第251話 明るい場所へ

 どんな天才であっても、一度や二度は挫折を経験している。

 それは挫折であっても、才能の限界とは限らない。

 俊の場合は確かに、才能の限界を感じたことがある。

「それはいい経験じゃないの?」

 ゴートはそんなことを言うのだ。

「僕はそんなの感じたことはないけどさ」

 生まれも育ちも、俊よりもはるかに上の上流階級。

 そのくせルックスや頭脳までも優れていて、スポーツも万能という王子様みたいな男だ。


 もちろん本人はそれなりに、努力している部分もある。

 だが努力をしてもそれが、どれだけ力になるかは才能の内だ。

 そんなゴートでも挫折はあって、それが最初のバンドの失敗というものだ。

 彼自身の失敗とは言えないのだが、それでも挫折は挫折であろう。


 白雪はさすがに、そんな薄情なことは言わない。

 彼女の絶望というものは、俊もよく知っている。

 ヒートのリーダーは難病ながらも、ただ死ぬまでの期間を引き伸ばすより、短く燃焼することを選んだ。

 その壮絶な短命は、27歳にも満たなかった。

 だから今でも伝説とはなっているのだが、白雪がまともに仕事に復帰するまでには、三年ほどもかかったものだ。


 俊はいまだに、父がどこか遠くで生きている、という感じを持っている。

 死ぬ間際の数年、あまり会うことがなかったからだ。

 身近にいて、死への日々を共有し、ようやくそれを認めることが出来る。

 ただ俊の場合は父が死んでも、日常自体は全く変わらなかった。

 父代わりに相談できる人間は、岡町の他にも数人はいたのだ。


 そういった感じで分類するなら、ゴートの失敗は挫折とまでも言わない。

 本人もそれをただの経験と感じて、その後に修正しているからだ。

 上手く行き過ぎる人生で、上手く行かなかった。

 だからこそ音楽を楽しむという、歪んだ性格をゴートはしている。

 もっとも家庭環境に限って言えば、それなりに歪みが生まれる原因はある。

 おおよその人間には、そう言っても断然、プラスの部分が多いと思えるだろうが。


 創作において重要なのは、頭脳だけではない。

 脳を酷使する体力と、自分と向き合う精神力だ。

 メンタルのダメージによって、そもそもの精神が歪んでいると、それが少なくて済んだりする。

 もっとも時代によって、必要な歪みというのは変わってくる。

 60年代から70年代の、ロックスターの破天荒さは、もう求められていない。

 90年代にはカート・コバーンは、自らの認識と他者の賞賛に、ギャップを感じて耐えられなかった。


 ただ今でも芸能界は、自分自身を切り売りしているというところがある。

 そしてそれを当然と思う、一般人の環境もあるのだ。

 本当にアイドルが、偶像であったならば良かった。

 だがその内情でさえも、今ではいくらでも知られている。

 スクープですらなくなって、ただの一過性の楽しみになっている。

 そのあたり俊としては、芸能界というコンテンツの劣化を、感じるところである。




 ノイズの中では俊は、過去の洋楽の話をしたり、現在の邦楽の話をする。

 だがこの三人が集まると、世界進出の話が出てくるのだ。

 ゴートはかなり積極的に、白雪は単純にそうしなければいけないと言いたげに。

 これは野心と、必要性の違いである。

 虚業である芸能界などと違い、真に上流階級であるゴートからすると、日本での地位を確立するためには、アメリカなどの外国で成功する必要がある。

 対して白雪は、ゴートよりも年長であるだけに、純粋に国内の市場の縮小を感じている。

 コンテンツの多様化などという、俊が頭で理解しているものではない。

 彼女は実感として、少子化から邦楽の将来を心配しているのだ。


 白雪はゴートよりも、断然年上の思考をしている。

 と言うかゴートは、中身がガキであるからこそ、世界進出などを未だに普通に考えている。

 俊としてはどうしても、自分の限界を想像してしまう。

 そこで立ち止まってしまっても、意味はないのだ。

 壁を超えられるか超えられないか、それには実は意味はない。

 超えるまで出来るかどうか、そこが問題なのである。


 壁にぶち当たっても、何も考えずにそれを超えようとする。

 一瞬の暇もない、そんな人間が、徳島なのであろう。

 俊は徳島に比べると、凡人の執念でさえ足りていないと思う。

 そのあたり音楽しかない、そして音楽を作り出すしかない徳島と、器用に色々なことが出来る俊の、大きな違いなのだ。


 音楽しかなかった、と徳島は言う。

 俊は音楽しかなかったのではなく、音楽を選んだ。

 正直なところコンポーザーとして成功しなくても、業界に入ることは出来たであろうと思う。

 それに言ってしまえば、作るよりも鑑賞する方が、俊は得意であるのだ。


 それぞれの曲を分解して、パーツとして持っておく。

 そこから自分の曲を、組み上げていくのである。

 新たな要素などは、キーを上げるか下げるか、そういった程度でしかない。

 ただ組み合わせを変えることで、印象全体が大きく変わる。

 このあたりはDAWを使うことによって、大きく自分の中の音楽が変わっていったものだ。


 真の創造性というものについて、俊は深くは考えない。

 だがこのイベントについては、より深いところまで、掘り下げられることが多かった。

 スランプになって、手先で曲を作ってしまうこともある。

 そういった程度の曲であれば、途中で崩してしまうのだ。

 新たなステージに進むための、通過儀礼のものであろうか。

 完成しそうになる曲に、満足出来なくて捨ててしまう。

 何度もそれを繰り返して、ようやく見えてくるものがある。

 それがインスピレーション、真なる創造性の感覚なのであろう。




 久しぶりに、キラーチューンが出来たと思う。

 一度聞いたら必ず、その耳に残るような曲。

 もっともこれは、ボーカルの声の力があってこそ、成立するような曲だ。

 ノイズでなければちょっと、演奏はともかく表現するのは難しいだろう。

 それこそフラワーフェスタであっても、これを歌うのは難しい。

 しかし同時に、誰もが歌えるような曲ではある。


 何曲か新曲を作った。

 アルバムにするぐらいの曲が、どうにか揃ったのである。

 だがマスター版を作るためには、他のメンバーの意見を受け入れていく。

 しかしキラーチューンに関しては、暁がソロの部分を欲しがった以外、何も他に意見が出てこない。

 これはこれで完成している。

 暁の意見でさえも、最終的な楽曲の完成度を、左右するものではない。


 これを最初に、どこで発表するべきか。

 やはりドームのステージになるであろう。

 他の曲は漸次、ライブハウスのライブでやっていってもいい。

 しかしこの曲は、一発で印象に残る。

「バラード……だな」

 ラブソングに聞こえなくもない歌詞だが、それよりは離れがたい感情を思わせる。


 別れの曲であろうか。

 それとも未練の曲であろうか。

 いくつかの受け取り方が出来て、それが全て正解だと思えてしまう。

 悲しい歌であるが、同時に優しい歌でもある。

 雪の降った地面に、くっきりと靴跡が残っているような曲。

 追いかけてみれば、まだその手は届くのかもしれない。

 迷いなく駆け出せば、また会えるのかもしれない。


 美しいメロディラインに、主張しすぎないギター。

 単純にテクニックで弾くわけではないので、むしろ難しいであろう。

 むしろ弾きやすいという意味では、初心者向けですらある。

 単純なだけに、逆に上手く聴かせるのには、ものすごい理解が必要となる。

「この曲、上手く90秒にカットしたら、アニメのEDにぴったりになるよね」

 千歳としては、そういう理解であるらしい。

 だが信吾や栄二は、そういう曲でもないのではと思う。


 純粋に誰かとの、別れを感じさせるものだ。

 タイトルからしても、そういう印象がある。

 人と人とのつながりというものは、人間にとって普遍的な問題だ。

 ネットワークでつながれる現在であっても、それは根本的には変わらない。

 若者だけではなく、大人や老人にとっても、別れというものは存在する。

 

 死別、あるいは異なる選択による、道の別れ。

 そういったものは、いくらでもあるものなのだ。

 このノイズの仲間でさえ、いつかは別れる時があるかもしれない。 

 だが再び会うこともあれば、新たな出会いもある。


 人間は変わっていく存在だ。

 それが変わらないでいてほしいと、考える方が無理なのだ。

 だが人間が変わっても、世界で変わらないものはある。

 別れを惜しむというのも、その中の一つであろう。




 千歳は卒業後、多くの友人とは別の道を歩むことになる。

 現時点で既に、一流企業のサラリーマン程度には、余裕で稼いでいる。

 だがミュージシャンなどというのは、いつまでも同じぐらい、売れていけるわけではない。

 ただ楽曲がアメリカのビルボードトップ10に入れば、もうそれである程度は食っていけるともいう。


 日本の音楽は日本の音楽で、ヒットチャートが別に計算される。

 ミュージシャンとして、ずっと生きていくのかというと、そんな覚悟は定まっていない。

 バンドボーカルとして、充分すぎる力量は持っている。

 だがノイズを離れてしまっては、どう歌えばいいのだろうか。


 ここのところ、永劫回帰にMNRと、トップクラスのバンドとスタジオに入ることが、多くなっている。

 その中でも自分のボーカルが、負けているとは思わない。

 単純に技術や力量では、確かにまだまだ上がいる。

 しかしボーカルの本質というのは、そういうものではないのだろう。

 ソロシンガーとバンドボーカル、歌唱力ではどちらが上か。

 それこそどちらも、それぞれの中で月とすっぽんの差がある。

 シンガーのランキングを作ってみれば、ソロのディーヴァなどの中に、普通にバンドのボーカルが入ってくる。

 ストーンズのミック・ジャガーやQUEENのフレディ・マーキュリー。

 意外とジョンとポールは、上のほうには来なかったりするのは、ビートルズの票を食い合ってしまうからだろうか。


 また時代が変われば、順位も変わってくる。

 ただアメリカとしては意外なことに、こういうランキングは保守的であることが多い。

 千歳のボーカルとしての魅力は、単純にキーを外さないことと、声量が基本にはある。

 だが聞いていてざらりと心を撫でられるような、そういう声質にもあるのだ。

 こういった声を手に入れるために、無理に酒で喉を焼いてしまう人間すらいる。

 だが千歳の場合は、完全に天性のものである。


 生まれつき備わっている声の質ならば、実は月子よりも恵まれている。

 月子の場合は民謡の歌い方で、相当に鍛えられているからだ。

 だが月子の歌い方は、体を完全に、歌うための道具にする、鍛え方を分かっていて鍛えられたものだ。

 結果として声量や音域は広くなり、歌える幅が広くなっている。

 ただでさえ平均よりも、かなり高音が出るタイプであるのに。


 千歳としてはバンドをしながらも、まだ学んでいく。

 普通の大学生が、授業を受けながらもアルバイトをするようなものだろうか。

 もっとも普通の大学生と違うのは、アルバイトではなくそれが仕事であり、そちらを優先するというものだ。

 既に社会に出ている人間が、改めて勉強するために、大学の聴講生になっている感じだろうか。

 そう、既に独立していてもおかしくないのだ。

 だが少なくとも高校にいる間は、叔母と共に住んでいる。

 そして大学に進学したとしても、果たして叔母のマンションを出るだろうか。


 ただの高校生という立場から、プロのバンドマンとなった今、千歳は小説家の叔母のことが少し理解出来る。

 サラリーマンなどと比べると、明らかに特殊な存在なのだろう。

 そんな千歳は高校生活三年間、確かに充実した日々を送ってきた。

 だが恋愛とは完全に無縁である。

 一応は後輩から告白などもされたのだが、全くピンと来ることがなかった。

 恋バナ自体は大好きであるのだが。




 そんな彼女の、高校における最後のステージ。

 とは言ってもそもそも、軽音部がステージに立つなど、学園祭か部活説明ぐらいであるのだが。

 今年は特別にということで、ノイズのメンバーを呼んでしまった。

 メンバーが高校に在籍しているのと、在籍していたということから話が通っている。

 また音楽の内容的にも、それほど無茶苦茶なものではない。

 そのあたり学校側も、確認して許可を与えたのだ。


 正直なところ、このステージにおいては、プロの演奏が出来るとは思わない。

 モチベーションの問題もあるし、設備の問題もある。

 ギャラの発生していない演奏になるし、次に大きくつながるというものでもない。

 それでも得られるのは、感傷ぐらいだ。

 そしてそれこそ、今のノイズにはちょっと、必要なものだと俊は判断した。


 インディーズレーベルからの発信で、充分に利益になることを証明した。

 永劫回帰やMNRは、わざわざそんなことはしていない。

 これ以前にもインディーズバンドが、大きく売れたということはある。

 だが一発屋というわけでもなく、他のトッププロと共に、イベントをやってしまえる。

 それだけの影響力があるというのは、相当に珍しいものだ。


 これだけメジャー受けもしやすい音楽をやるのに、どうしてインディーズで活動するのか。

 単純な質問には、音楽の自由度を守るため、などと答える俊である。

 だが本音を言ってしまえば、金の問題である。

 事務所を小さな規模にし、またステージなども最低限に揃えておけば、入ってくる金が違ってくる。

 元は俊が、ちゃんと利益を出すためにと考えていたものだ。

 しかしここまで大きくなって、まだインディーズというのはおかしい。


 俊はもう一段上のステージに進む段階で、さすがにメジャー契約になるだろうな、とは思っている。

 それは千歳の高校卒業を待っていたことも関係する。

 インディーズデビューし、そして武道館公演までして、さらにフェスでもメインステージで演奏する。

 こんなものはもう、トップクラスのバンドなのだ。

 そういったバンドが無料で、高校の学園祭で演奏をする。

 これだけで一つの話題性が出てくるのだ。




 例年と比較しても、機材の調達がしっかりと行われている、体育館のステージ。

 既に今の時点でも、去年に比べて多くの生徒が、集まってきている。

 軽音部からも何組か、演奏しているバンドがいる。

 さすがに全部というわけではなく、事前に軽音部内でオーディションをしているのだ。

 ただ出来るだけ多くの部員が、演奏できればいいとは思われている。


 その中では木蓮も、他のバンドに混ぜてもらって、ギターを演奏していた。

 それらが全て終わって、ラストにノイズの出番が回ってくる。

 このあたりの時間帯になると、さすがによほどひねた学生以外は、話の種にと体育館にやってきている。

 武道館や夏フェスのメインステージで演奏するバンドを、一度は生で見たいと思う。

 普段よりもチープな環境ではあるが、わざわざ生のライブを見るなど、他に一生ないという人間もいるかもしれない。

 そういう存在に向けて、たとえノイズのファンにはなってくれなくても、こういう世界があるのだと見せ付けたい。


 照明を少し暗くして、メンバーがそれぞれの位置につく。

 そして最後の調整として、楽器を少し鳴らしていく。

 チューニングがしっかりと合っているか否か。

 演奏している間にも、その音が外れていくのが、ギターというものである。


 そして全員の準備が完了して、今日は完全に千歳がMCをする。

『皆さん、こんにちわ。ノイズです』

 そこで合いの手を入れるように、歓声が上がる。

 同じクラスの友達や、軽音部の部員によるものだ。

『あたしは普段、バンドを組んだ活動をしていて、今年は武道館での公演も出来ました』

 拍手が鳴り響いて、それに千歳は手を振る。

『年末には東京ドームで、永劫回帰やMNRとの、合同コンサートも控えています。ほとんどの席は売れたけど、安いところは少しだけまだ残ってるからね』

 実はそうなのである。


 いい席が売れていって、微妙な席が残っている。

 これは逆よりもよほどいい。

『だから今日の演奏で、聴きに行きたいなっていう人が少しでも出ればいいな、って思ってます』

 正直なところ、発売初日でソールドアウト、というのが話題的にも嬉しかった。

 しかし身分証明書まで、しっかりと確認するコンサートであるため、下手な転売目的なども不可能になっている。

『今日はあたしたちの曲を三曲と、一緒にやる永劫回帰とMNR、それぞれの曲を一つずつやっていきます』

 カバーをするにしても、しっかりとアレンジはしていく。

 どのように聴こえるかは、それぞれ次第であろう。

『あと今日は、新曲も一つやるんで。まずはあたしらの曲、ハッピー・アースデイ』

 そしてOPバージョンではない、長めのイントロから、曲は始まったのである。




 今の日本のロックバンドは、ロックと言いながらもポップスであることが多い。

 またメロディアスな曲が多く、歌詞などもかなり聴きやすいものになっている。

 分かり易さ、というのがポイントであろうか。

 難解なプログレなどをやっていたり、オルタナティブをやっていても、なかなか全ての層には受けないのだ。

 これはどちらが上とかではなく、より大衆に寄せているかどうかだ。


 ただそんな中ではミステリアスピンクなど、徳島の主張がバリバリに入っていて、薄めていても特徴的と言えるだろうか。

 むしろ同じ特徴の曲を、連続で出したりはしないこと。

 それが彼の作る曲の特徴なのだが。

 ミステリアスピンクは、アルバムが相当に売れた。

 構成からしてしっかりと、徳島が考えたものであるという。

 今はミュージシャンではなく、曲である程度の評価がされる。

 しかしながら徳島の場合は、どの曲もキレがあるのだ。


 永劫回帰もMNRも、バラードからハードロックまで、そこそこ表現の幅は広い。

 だが俊がそれを、カバーできないほど難解な構成、というわけではない。

 普通に誰もが演奏できても、上手いと下手がはっきりと分かる。 

 そういう曲をあの二つのバンドは作っている。


 俊の場合も基本的には、大衆寄りで間違いない。

 ポピュラーミュージックというのはそういうものなのだ。

 だが俊の場合は、そこですんなりと作るのではなく、またもがき苦しむようになった。

 それでいて曲の数自体は、しっかりと出してくるのだが。


 納得できないのなら、それは発表したりはしない。

 年末の発表の新曲ではなく、アルバム用に作った曲をここで演奏する。

 そして永劫回帰や、MNRのカバーまでしてのける。

 だいたいどこかで流れているような、そういうメジャーな曲である。


 はっきり言ってしまえば、木蓮以外の軽音部員とは、明らかに演奏のレベルが違う。

 音の違いがあることは、よほど耳の悪い人間以外は、はっきりと感じるのだ。

 しかし全ての人間に、その違いを感じ取ってほしい。

 そういう演奏をしたいのだと、俊やメンバーは考えている。


 音楽で世界は変わらないだろう。

 だがこの場にいる少しの人間に、わずかでも影響を与えたい。

 人を変えることが出来れば、それが重なって世界が変わるかもしれない。

 千歳はテレキャスターをかき鳴らしながら、歌に感情を乗せていく。

 暁はレスポールの音にそのまま、表現を乗せていく。

 普通の学校の学園祭には、ちょっともったいないぐらい。

 そういう演奏は確かに、わずかながらも人々の意識を、変えていったのであろう。

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