。
そんな空気を出してはいても、結局のところ日本人は、空気を読む存在である。
空気を読むことによる生きづらさ、というのは現代ではよく歌われる題材だ。
それぐらいなら自分を貫き通して、死ぬまで踊っていた方がいい。
振り切った感じの音楽を、永劫回帰はやっていたことがある。
MNRはそれに比べれば、もっとずっと淡々としたメッセージ性のある音楽をしている。
そしてノイズは自由自在だ。
カバー曲を大量にすることで、そのメッセージ性を借りてしまう。
ただカバー曲であっても、ノイズの音楽はノイズのものとなる。
アレンジが少し変われば、もうノイズの音楽に聞こえてしまうのだ。
別にノイズがやっていたことではなく、そもそも60年代デビューの初期ツェッペリンは、カバーではなく盛大にパクリをしていたことを認めていたりする。
しかし、オスカー・ワイルドの言葉である。
確かに私はパクってはいるが、私の作品の方が面白い。
カバーをした方がむしろ、原曲よりも売れてしまったという例は、日本にだってそこそこあるのだ。
アメリカ人もむしろ主流は、行き過ぎたポリコレや、LGBTQなどに対する反感を持っている。
一番先進的なことには間違いないが、それだけに大きく間違った方向に進むのも、アメリカという国である。
カウンターカルチャーとして、ハリウッドに対して日本のアニメやドラマが存在する、という見方がある。
ハリウッドという大枠はさすがに雑すぎるが、スーパーヒーロー物などは、もうアメリカのコミックを日本のマンガが抜いている。
これは単純に、裾野と多様性が、完全に日本の方が上回っているだけだが。
ただアメリカは、やがてこういったものでさえも、吸収していくのかもしれない。
ビートルズはアメリカで成功してから、世界中に広がっていった。
イギリスから一気に他の国全てへ、という順番ではなかったのだ。
売れるものは売る能力に関しては、アメリカの方が徹底している。
プラットフォームを持っているだけに、アメリカが強いのは確かである。
日本は個々の文化においては、確かに強いのだ。
東洋の存在でありながら、幕末から一貫して、西洋の文化を吸収し続けている。
しかしながら島国であるための、ガラパゴス化。
ガラパゴス化というのはよく誤解されるが、文化においては誉め言葉である。
キリスト教文化が根底にないというのも、その自由度を高めたのかもしれない。
多様性の解放というのは、キリスト教からの解放ではないのか。
ホモは死ねと言っていたのが、中世キリスト教であった。
一方の日本としては、400年以上前に男色の文化が支配階級でなされている。
江戸時代にも普通に、ホモは存在したのだ。
また男性の女装という点であれば、歌舞伎という文化が存在する。
逆に女性の男装は、宝塚というものが存在する。
一応は明治維新の頃から昭和の敗戦あたりまでは、西洋の考えがかなり主流になっていたか。
ただ農村の場合は貞操観念など、全くなかった地方もあるのだ。
純潔性というのは、明治維新以降の思想である。
貞操観念は結婚してからならともかく、結婚前には必要はない。
また男女の浮気についても、いくらでも江戸時代に落語などで残っている。
今回のイベントについては、そういった文化の違いまでは、さすがに取り入れない。
政治的なメッセージが強いので、あまりにも無粋なのだ。
一番年上の白雪でさえ、欧米文化への憧れというのは、もう古いものであると考える。
確かに天才が日本を去った後は、欧米の文化が日本の主流になったことはない。
もっとも彼女でさえも、作詞は日本の友人に、かなりの部分を頼ったらしいが。
時代によって人間は、憧れているものが変わっていった。
白雪などはそれを、自分の実感として知っている。
ゴートや俊なども、教養として知識にはある。
グローバル化だのどうのこうのと言っても、それは日本にとっては結局はマイナスだった面が強い。
だいたい外国の価値観を持ってくる人間は、自分の言葉では何も言えない者が多い。
それに関してはコンポーザーの三者に、共通した認識である。
俊は一番才能に乏しいので、多くの部分から吸収しようとはした。
だが少なくともこの10年ほどの間は、日本における一番新しい音楽は、ボカロの界隈から出てきた。
それとアメリカではもうないという、新しいバンドも出てきている。
DAWによる一人で音楽が出来るという環境は、これまでは他と交流が上手く出来なかった、徳島のような人間さえ表舞台に引っ張り出した。
コンポーザーにとっては、本当に実力勝負の時代ではあるのだ。
そういった時代の流れを、このイベントではどう表現するのか。
天才が二人と、勉強家が一人、そしてプロモーターや演出家が加わって、完成したのは一週間ほど前。
そこから必死で練習して、ようやく合うようになったのは前日。
おそらくこれではまだ、足りないのだ。
だが結局は準備期間が、足らなかったとも言える。
それともこんなイベントそのものが、成立し得ないものであったのか。
もっともあとはステージの上で、どうにかするしかない。
ライブというのは確かに、事前の準備で八割がた、その出来は決まってしまう。
しかし残りの二割によって、実力以上のものを発揮してしまうというのも、確かにあることなのだ。
イベントの前日にはもう、完全に冬の空気になっている。
秋から冬にかけての季節は、あっという間に過ぎていった。
特にノイズの場合は、紅白の出場でも動かなければいけないことが多かった。
それは他のフェスに出る、二つのバンドにも同じことが言えたのだが。
花音だけはむしろ、余裕であったのかもしれない。
今年はいい年であった。
そう言えるかどうかは、三日間のイベントと、紅白にかかっている。
12月下旬の、一番濃密な時間が、いよいよ始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます