第244話 夕暮れの歌

 今年の夏の終わりに相応しい、そんな演奏にしたい。

 俊はそう考えて、フェスの演出を色々と考えている。

 もっともその設備などはイベンターの手によるものなので、ノイズだけの要望が通るわけでもない。

 フェスの熱量はここまでに、既に最高潮に達している。

 それを冷えさせないためには、セットリストの順番が重要になってくる。

 タイムテーブルでは50分の演奏となっているが、実際は一時間まではOK。

 五万人以上、それどころか遠くから見ている、六万人以上のオーディエンスを相手に、ノイズの演奏が始まる。


 ノイズは多くの楽曲を持っているが、世間で知られているのはかなり限られている。

 ノイジーガール、アレクサンドライト、ツインバード、霹靂の刻、ハッピー・アースデイあたりはよく知られている。

 この五曲をやった上で、カバーにやる曲を決めていて、残り五曲ほどを考えていた。

 普段はマイクスタンドに対して歌っている千歳だが、今は右手を負傷中。

 なので左手でマイクを持って、ボーカルに集中している。

 ギターを弾かなくてもいい分、ボーカルの精度が上がるのかというとそうでもない。

 ギターを弾くことによって、リズムがバンドの演奏と一体化する。

 そういう点ではやはり、ギターボーカルが千歳には合っているのだ。


 夏と言っても八月の終わりは、一番陽の長い日を過ぎている。

 しかし日没が早くなるのを感じるのは、まだ先のことである。

 八月の最終週末に、このフェスは行われている。

 正確に言うと、二週間に渡って、土日ともう一日を使って行われているのだが。


『夏はもう終わるけど、まだまだ熱いからねー!』

 千歳は元気にそう煽って、全力で感情を歌に込める。

 ノイズの曲調は基本的には、アップテンポなロックテイストが多い。

 楽器の演奏があってこそ、ボーカルの力を引き出すのだ。

 ただ曲によっては、ギターやドラムなどだけのパートに、アカペラに近いボーカルが乗るという曲もある。

 そういう曲を歌うのは、千歳ではなく月子の役目だ。


 月子の歌声は、熟成されている。

 千歳に比べると、ずっと抑圧されてきた期間が長い。

 千歳は千歳で、正しいルートを示す母親に、コントロールされてきたという部分はある。

 だがそれは幸せな記憶を伴っているのだ。

 月子の場合はわずかな幸福の期間は、両親の死と共に終わる。

 そして厳しい祖母による、体罰さえ含む教育が待っていた。

 せいぜい手の甲をつねるとか、ほっぺたをひねるといった、ささやかなものではある。

 今はそれも、DVなどと言われる時代だ。


 月子が冷静になって、当時のことを思い出すと、最初だけは本当に祖母が優しかったことを思い出す。

 そして自分が死ぬまでに、月子を生きていくように育てようと、必死であったことも分かるのだ。

 厳しさの中に愛情があったからこそ、月子は逃げずに民謡の世界で鍛錬したのだろう。

 人間の才能には、過酷な状況で花開くものもあれば、純粋培養されて花開くものもある。

 月子の場合は厳しく抑圧されたことが、結果的に今は良い方向に花開いている。

 彼女の歌声には、千歳と同じく激しさがある。

 しかしその激しさにも、波があって色があるのは、月子の経験が生きているからだ。




 天才を生み出す環境、というものを研究したものがある。

 その中では多くが、天才には先天的なものが必要だ、となっている。

 ただその先天的なものは、むしろ幼少期にはマイナス方向に見えるものであったりする。

 過集中による学習障害など、そういったものの一つであろう。

 知能指数が高すぎることは、むしろ社会性の欠如に向かいやすい。


 音楽の世界は確かに、感性の世界ではある。

 ただ様々な知識があるため、学問でもあるのだ。

 古代ギリシアにおいてなどは、音楽は学問の一分野であった。

 実際に作曲をしてみれば分かるが、ある程度のコード進行や、転調といった知識は重要になってくる。

 言葉を知らないまま、自然と使ってしまっている、まさに天才的な人間もいたりするが。


 天才的な閃きを持っていながらも、そこから音楽の基礎を学び直すという人間もいる。

 それで自分でも気づいていなかった、自分の長所に気づくのだ。

 だが構築された作曲法は、せっかくの自由なインスピレーションを手放してしまうことにもなりかねない。

 そのあたりが加減の難しいところであるが、数式的に音楽の作曲が分かっていれば、少なくとも駄作が作られることはなくなる。

 最低でも凡作にはなるのだ。

 そこからさらに深く潜っていくと、ネタ曲が生まれたりする。


 俊は幼少期から、普通レベルの作曲はしてきた。

 しっかりと基礎を学んでからは、コード進行などでまともな楽曲を作るようになった。

 DAWを使うようになると、様々なパターンを選び、曲を作ることが出来るようになる。

 その中からどう取捨選択するかというのが、センスの問題になってくるのだろうか。

 だが月子の声と出会った時に、俊は天恵を受けた。


 彼女の声に合うように作った曲は、暁のギターで発展した。

 そこからはどんどんと、作曲が出来るようになってきた。

 サリエリ時代に作った楽曲の中で、もっとも優れたものであったよりも、さらにいい曲である。

 そうやって何曲も完成させて、また曲の断片も作り出した。

 しかしここで一度、スランプがやってきている。


 作曲にしろなんにしろ、才能の限界というのはある。

 スポーツなどとは違って、技術ではなく感性の世界なのだから、そんなものはないように思う者もいるかもしれない。

 だが創造性を必要とする分野は、燃え尽きたという人間が出てくる。

 俊の父親にしても、真に創造的な楽曲は限られていて、ほとんどは同じパターンの色を変えていただけとも言える。

 洋楽にしろ邦楽にしろ、そういう名曲も色々とある。

 同じリズムをずっと刻みつつ、それでも名曲と呼ばれるもの。


 それこそビートルズの時代から、そういったものはあるというか、それ以前からある。

 ダンスミュージックが多くなると、リズムは本当に一定になってしまったりする。

 それはそれで面白いものなのだが、俊の好むものではない。

 自分の好むもの、それは一つのスタイルなのではないか。

 そんなスタイルに囚われてしまうのは、創造性の放棄なのではないか。

 上手くいっている時にこそ、こんな考えに縛られてしまうのかもしれない。

 だが演奏自体は、問題なく出来るのだ。




 月子のエレキ三味線も、もう堂に入ったものになってきている。

 三味線は弦が三本、鳴らす音の幅はギターよりも狭い。

 そもそも表現する音が、ギターとは違うとも言える。

 三つの弦が上手く重なると、唸るような音になるのだ。


 撥を使って奏でる、カンカンという音。

 スピードはあるのだが、それが緩やかになると今度は全く、音の性質が変わってくる。

 ロックの実験的な曲にも、音を歪ませるものはあるのだが、ある程度はそれに近いと言ってもいいだろうか。

 ギターにはない音で、しっかりとこれも音が歪まされる。

 基本的に俊の素養は、西洋音楽にある。

 ロック以外にもポップス系だけではなく、母の趣味でクラシックなども聞いていた。


 クラシックに近いところから、ゴスペルなども参考にしている。

 月子の声は確かに、賛美歌などに近い趣がある。

 本気で声楽をやらせたら、と思わないでもない。

 もっともさすがに、今からオペラなどをやらせるには、その背景までを理解するのが難しいだろう。

 単純に素質というだけなら、充分にあるのは間違いない。


 ロックの中にゴスペルが入っているのは、別に珍しいものではない。

 オペラを入れたものもあるのだから。

 黒人音楽をいかに、現代音楽として発展させていくか。

 ロックの次はそれは、ストリート系のヒップホップになったと言うべきであろうか。


 基本的にロックの世界は、白人音楽という面が強い。

 もっとも60年代のジミヘンは、ネイティブアメリカンの血も入った黒人であった。

 かれの才能の源泉には、そういった文化的な背景もあったのだろうか。

 日本人のやるロックは、基本的にポップス寄りが主流だ。

 もちろんオルタナ系もあって、ある程度の人気もある。

 ただポピュラーに寄った存在と、よりオルタナティブな存在の間には、それなりの溝を感じないでもない。


 俊の作る楽曲は、基本的にはメタルに属するものが多いのだろう。

 技術に加えて機材など、EDMも取り入れている。

 しかし最後のところでは、ライブでは生楽器の演奏に任せる。

 純粋に作品を、演奏側が作り上げるレコーディングとは違う。

 ライブはやはり、オーディエンスとの間の対話の要素があるのだ。

 昔からライブCDなどといった、そういうライブの演奏を収録した音源で販売されているものはある。

 そこにあるライブ感こそが、好きであるという人間は少なくない。


 そもそも人間の演奏するものは、必ずノイズが発生している。

 だからこそフィーリングで伝わるものなのだ。

 ボカロPとして作曲を行っていた時も、常に調声で考えていたのは、どれだけ人間の声に近づけるかということ。

 それはどれだけ正確なだけの音から遠ざけるか、ということでもあったのだ。




 打ち込みによる正確さというのは、かえって気持ち悪い。

 もっともDAWで作曲をしていると、最初はその正確な音にしかならない。

 それを不完全にしていくことが、むしろ感情に訴えることになる。

 まあ楽譜通り弾いているのと、楽譜通りに弾いているのに個性があるのでは、違うのと同じものだ。


 激しく弾くのでも、なぜ激しく弾くのか。

 その背景を理解していないと、全く意味がなかったりする。

 逆にそんなことまでも言語化するのは、陳腐で無粋であるということもある。

 月子の声などは高音で透明感があるのに、ものすごい圧力を感じる。

 それは彼女の人生の、複雑な圧力である。


 俊は月子のボーカルとしての能力は、もう彩を超えているのではと思う。

 比較するのもおかしな話で、それぞれが素晴らしいものではあるのだが。

 ただ最近の彩の楽曲は、俊の渡したもの以外は、かなり似たようなものとなっている。

 元々の作曲の能力は、それほど高くもないのだ。

 やはりゴーストを入れるか、そのまま楽曲を提供してもらった方が、売れ続けるためにはいいのだろう。

 実際にコンサートなどで聞いてみないと、その本質は分からないだろうが。


 ボーカルほどメッセージ性を、音に込めることが出来るパートはないだろう。

 歌詞にはやはり、その人間の内面が出てくる。

 千歳の場合は何を歌っても、その魂の切実さが伝わってくる。

 彼女は常に攻撃的だ。

 それが心地いいのだと、多くのファンは感じている。


 対して月子は、もう満たされかかっているはずだ。

 武道館を経験し、巨大なステージでも歌っている。

 彼女が想像していたような、マイナスからプラスへの大幅な上昇。

 だが彼女の歌に込められたものは、まだその濃度を失っていない。

 むしろここからが、複雑化していくような気さえもする。


 ボカロPとして多くのボカロ曲を作ってきた。

 だが歌ってみただので歌われると、よほど下手な歌い手以外は、生歌のほうが心に響く。

 俊は本質的には評論家タイプなので、そのあたりを客観的に見てしまう。

 ボカロの調声というのは、しょせんはどこまで機械の声を、人間に近づけていくかというものだ。

 それはずっと、完全なものから不完全なものへと、変化していくことである。


 逆に人間の場合は、技術的には正確さを求める。

 正確な上でなお、そこに何を増やしていくか、それが重要になってくるのだ。

 千歳はまだまだ、真っ直ぐに伸びていく段階だ。

 しかし月子は、複雑化していっている。

 それを感じるのはよほど、耳のいい人間だけであるだろう。

 ただ業界の人間でも、ボーカルとしては月子の方が上であると、ほとんどの人間は分かっている。

 むしろ月子はバンドボーカルではなく、ソロで売れるタイプだとまで言われるが。


 確かに歌だけを聞いていれば、そう思うのも無理はない。

 だが月子の場合バンドとは、彼女をフォローしてくれる存在でもあるのだ。

 シンガーとして見た場合と、人間として見た場合、月子の強さは全く違う。

 多くの人に知られるようになって、大舞台のステージにも立つようになった。

 それでも本質的には、昔から変わっていないのだ。




 ノイズの将来というのを、俊は考える。

 だがそれはバンドとしての将来であって、それぞれの人生の将来ではない。

 恋バナの好きな千歳に、ギターさえあれば満足な暁。

 ただ生きていくだけでも、誰かのフォローが必要な月子。

 だんだんと人間としての力は増していっているが、それでも生きにくいことに変わりはない。

 彼女をいずれ、誰か支えていく人間が現れるのか。


 その時にノイズは、どういう存在となっていくのか。

 もちろん千歳が将来、大学に入ってそれから、大学を卒業してどうなるか、それも不確定なことである。

 普通に恋愛願望のある彼女は、業界人とあっさりくっつきそうでもある。

 暁は逆に、誰かとくっつくような感じがしない。

 むしろ彼女を理解し、それを受け入れるような男が、どういうタイプであるのか。


 俊自身はどうでもいい。

 音楽を続けて、音楽に関わって生きていければ、それでいいのだ。

 誰かと一緒にいるということなど、別に望んではいない。

 もっとも今の同居生活が、楽しいのは確かであるが。

 このあたり微妙に、人間不信なところがあるのを、他の人間はどう考えているのか。

 ただ俊は、音楽だけは信じている。


 音楽に囚われてしまった、と言うべきであろうか。

 結局は才能のなさというのも、執念によって乗り越えてしまった。

 今はまた、壁にぶち当たっている。

 だがそれに絶望して、音楽を捨てようとは思えない。

 もはや音楽に関わること自体が、生きていくことになっている。

 人間の生き方としてそれは、歪なことではないのだろうか。

 もっとも日本人の場合、仕事人間というのはそれなりにいて、定年になると抜け殻になる人間はいたりするものだ。


 俊は音楽が失われるなら、それはもう死んでもいいというぐらいの気持ちでいる。

 自分の生きている意味を、全て音楽に注ぎ込んでいる。

 何か他のことを体験するのも、全て音楽に深みを増すため。

 そんなことを考えていたら、音楽こそが俊の存在そのものになる。

 それも全く悪くはない。




 このステージも終わりが近づいている。

 アンコールに応えて、カバーするのは八月を歌ったもの。

 10年後の八月、果たして自分は何をしているのか。

 最初にこれを歌ったのは、月子がメイプルカラー解散の前であった。

 彼女はあの時、まさか10年後にもまだ、地下アイドルなどをやっているとは思っていなかっただろう。

 だがその直後に、解散するとも思っていなかったはずだ。


 俊はこの音楽に触れている環境を、モラトリアムの期間にしたくなかった。

 だからこそしがみつくために、多くの技術も身につけた。

 コネもあれば伝手もある。

 そんな俊からしてみれば、涼の考え方や活動は、あまりにも楽観的にすぎると思う。


 今回のギターのヘルプにしても、俊が頭を下げただけで、普通に引き受けてくれた。

 それなりに追い詰められているはずなのに、執念というものが足りない。

 結局は俊と違い、生活に音楽というものが、あまり絡んでいなかったからではないか。

 これが俊なら、次のワンマンの前座にでも、出してもらうように交渉したのではないか。


 そう俊は考えているが、自分は自分で父親のコネや伝手を、必死で利用しようとはしていない。

 彩の線からはどの道、上手くいかないと分かりきっていたであろうに。

 もっともそれはそういった道を進まなくても、ノイズの活動が順調であったからだ。

 しかしサリエリとしてボカロPの活動をしていた頃は、まだ必死でなかった。

 こしあんPとして上手くバズったのだから、もうあの路線を使ってでも知名度を稼ぐべきであったか。

 しかしネタ曲は賞味期限が早い、というのも俊の冷静な部分が言っていたことだ。


 なんだかんだ涼もまだ、年齢的に限界に達していない、ということはあるのだろう。

 フレッシュなものを求める業界、20代でデビューできなければおおよそ終わってしまう。

 だが俊にしては大学に通いながら、様々な技術を磨いて伝手は作っていた。

 コンポーザーとして芽が出なくても、この業界で生きていけるように。

 そういった保険のような経験が、結局はノイズで上手く活かせている。


 結局は全てのことが、音楽に活かせるかどうかなのだ。

 それこそ日々の日銭を得るバイトにしても、俊はCDショップを選んだ。

 もっとも生活に困っていたとかではなく、小売の最前線ではどうなっているのか、それが気になっていたからだ。

 そのあたりの生活の切実さが、俊と涼とでは違うところだ。

 なんだかんだ言いながら、俊は実家が太いのだ。

 だからこそ、ただ生きるために必要な時間を、学ぶために使うことが出来た。

 音楽に限らず、マンガ家だろうが小説家だろうが、そういったスタートラインの違いはある。

 親ガチャという点では、完全に俊は恵まれているのだ。


 俊は不幸や、不遇の経験さえも恵まれている。

 両親の離婚、母による父の否定、そして父の死。

 しかしながら岡町のように、父代わりに導いてくれる人間はいる。

 涼はその点では、完全に親ガチャのタイミングが悪かった。

 俊は今でも父親は好きであるが、母の離婚のタイミングが、最善であったとは思うのだ。

 そんな打算的な思考をするのも、俊が恋愛体質でなくなった、もう一つの理由であろう。

 もちろんもう片方は、彩との関係性である。


 太陽の傾く中で、千歳と月子が歌っている。

 コーラスの部分では少し、暁も歌っている。

 夏が終わるが、それはまた次の舞台への変化である。

 五万人以上の人間が、ステージを見に来ている。

 この経験を糧にして、果たして何かを生み出せないものか。

 俊の中の創作意欲が、また刺激されてきていた。

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