第218話 六月のライブ

 武道館のチケットは順調にはけている。

 夜の部は売り切れて、あと少し昼の部が残っているといったところだ。

 こういうのはやはり、発売即完売というのが、話題性としてはいいのだろう。

 しかしそこまで甘いものではないらしい。

 とはいえまだ一ヶ月以上も先の話で、夜の部は全部売り切れたので、既にペイするぐらいには売れていると言える。

 武道館は本来はコンサート会場ではないので、色々とセッティングも大変で、そちらに金もかかるのだが。


 七月からのアニソンタイアップで話題になれば、充分に売り切れる残量であろう。

 武道館公演に関しては、さすがに雑誌などの取材でも取り上げてもらう。

 またネットなどでのCMも、ある程度は打っていた。

「思ったよりもぎりぎりだな」

 それが俊の感想であるが、CMは他にも打つところがある。

 今さらであるが、テレビである。


 星姫様の制作には、GDレコードからも金が出ている。

 スポンサーの一つなわけで、その間に武道館コンサートのCMも入れられるというわけだ。

 新曲をOPで流して、それにコンサート情報もくっつける。

 これは勝利の方程式だ。

「コンサートってやっぱり、夜の方がいいんだ」

 月子はそう呟いているが、それは状況による。


 フェスなどは昼間から、酔っ払っているような人間もいる。

 ノイズは昼間に演奏をしたが、かなりの人間が既にいた。

 バスの運行時間などによって、満足したら早めに帰ってしまおうという客もいる。

 そういったものを逃さないために、ヘッドライナーには大物を用意しておくのだ。

 ただノイズのライブは、昼過ぎの二時からと、夜の七時から。

 それぞれ二時間のライブの予定なので、九時には終わるという話だ。

 もっともアンコールなどを考えると、もう少し遅くなるだろうが。


 ノイズのファンは基本的に、男性の方が多い。

 また若者もいれば、還暦に近いような人間も、それなりにいたりする。

 とんでもなく古い、昭和のアニソンのカバーなどをするため、おかしなところにファン層があったりする。

 色物というには、演奏技術と歌唱力、そしてアレンジのレベルが高すぎる。

 ポップスに近いロックをやっているということで、キャッチーさがある。

 だがまだ俊は、本当に重要な部分にまでは、到達していないと思う。


 時代を代表する音楽となること。そしてそれが普遍的な音楽になること。

 同時代性の一般化、とでも言ったらいいであろうか。

 流行でありながら、同時に普遍であることも求めるとでも言おうか。

 時代の最先端、あるいは時代をも作った音楽であると同時に、100年後にも残る音楽。

 今の成功だけではなく、忘れられない存在になること。

 古い時代のことを言うなら、カエサルのガリア戦記は当時の民衆に読まれたが、今でも当時の一級資料や純粋な文章として、価値がある。

 音楽で言うなら、クラシックの数百年残る楽曲が、そういうものであるのだろう。


 当たり前だが古い楽譜は、演奏自体を伝えるものではない。

 それをどう解釈していくか、を今でも求め続けている。

 だが現在は音源や映像として、演奏自体が残っている。

 つまり自分たちの演奏を楽しんでもらうと共に、カバーなどをされてフォロワーを生み出す。

 そこまでやれば完全に、時代を作ったと言えるのではなかろうか。




 ノイズのコンサートとしては、新曲を俊は作り続けている。

 だが新しい曲で、テンポの速い曲というのが、なかなかに難しい。

 上手いリフが作れれば、それだけで曲には価値が生まれる。

 SMOKE ON THE WATERなどは、おおよそギタリストであれば、誰もが通る道だろう。

 アルペジオなら天国への階段のイントロか。


 ギターリフの作成については、他の部分が作られてから、暁が付け足したりもする。

 それに合わせて改めて、俊は曲の進行を変えていく。

 一人で作曲をするわけではない。

 ベースの進行にドラムのパターンも、ノイズは全員で作っていく。

 最終的な判断は、俊に委ねられるが。


 作曲者の名前をどうするか、というのは今でもずっと悩ましい問題だ。

 今ならノイズは軋轢もなく、共通の著作権として持っていることが出来る。

 ただずっとそのままであったりすると、もしも将来的に解散でもした場合、どうするのかというのは問題となる。

 考えたくはないが、考えなくてはいけないことだ。

 本当は俊が完全に、作曲の全てを出来るならば、問題も生まれないのだが。


 作詞に関しては本当に、俊がほぼ99%を作っている。

 千歳に作詞をしてみないかと言ったのは、彼女は演奏はともかく、作曲における比率があまりに小さいからだ。

 よくあるパターンのロック以外だと、月子も三味線で参加してくるからだ。

「著作権管理は、専用の会社を作っておいた方がいいかもな」

 そう俊は言うのだが、内部でどういうことを決めていても、法律にそれが優先することはない。


 千歳は自分の中にあるものを、そのまま歌詞に出来ないのかと、色々と考えてはいる。

 だが主に叔母の書く文章などを読んでいると、そのセンスの違いがはっきりと分かるのだ。

 勉強のためにも英語の歌詞を、自分で調べて和訳してみる。

 それを既にある翻訳と比べてみると、かなり意味が違っていたりもする。

「バンドは解散するものだし、メンバーは離脱するものだからなあ」

 信吾はどちらも経験していて、今はノイズにいるのだ。


 音楽性の対立がないのは、結局のところ二つの展開が出された場合、それを上回る三つ目の展開を誰かが考えるからだ。

 おおよそは俊が作ることになるが、ギターの場合は暁も多い。

 月子は完全に、一から自分で作ったりもするようになった。

 だがアレンジをするのはおおよそ、俊がやらなければいけないことだ。

「変わっていくことも、変わらないことも、それぞれに価値はあるんだよな」

 ノイズの音楽性というのは、何度もリセットをかけることがある。

 ただひたすら進むのではなく、元に戻ってある程度やり直す、というのが俊のやり方だ。

 もっともその中では、より洗練されたものが生まれたり、逆に泥臭く戻ったりもする。


 音楽の設計図と、レシピの中の素材。

 俊はそれを出来るだけ、多く頭の中に入れるようにしている。

 それに対すると作詞というのは、比較的楽なものである。

 言葉で具体的に表現してしまえる。

 また歌声という最も再現性の低い楽器を、ボーカルが歌ってくれる。

 そのため俊はイメージに合わせて、歌詞までも微調整する。

「お前、作家にもなれたんじゃないか?」

「またまたご冗談を。千文字以上もあるような文章で、伝えたいと思うようなことはないよ」

 信吾は本気で言っているのだが、俊が答えているのも素直な自分の考えだ。




 バンドの中での貢献度、というものを考えたりする。

 千歳だけではなく、信吾や栄二も考える。

 俊としては自分が、中心にいながらもそれぞれを引っ張って、バランスが取れている状態にしていると思っている。

 月子と暁は考えない。

 月子は自分が出来ることをするだけだし、暁は自分がやりたいことをするだけだ。

 微妙に違いはあるが、二人とも天才か、天才肌であるのは間違いない。


 自分が一番蓄積は少ない、と千歳は考えている。

 実際にそうなのかもしれないが、実のところ彼女の持ってくるものは、俊が本来なら触れないものがあったりして、バンドの中のいいアクセントになっているのだ。

 何かに傾倒する人間は、どうしてもそれに集中してしまう。

 それもまた悪いことではないのだ。

 問題はバランスであって、どれだけのことが最終的に、アウトプット出来るか。

 知識だけでは結局、つまらない批評家にしかなれない。

 そして若者の多くは、批評家が嫌いである。


 ちなみに批評家の界隈からは、ノイズの評価はほぼ真っ二つである。

 完全否定か、完全肯定に極端であったりする。

 分からないでもない。ノイズの音楽性には、核らしい核が見えにくい。

 カバー曲を多くやっているし、先人たちの遺産を散々に感じる。

 真に創造的な部分は、霹靂の刻が作られるまでは、やっていなかったとさえ言える。

 ノイジーガールも商業主義の最先端であった。


 ただ柔軟な考え方によると、素晴らしいものとも思える。

 その音楽の自由度は、本質的な音を楽しむものと言えるのだ。

 商業主義、迎合主義的な批評家からは、おおむね好評である。

 しかし商業主義ならもっと徹底してみせろ、という人間もいる。

 また完全な批評家気質の中にも、その音楽の自由度に期待をしている人間はいる。

 もっとも一般層からすれば、当たり前だが支持の声が大きい。

 一般層による支持の反対は、否定ではなく無関心であるからだ。


 だいたい最初は、肯定的なファンばかりがつくのだ。

 某ネットショップの評価で言うなら、星5ばかりがつくというものである。

 だがそれが多くの人々に知られていくにつれ、星4や星3という評価も多くなって、勘違いした自称批評家が星1などをつけていく。

 もっとも評価数の総数自体は、圧倒的に増えていく。

 それが増えた上で、評価平均も高いというのが、理想的な評価のされ方だ。




 ノイズの中にも、評価と人気で、どちらに重きを置くがを考えは違ったりする。

 俊は贅沢に、両方を獲得したいと考えている。

 たとえば父の音楽は、時代性という意味ではいまだに話題になるが、カバーされることはほとんどない。

 当時は先端を走っていたはずだが、あくまで先んじたからこそ売れただけで、その後の本物の時代には落ちていった。

 しかし財産を成したという点で言えば、充分な成功であったのだ。

 ちなみに今でこそ否定的だが、当時はその流行が新しいムーブメントだと、相当に批評家も高く評価している。

 なのであまり、批評家連中はあてにしてはいけない。


 時代を作るのは批評家ではなく、大衆の支持である。

 それを思えばやはり、商業主義と言われようが、迎合主義と言われようが、まずは受ける必要がある。

 中にはさほど受けなかったが、後に大きな影響を与えた、などと言われるミュージシャンやバンドも多い。

 しかし批評家の絶賛よりも、聴衆の熱狂を得るのが、ミュージシャンであると言えるだろう。

 アーティストの場合は、これが逆になるのだろうか。


 アート、つまり芸術という意味では、現代芸術は俊にとって、さっぱり分からないものとなっている。

 もちろん完全に分からないわけでもないのだが、絵画などの抽象画に関しては、本当にさっぱりと分からない。

 批評家だけが真価が分かるなど、芸術としては失格ではないのか、と俊は思うのだ。

 音楽はそれに比べると、まだずっと一般人の身近にある。

 もっともプログレシブロックのような、難解なものもあったりするし、それこそ60年代から既に、芸術性に偏りすぎた音楽もあった。

 メタルなどは商業主義だと言いながら、そのメタルよりも売れてしまったグランジも、よく分からないところがある。


 信吾や栄二は、大人である。

 なので売れないと生きていけないという、当然のことを分かっている。

 月子はライブなどで、賞賛される喜びを第一にしている。

 もちろん売れることも大事で、昔のようにアルバイトで疲弊する生活は、送りたくないとも思っている。

 その中で一番、純粋にアーティストなのは、意外と暁であるのかもしれない。 

 ただ暁は暁で、誰かに伝わらない音楽など、意味がないとも思っている。

 だからメタルなどの、商業主義と言われようと、受けがいい曲は好きなのだ。


 俊はそういう点では、まず絶対的な権威になりたいと思う。

 ビートルズは初期はかなりポップスな路線であり、進むにつれどんどんと、実験的な作品も増えていった。

 そしてそれが売れていったのは、既にビートルズがビートルズというだけで、時代の最先端にいたからだ。

 人気があるバンドやミュージシャンだからこそ、まさにアーティストと言えるような実験的な音楽も出来る。

 もちろん実験的な音楽をずっと続けて、やがてそれが売れるというパターンも、ないわけではないだろう。

 だが本質的に音楽は、楽しむためのものでなければいけないだろう。


 そのあたりで一番、本質的に音楽を理解しているのは、実は千歳であるのかもしれない。

 暁はなんだかんだ言いながらも、難解さの中の技術を見出してしまうからだ。

 千歳はとにかく、受けない音楽をやっても楽しくない、と思う。

 亡くなった母と共に、歌いながら料理をしていた時などは、お互いだけが聴衆であっても、充分に満足できたのだが。




 そんな千歳は今もまだ、ボイストレーニングに通っている。

 現代のロックというのは、声を潰して個性を出すことを、かなり重要視していたりする。

 しかしその傾向は、欧米の方の価値観だ。

 日本の価値観は、穢れを嫌うところにある。

 純粋無垢であることが、穢れから遠ざかるところにあり、音楽も女性ボーカルなどは特に、澄んだ声が欧米よりも評価される。


 個性のある歌声というのはいいな、とは千歳も思うのだ。

 もっとも月子の声などは、あれだけ透き通っていながらも、同時に厚みがあるものだ。

 正統派の日本の女性ボーカリストなら、やはり彩であるだろうか。

 彼女の声はかなり低音域もカバーしていて、深みがある大人っぽい雰囲気になる。

 俊が彼女に楽曲を提供したという話は、メンバーの中でも共有されている。


 本日もボイストレーニングを行うはずであったのだが、なぜか持っているのは愛用のテレキャスターであったりする。

 防音室では佐藤先生が観客になって、フラワーフェスタの面々も集まっていた。

「あたしのギターなんて、プロなら普通にいるレベルだと思うんだけど」

 千歳の言葉は謙遜ではなく本音であるが、それはフラワーフェスタの面々も分かっている。

「技術的なことはともかく、ちーちゃんはかなり本質はいいと思うよ」

 玲がそんなことを言ってきて、千歳にギターを弾かせるのだ。


 フラワーフェスタの面々は、スパイラル・ダンスでもう一度ライブを行った。

 50人しか入らないハコが満員になり、アンコールも求められるトリを果たしたそうだ。

 しかし今のままだと、面子があと一人は欲しい。

 特にギターを弾けるメンバーを、増やすべきではと思うのだ。

 これまた事務所の方針とは、ちょっと違うところにある。

 自分のやりたいようにやる、という点では花音たちは俊と似ているところがある。

 だが俊が段階的に、認められるのと売れるのをちゃんとやっていた手順を、省略してしまっている。


 メンバーの中にクラシックの素養がある人間が多いため、楽曲はピアノが入ることが多くなる。

 また残されていた楽譜には、ストリングスや管が必要となるものも多かった。

 それをアレンジしていくのは、彼女たちには難しいことである。

 もっとも千歳の先生をやっている母に頼めば、そういうことも出来てしまったりするのだが。

 彼女は交響曲まで作曲するほど、クラシックの技術には精通している。

 さすがにそれが傑作になるほどかというと、それはまた別の話だが。


 


 花音の母の遺作は、普遍性がある。 

 もちろん時代によって、かなりのアレンジが必要になってはいくのだが。

 バンドではなく、EDMを使うことを前提とした楽曲もある。

 これはさすがに、専門家が必要になる分野だ。

 作詞や作曲よりも、さらに重要になることがあるのがアレンジだ。

 編曲は編曲として、作曲よりもさらに難易度が高かったりする。


 もっともそれを簡略化したのが、DAWであったりする。

 今は一人のコンポーザーが、パソコンとソフトだけで音楽を作れる時代。

 それこそ俊の父の時代よりも、さらに発展しているのだ。

 フラワーフェスタにはメンバーの中に、そういったことが可能な人間はいない。

 だが身内になら、いないわけでもないのだ。


 千歳としても自分の枠を広げるために、こうやってセッションするぐらいなら、文句はなかったりする。

 もちろん本来の目的の、ボイストレーニングもしてからだが。

 フラワーフェスタのメンバーの中では、千歳の役割に一番近いのは、玲のボーカルであろう。

 一番ポップス向けで、一般に分かりやすい優れた声。

 花音はもちろんジャンヌやエイミーも、ちょっとポップスからは外れたボーカルではある。

 ソウルフルすぎる、とでも言ったらいいだろうか。


 演奏が単なる伴奏になってはいけない。

 そのために楽器演奏にも、それなり以上の力を求める。

 ベストポジションを決めるのなら、花音がボーカルで歌って、玲はキーボード、ジャンヌはドラム、エイミーがベースとなる。

 するとギターがいないわけだ。

 もちろん玲はキーボードほどではないが、相当に上手くギターも弾けたりする。

 普通のロックバンド構成なら、そちらで別に構わないだろう。


 ただ、演奏する曲の問題なのだ。

 花音に残された楽曲に関しては、ピアノの演奏が入っている曲がとても多い。 

 これは本来花音の母が、ピアノから作曲をしていったという名残であるのだろう。

 やろうと思えばピアノのパートだけは、打ち込みにすることは出来る。

 ただ電子音ではなく、生ピアノを打ち込みにするというのは、せっかくの演奏のライブ感を損なうものだ。


 ここがノイズの、フラワーフェスタを明らかに上回る点であろう。

 俊はシンセサイザーで、キーボードとしての入力もしながら、他の音も制御することが出来ている。

 暁などはそれが嬉しくて、ディープ・パープルの演奏を色々とリクエストしたりしている。

 それを歌うのは月子や千歳で、英語の発音は難しいものなのだが。




 適当なカバー曲は、千歳もそれなりに演奏が出来た。

 だがこのバンドの中であると、千歳はギターボーカルとしての、ノイズほどの役割を果たせない。

 キーボードを抜くか、あるいはギターを抜くか。

 花音が歌う場合は、その選択を迫られることとなる。

「もう五人目、オーディションか何かで決めるしかないんじゃない?」

 内情をさほど知らない千歳だからこそ、無責任だが適切なことを言える。

 暁レベルというのはさすがにいなくても、付いていけるレベルの女性ギタリストは、どこかに一人ぐらいは余っているのではないか。


 あるいはそれこそ、バンドメンバー募集でもして、ギターを探せばいいのではなかろうか。 

 事務所やレコード会社の力を使えば、さすがに力量のあるギタリストを探すことは出来るだろう。

「でも女の子だと、それこそさすがにいないから」

 玲の主張するところであると、まあそうだろうなと千歳も思ってしまう。

 さらに彼女たちは、女子高生以下限定という、年齢制限まで付けてしまっている。


 ギターヒーローが必要だ。

 だがぼっちちゃんのような人間が、果たして現実にいるのだろうか。

 まあ暁のような人間がいたので、確かにいる確率は0ではない。

「探すだけは探してみて、決定するまではヘルプをお願いするしかないんじゃないかな」

 千歳としてはバンド内の人間関係で、さほど苦労をしたことがない。

 なので単純に技術だけで、そういうことを決めればいいと思えるのだ。


 実際のところGDレコードは、ALEXレコードに借りがある。

 暁を貸してくれと言われれば、事務所に話が下りてくるぐらいは可能なのだ。

 もっとも暁としては、ノイズの音楽を研いでいくのが、今は大事だと考えている。

 武道館が迫っているし、夏休みに入ればツアーも予定されている。

 それにフェスにも参加するとなると、新曲などの練習に時間が取られるわけだ。


 俊の家に居候させてもらえないか、という話はいまだに話し合い中である。

 移動の時間などを考えても、それだけ音楽だけに時間を使いたい。

 ちょっと千歳では理解出来ないほど、暁は音楽に対してストイックだ。

 単純に合わせるだけならば、他のバンドでも弾けるだろう。

 しかしフラワーフェスタの中で弾くとなると、飛び入りで弾くにも限界がある。


 もちろん今のままでも、フラワーフェスタは面白いバンドだ。

 充分なレベルに達しているし、ギターレスにするなりマルチっぷりを活用するなり、どうにか出来なくもないだろう。

 それこそシンセサイザーで、ドラムのパターンなどを打ち込みにしてしまうなど。

 もっともそこまで活用するほど、彼女たちはシンセサイザーの機能に精通していない。

 ピアノの代わりでキーボードの代わり、というのがせいぜいなのだ。

「ギタリストかあ……」

 同じぐらいの年齢で、しかも女の子のギタリストで、そこまで上手い人間などいるものであるのか。

 そうは思っても現実的に、フラワーフェスタはあと一人、メンバーを増やすべきかもしれないのだ。

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