第228話 欠落した技術
いわゆる社会的成功に分類されるぐらい、金を稼げるようになって、千歳は何が変わったか。
それはやはり価値観である。
単純に言うと貧乏ではなくなった。
そのために金遣いが荒くなったか、というとそういうわけでもない。
俊はそのあたり本当にしっかりとしているので、千歳の保護者の文乃と話し合って、基本的に千歳のギャラは文乃が管理することにしている。
もちろんお小遣いはとても多くなって、領収書を提出すれば次の月にはそれに見合ってお小遣いが増える、という制度も作られた。
あとは時間の価値が上がった、ということであろうか。
昔は一駅分ぐらいならば、平気で歩いてみたものだ。
今もそれぐらいは歩くこともあるが、急いでいる時にはタクシーを使うことをためらわなくなった。
今日の場合もそうである。
「柊ちゃん、ちょっと付き合って」
朝には必死で勇気を出していただけの少女が、夕方には軽音部の中でも一目置かれるようになる。
だが今日はまだ終わっていない。
「へい、タクシー」
学校の前から適当に、見かけたタクシーを止める。
先にさっさと乗っかって、木蓮を手招きする。
「あの、どこへ?」
「柊ちゃんさあ、相当上手いよね」
「いえそんな、先輩に比べればわたしなんて」
「謙遜しなくていーよ。ぶっちゃけあたしはギターそんなに上手くないし」
「え」
それこそ本気で言っているつもりなのだが、木蓮は宇宙猫のような表情をした。
基準が違う。
千歳はまだ暁はおろか、信吾にも技術的に及んでいない。
もちろん技術だけが重要なのか、というとそんなこともない。
バンドのギターボーカルには、声とマッチするという要素が必要なのだ。
千歳がギターを買っても、テレキャスタイプの物ばかり増えるのは、必要な要素がテレキャスターに多いからだ。
暁などはレスポール・ジュニアを試せと言ってきたりもするが、むしろギブソンならSGやムスタングなどの方が、千歳には合うのかもしれない。
もっともテレキャスターとは、かなり扱いが変わってくる。サイズの面でも。
「領収書ください」
そして千歳は俊の家の前に降り立つ。
普段なら別に、普通に電車を使っているのだ。
今日は時間もであるが、電車賃のことを考えて、タクシーを使ったわけである。
ブルジョワじゃ。
田園調布のあたりの住宅街は、東京の中でもかなりの高級住宅街だ。
松涛には負けるがそれでも、大きな住宅が立ち並んでいる。
千歳はもうカードキーをもらっているので、勝手に入っていく。
「あの、ここって」
「うちらのリーダーの家で、地下にスタジオがあんの」
本当は税金対策をするならば、ここをスタジオとして登録すべきなのだが、そもそも俊の持ち家ではない。
だが実質的に、ノイズの練習スタジオは、リハなどを除けばほとんどここで行われる。
木蓮は朝起きた時、こんな展開は考えてもいなかった。
ただそんな経験は、千歳もしているのだ。
あの日、どうにか終わったライブの後、突然に俊に引っ張り出されたノイズのステージ。
それに比べれば木蓮の場合、いきなり芸能人集団に会うようなもので、千歳としては身内に会わせるだけなので、こちらの方が気楽だろうと勘違いしている。
地下のスタジオには、既に他のメンバーが揃っていた。
だいたい他の仕事が入っていなければ、高校生である千歳が、一番遅くなることが多い。
あとは信吾や栄二はヘルプを頼まれたり、俊は岡町の助手をしたりと、またリーダーとしても忙しい。
意外と暇に思える月子は、そもそも生きていくのに手間隙がかかる。
読むだけならば漢字混じりの日本語よりも、英語の方が読みやすいというものだ。
頭の中で文字が、違う意味をもって捉えられるというのは、言われてもなかなか分からないものだが。
東京にも民謡酒場などはある。
月子は普段、そちらで腕を磨くようになっている。
アルバイトなどではなく、暇があれば行ってみて、演奏者がいなければ代わりにやってみるというものだ。
高校生の千歳は、一度だけそれを見に行ったことがあるが、もちろん食事だけで酒は飲んでいない。
ロックスターにつき物の酒であるが、俊はそっち方面のスキャンダルは、あまり気にしてはいない。
しかし純粋に、喉を焼いてもらうと困るため、ボーカル二人にはきつい酒は許可していない。
ただバンドボーカルとしては、千歳の方は少しだけ、酒で声を痛めた方がいいのでは、という話もした。
未成年者の飲酒という意味では、俊は全く悪いことと思っていない。
法律で禁じられているので、バレるところでは飲むな、と言うぐらいだが。
法律だから守るのではなく、安全のために守るのが俊だ。
夜中の赤信号などは、左右をしっかり確認したら、当然のように渡っていく。
高校生が酒を飲むのも、急性アルコール中毒にでもならないのなら、別に飲んでもいいと考える。
そもそもフランスでは、飲酒可能年齢はもっと早いのだし。
このあたり俊は、ルールに対しては柔軟だ。
逆にマナーに関しては、他人に与える影響を考えて、かなりしっかり守るところがある。
悪印象を持たれるのを、相当に危険視するのだ。
俊はたった一人の人間相手にも、高圧的に振舞うことはしない。
するべき時はするが、一般人相手には丁寧に対応する。
バンドのリーダーであり、作曲と作詞、そして編曲の多くを担う存在。
中心人物であるので、他との交渉などをすることも多い。
傍から見れば欠落している部分もあるし、良くも悪くも世間知らずな面もある。
だが基本的には慎重で、音楽以外では直感を重視しない。
この日、千歳から連絡を受けた時は、まずどういう方面に利用できるか、ということを考えた。
もっとも俊は千歳の人物鑑定眼には、それほど信用を置いていない。
彼女の感性はあくまでも、一般人に近い。
だからこそ共感出来る、という部分も多いので、悪いことでもない。
「ふおお……ノイズのメンバーが揃ってる……。何これ、わたし死ぬの?」
こんな反応は極端であるが、似たようなものはないわけではない。
千歳は木蓮のギターを聞いて、これはプロでも通用するか、少なくとも高校の軽音部に置いておくのは、場違いな存在だと感じた。
なのでとりあえず、俊や暁に聞いてもらおうと思ったのだ。
そこからどうしていくのかは、俊に任せればいいだろう。
かなり投げっぱなしの考えであるが、このあたり千歳の思考は、インスピレーションに従ったものとなっている。
直感に従う人間を、俊が放っておくわけにはいかない。
タクシーの中で千歳は、木蓮にある程度の説明はしたのだ。
今の軽音部は新入生が入ってからしばらく経過し、もうバンドグループが結成されている。
掛け持ちもありではあるが、基本的にギターというポジションは、人気があるだけに志望する人間も多い。
なので余っているのだから、学外のバンドに入るのもいいかもしれない、というわけだ。
そしてそういう方面では、俊や信吾の顔が広い。
栄二になると完全に、もうプロ相手ばかりになってしまうのだが。
ガールズバンドは楽器の演奏が、少しぐらい微妙でも大丈夫、などと考えるむきもある。
アイドル売りのガールズバンドというのはあるのだ。
クリムゾンローズなどは、アイドル路線では絶対にないが、ビジュアルで売っているところはある。
ミステリアスピンクも歌唱力だけではなく、全体的なスター性で売っている。
永劫回帰などはゴートの超絶イケメンっぷりからビジュアル系扱いされることもあるが、音楽はハードなものだ。
あそこはベースが女の子で、ちょっと変わった配置とでも言えよう。
俊はとりあえず、木蓮を落ち着かせることにした。
「何か飲むかい? 一応コーヒーからコーラまで、それなりに揃えているけど」
「いえいえいえ」
「あたしミルクティーよろしく」
「いや、お前は手伝えよ」
地下のスタジオの不便なところは、水回りがないことであろう。
しかしそれは仕方がないことで、そこまで設備が揃っていれば、俊が引きこもってしまう。
俊と千歳が離脱してしまったので、ここは手慣れた信吾が話しかける。
「ギターが上手いんだって?」
「はひ! いえ! そんなことないです!」
耳の肥えた千歳が言うのだから、技術的にか感性的にか、どちらかは優れているはずなのだ。
「ギター何使ってんの?」
暁も話しかけるが、ケースを見ればだいたい、何かは分かるものである。
どうせストラトキャスターなのだろうが、ストラトでも色々とあるのだ。
いくらでも異論はあるだろうし、むしろ異論がなければいけないのだが、ストラトキャスターはエレキギターの王様だ。
実際のところはそのストラトでも、作った年代で色々な差はある。
「これです」
「あ、これは年代物……」
宝物を扱うように、暁はそれを受け取る。
「おお、ストラト……」
信吾としてもギターを弾くなら、ストラトタイプが勝手がいいのだ。
シリアルナンバーを見れば、相当に古い物だとは分かる。
「あ~、これってひょっとして、むっちゃいい時代のストラトじゃない?」
暁は完全なギブソン・レスポール原理主義者であるが、他人にそれを強要することはない。
自分の持っているレスポールが、かなり特殊だと分かっているからだ。
「シリアルが本物なら……フジゲン時代のか。ジャパンビンテージだけど、ペグとかが変わってるんだな」
惜しいと信吾は思ってしまうが、楽器は使っていれば傷もつくものだ。
日本は舶来品をありがたがる民族性を持つが、実際には精密な楽器などであると、日本で作った物の方が性能は良かったりする。
実際にアメリカでの人件費高騰などで、日本に工場を作って売っていた時代というのはあるのだ。
そもそも年代によってバラツキの少ないのが、日本で作られたギターのいいところだ。
特にフジゲン時代のギターは、今でも評価が高い。
94年のストラトキャスター。
オリジナルの部品が揃っていれば、かなりの金額になっている代物である。
だが楽器としてちゃんと使っていく上では、部品を交換していく必要がある。
そしてさすがに、オリジナルの部品を集めて使っていては、金額がかかりすぎるというのも確かだ。
「ちょっと聴いてみたいな。アンプの設定とか分かる?」
「一応は」
暁はアンプにストラトを接続させるが、エフェクターはとりあえずいらないと言われた。
まあ高校生であれば、エフェクターをそうたくさん揃えるのも、厳しいだろうとは分かっている。
暁の場合は父が、本物のミュージシャンであったということが、その才能の形成に影響を与えた。
好きなように機材を使える、という環境が幼少期からあったのである。
なのでボイスエフェクターなども試してみたことがある。
だが純粋に技術だけを確認するなら、アンプで充分な機能が揃っている。
暁も最近は、自分でエフェクターを増やすようになった。
父のエフェクターなどは、自分とは使うのが違う場合がある。
そもそも暁と違い、ほぼ同じギター一本で通すというものでもない。
スタジオミュージシャンというのは曲に合わせて、音を作っていくものだ。
だいたいギターは二本から三本あれば、ほとんどの曲には対応出来る。
それなのに新しいギターを買ってしまうのは、ギタリストの性であると言えようか。
もっともビンテージをありがたがって買ったりはせず、使えるギターしか買っていないので、そこはいいだろう。
暁の場合はレスポール一本で、どこまでの音を表現するかになる。
するとやはりエフェクターが必要になり、エフェクターボードもしっかりと組んである。
マルチエフェクターでも充分に使えるものだが、やはりそれぞれのエフェクターを使ってみたくなる。
このあたりは本当に、音を楽しんでいる趣味の世界だ。
だが経費にはなるし、後に必要なくなった時には、それなりの値段で売ることが出来る。
別に意識していたわけでもないが、父の持っているギターはおおよそ、買ったときの二倍から五倍の値段になっているものが多い。
ギターは楽器であり使用を前提としたものであるのに、美術品としての価値が出てしまっている。
著名なミュージシャンが使ったとかではなく、普通にギブソンの58年モデルなどは、高級車が買えるぐらいの値段は普通にする。
もっともそれがいい音が出せるかというと、それも違った話なのだ。
別にギターに限らず、コレクターの存在する世界では、当たり前の話だ。
書籍にしても初版本が、数百万という値段になっていたりする。
マンガの世界でさえも、そういうものはあるのだ。
とりあえずアンプを調整し、期待するような音が出るようにはした。
そこで俊と千歳が、人数分の紅茶やコーヒーを持ってくる。
「好きなの選んで。残ったのを飲むから」
砂糖にミルクと、しっかりと用意してある。
なおこれらは俊の気配りではなく、お手伝いさんがやってくれているものだ。
飲みながら話していると、父親の影響でハードロックが歌えるという話になる。
英語の意味はあまり分からないが、完全に丸暗記しているというわけだ。
実際のところ暁などは、母がカナダ人ということや、父親の趣味のこともあるが、英語の成績がいいのは洋楽のおかげである。
やはり演奏するからには、歌詞の意味も知っていたほうが、音に感情を乗せられると判断するのだ。
作詞などをする際は、洋楽の歌詞を知っていると、それを引用した歌詞を作れたりする。
これは別に珍しい技法ではなく、日本では既に1000年も前から使われていることだ。
音楽というジャンルではなく、和歌というジャンルだが。
本歌取りというもので、相手に教養がないのなら、通用しないという難儀な技法である。
もっとも平安貴族の教養は、そのあたりかなり高いものがあったらしいが。
洋楽の場合、特にパンクになったりすると、初期はアンチキリストだとか、そういった歌詞が多かったりもする。
これは根底となる文化が違うだけに、日本ではあまりしっくり来ないものである。
逆に日本の場合は、信じる者しか救わないせこい神様を馬鹿にしても、普通に誰もが苦笑する程度で終わったりする。
だが保守的なアメリカ人であると、この程度でもかなり不快に感じる者はいるのだ。
ちなみにノイズメンバーは、基本的に全員が無神論者である。
ミュージシャンにとっての神は、ジミヘンだったりジョンだったりフレディだったりするのだ。
ドラマーであればボンゾであろうか。
ちなみに西洋文化も古代にまで遡ると、人間の神格化というのは普通に行われている。
古代ローマ帝国、黄金の時代などである。
歴代の皇帝は、おおよそ神格化されて、その象が作られた。
ちなみに生きている人間や、神になっていない人間は、衣服をちゃんと着ているそうな。
例外はあるが裸体で表現されるのは、神になった人間らしい。
いや、アウグストゥスは普通に着衣の像がいっぱい残っているではないか、と言えるのも確かなのだが。
キリスト教の時代に、裸体の像が相当に、破壊されたという背景もある。
この破壊から芸術を守るために、海に沈められた像が、後にルネッサンスで引き上げられた、ということもあったりする。
今では普通に裸体画は芸術であるが、足を出す絵さえも咎められた時代はあったのだ。
日本の場合は仁王像の肉体美があったり、江戸にまでなると春画が出てくるが、その文明の一番初期のものは土偶であるだろうか。
さて、準備は完了した。
「何を演奏する?」
「じゃあやっぱり、God knowsを」
やはり高校生が自分の技術を見せ付けるなら、分かりやすいレベルの高さがある曲だ。
リードギターを本来のテンポで弾くのは、俊でもちょっと難しい。
「じゃあ、合わせてみる?」
千歳が自分のテレキャスを取り出して、信吾と栄二も立ち上がった。
セッションである。
この曲には本来、そこまでの楽器で足りてしまう。
なので俊とともに月子と暁は待機、ということになる。
千歳がそれぞれの準備を確認し、木蓮は頷いた。
そして視聴覚室ではやらなかった、ドラムからのスタートで演奏が始まる。
こういう形で演奏を見るのは、俊や月子はともかく暁は珍しい。
最初からギターは難しいところがあるが、歌が入るあたりで暁は気づいた。
なるほどこれは、確かに技術的にはかなり上手い。
だが千歳は少し歌いにくくしているし、他のメンバーもそれは分かっている。
感心しながらも俊は、この問題を正しく把握していた。
そして月子は素直に楽しんでいたが、暁は共感性羞恥で顔を赤くしていた。
演奏自体はしっかりと、最後まで歌いきるし、ギターの余韻もしっかりと抑えた。
学園祭レベルであれば充分に、これで盛り上がることが出来るだろう。
しかし俊にも暁にも、致命的な欠点は分かる。
「他にも弾き語りは出来るんだって?」
そう言って俊は、何曲か弾いてもらって歌ってもらった。
声にざらりとしたところがあるのは、むしろ好ましいのがバンドボーカルだ。
ただそれを目を閉じて聴いていた俊は、やはり違うなと確信する。
栄二はドラムでリズムを刻んでいるが、彼にも信吾にもはっきりと分かっているだろう。
俊も月子も、そして暁も拍手はしたが、演奏している人間はこれの、どこに問題があるか分かっている。
「今までずっと一人で練習してたんだって?」
「はい、もうずっと」
なるほど、だからか。
暁も一人遊びが多かったが、父親とセッションすることはあったのだ。
なので最低限、そちらの技術は備わっている。
これはちょっと、こまった状況になっている。
「演奏技術はかなり高いけど、ある部分の技術だけが足りてないなあ」
「え、え、え」
別に俊でなくても気づいたであろうし、言語化の苦手な千歳も、このセッションではなんとなく感じたであろう。
学校では結局、ギターを弾くだけで千歳としか合わしていない。
「柊さん、君はソロでばかり弾いている人に特有の症状が出てる」
そう、この現象はよく知られているものだ。
「君はいわゆる『ぼっちちゃん状態』になってるんだ」
突っ走っていた時代を思い出す暁としては、過去の自分を見ているようで、ちょっと恥ずかしいものがあったのだ。
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