第214話 邦楽も洋楽も
一曲が終わって、空気が暖まっていた。
ライブハウスの雰囲気がどうとかではなく、力技で熱を作り出したのだ。
圧倒的な、洗練が全くされていない、まっさらなままのパワー。
『え~、わたしたちフラワーフェスタは、三人がアメリカ生まれで、わたしもアメリカ育ちなんで、洋楽がけっこう好きですけど、最近はそうでもなくて』
玲がそう話している間に、花音はギターをスタンドに立てて、シンセサイザーの方に移動する。
『邦楽も大好きで、洋楽やってると昔のばかりになっちゃう』
なるほど、花音にピアノパートをさせるのか。
しかし四人組で、ピアノパートがそれなりにあるとなると……。
『次は洋楽から一曲やります』
ジャンヌがドラムの位置をエイミーに渡し、玲はギターをベースに持ち替える。
するとギターをやるのがジャンヌになる。
ジャンヌはギターボーカルで、ただし玲もベースボーカルは出来る。
ドラムをやりながらでも、エイミーは歌うことが出来る。
そして花音はキーボードオンリーということか。
あるいは他のパートの音になるのかもしれないが。
「えっとつまりこの構成って?」
「キーボードを増やしてギターボーカルってことは、ディープ・パープル!」
ボーカルがギターボーカルになるのが、少し大変ではあろうか。
だが暁の予想は外れた。
まずはピアノがわずかに弾かれる。
そしてジャンヌの歌が始まり、それに歌えるメンバーがコーラスしていくその曲。
「くそ、うちでもそのうちやりたかったのに」
珍しく真剣に、俊が悔しがっていた。
「聴いたことあるけど、誰だっけ」
月子は俊が色々と聴かせているので、もちろん既に知っている有名曲だ。
基本的にはボーカルに、ギター、ベース、ドラムという編成。
だがボーカルがピアノを弾く曲を、いくつも持っている。
「Somebody To Love」
日本語では「愛にすべてを」というタイトルが最初は付いたらしい。
全然意味が違うのでは?
日本人の大好きなQUEENだ。
囁くようなジャンヌの声は、母親にかなり似ている。
そしてそれに、ハーモニーが加わる。
繊細なピアノの音を、キーボードで再現するのは、けっこう難しいだろう。
だが序盤を、キーボードとボーカルのみにアレンジしている。
あの日、東京ドームで。
最初にケイティの伴奏をしたのは、イリヤのピアノだけであった。
玲もそれなりに歌唱力はあるが、やはり純粋な声のパワーだと、ジャンヌの方が上なのか。
キーボードのピアノ音と、ボーカルだけが響いていく。
「うわ、鳥肌」
千歳は思わず、自分を両手で抱きしめる。
花音のピアノはやはり、あの年齢にして既に別格。
思い切りオーディエンスを引きつけたところから、他の楽器が入っていった。
QUEENの特徴の一つとして俊が考えるのは、ブライアン・メイの自己主張の控えめなところと、目立つところのメリハリだ。
普段はリズムギターのように控えめでありながら、おおよその曲に聴かせるソロが存在する。
四人全員が歌えて、四人全員が作曲出来る。
ジャンヌの声は圧倒的に、玲よりも肺活量が違う。
それだけ響いていく声で、声質は全く違うが、フレディの声の特徴にかなり似ている。
母親の声にも、そういったところはある。
花音もボーカルだけで勝負出来ると思ったが、ジャンヌもそのレベルに近いのではないだろうか。
もちろん選曲がいいということもある。
だが最初の曲よりもさらに、バンドとしてのバランスがよくなっている。
花音のキーボードが他のパートをリードしているのだ。
ピアノの生音で聴きたかった。
俊としてはもう純粋に、聴衆となってこれを聴いている。
最初の一曲はまだ、バンドの音楽だなという、未完成さがあったように思う。
だがこの曲はもう、かなり一体感が増している。
考えてみれば四人のうちの三人は、そのベースをアメリカの音楽に持っているのだ。
玲にしてもポップスは、相当洋楽を聴いている。
まあQUEENはイギリスのバンドであるのだが。
QUEENはその人気に比べて、批評家などからの評価があまり高くない。
その理由としてはなんなのか、ということは議論されることもある。
ただ実際の人気では、多くの批評家の評価の高いバンドより、上であったりする。
これについて俊は、自分なりの考えを持っている。
一つにはQUEENは、ハードロック、メタル、プログレ、ポップスなどのジャンルを貪欲に取り込んでいるが、他のバンドの後追いになっていることが多い、ということらしい。
同時代に生きていたわけではなく、生まれる前に既にフレディは死んでいたので、そう言われても俊には、当時の音楽の同時代性は分からない。
ただ岡町などもそういう見方をしていたので、その時代はそうだったのかな、などと納得するしかない。
もっとも同時代性ということを言うと、かなり当時の差別的な価値観が、QUEENというかフレディには存在する。
彼が同性愛寄りの両性愛者であったからだ。
またその死因が、エイズであったことも、当時としては色の違うスキャンダルだったのだ。
現在とは違いエイズは、まずゲイコミュニティで広がり、医者でさえもが神の与えた罰だ、などというたわけたことを言ったりしたらしい。
実際にはエイズは、普通に血液感染する病気である。
粘膜に傷がなければ、性行為をしていてもほとんど感染しなかったりする。
またドラッグなどで注射器を回し打ちしていると、そこから感染などもした。
性感染する確率は、実はとてつもなく低い。
また避妊具を使うことにより、その感染の確率は極端に低くなる。
普通に避妊をしていなくても、また夫婦間の性行為が長年あっても、感染していなかったりする。
単純な話で、その性行為において両者に出血がなければ、感染しないのだ。
避妊具を使うことによって、その血液が粘膜の傷から入ることが少なくなり、夫婦間でも性行為の激しさがなければ、本当に何十年も感染しなかったりする。
処女の破瓜のように、出血しているとかなり感染の可能性は高くなる。
もっとも現在では感染の可能性があった時点ですぐに薬を使えば、あるいは感染を防げたりもするし、感染しても発症するのはかなり抑えられる。
もはや死病ではなくなっていると言っていい。
だがあの時代は、ロックスターの犯す普通のスキャンダルとは、また違うものであったのだ。
今でこそLGBTなどと偉そうなことを言っているが、キリスト教の教えに1000年以上浸っていた欧米は、同性愛に対する禁忌があの時代でも残っていた。
現在はむしろ、カミングアウトがかっこいいなどという、おかしな認識さえあったりする。
これは行き過ぎた反キリスト主義というか、社会への反抗であるのかもしれない。
もっともこういった俊の考えは、当時のフレディの情報がどういう時系列で知られていたのか分かっていないので、推測にしかなっていない。
エイズに対する見方が大きく変わったのは、NBAのスーパースターであるマジック・ジョンソンの告白からであろうか。
エイズというのは同性愛の病気ではないが、それでもまださらに90年代は、性感染の病気ではなく同性愛による感染だという誤った見方がずっと続いていたのだ。
正確には、正しい知識が広がっていかなかった、と言うべきであろうか。
日本の場合は性感染よりも、血液製剤による感染の方が話題になった。
あれが同性愛によってしか感染しないという誤った認識があったため、ひどい差別が発生したりもしたものだ。
とは言え、QUEEN自体はフレディの死後も、ずっと続いている。
ベースは抜けたがボーカルを入れて、まだQUEENは活動中であるのだ。紅白にも出た。
そんなわけで俊の早口説明があったが、案外知らないことが他のメンバーにはあった。
「エイズってそんなに死なない病気だったっけ?」
信吾としてはまずそこが気になったのだが、1991年にエイズ感染を発表したマジック・ジョンソンはそれから30年以上も経過したが、無事に生きている。
感染と発症は別で、今では相当に効果のある薬があるし、感染したと思われる直後であれば、ほぼウイルスを殺すことも出来るという。
「マジックの奥さんは感染してなかった。普通にセックスするだけなら、本当に感染しにくいもんなんだよな」
だが輸血による感染は、ほぼ100%である。
またドラッグ注射で注射器を回して使うのも、かなりの確率で感染する。
ちなみに他の多くのウイルスと同じように、感染しても発症しない体質の人間も稀にいる。
だがウイルス自体は持っているので、そこからどんどん感染していくというわけだ。
フレディの場合は発症したため、もう手遅れとなっていた。
マジックはスポーツ選手らしく、健康診断をしっかり受けていたため、発症の前に感染が明らかになったというのが、その後の治療においては大きかった。
へ~、へ~、というちょっとした豆知識である。
まあフレディも45歳までは生きたし、40歳ぐらいまではほぼパフォーマンスを保っていたので、それなりの人生だったと言えよう。
27歳で死んでしまった者や、40歳で殺されたジョンに比べれば、長生きという話である。
ちなみにQUEENのベーシストは、フレディの死後に脱退している。
「そういやQUEENって日本ではアメリカよりも人気あるんだよね」
千歳が音楽の話に戻してきたが、暁はその理由が分かる気がする。
「音楽がなんというか、日本人向けなんだよね」
これを説明するのは、ちょっと難しいことなのかもしれないが。
まさにフィーリングの問題であろう。
また日本人は、比較的にではあるが、当時から同性愛に対して、寛容な国家であったのだ。
戦国時代の男色文化や、江戸時代の陰間茶屋。
明治にキリスト教が布教を正式に許されても、男色文化は普通に残ったと言える。
西洋はキリスト教によって、その寛容さはほぼなくなったのが長い時代であった。
今はその反動があるというが、その反動で乳房を切り落としたりするのは、はっきり言ってやりすぎである。
ともかくフラワーフェスタの選曲は、洋楽の中ではかなり正解のものであった。
考えてみればピアノを弾けるメンバーが多いのだから、QUEENの楽曲はそれなりに合うはずなのだ。
「レッドスペシャルのレプリカまで用意してるしね」
暁はちゃんとそれに気づいていた。
ジャンヌの持っていたギターは、玲のストラトを使いまわしたのではなく、ちゃんと専用の物であった。
レッドスペシャル。QUEENのギタリスト、ブライアン・メイの自作ギターである。
これによって彼は、通常のギターでは出せない音も出していたため、アルバムなどには当初こう書かれていた。
このアルバムはシンセサイザーを使用してはいません、と。
父親と一緒に、中の機構まで完全に自作したこのギターは、その後同じ性能を持った物が、わずかに流通に乗せられた。
ちなみに日本のメーカーが作った物も、ブライアン・メイに送られている。
ブライアン・メイもちょっと変わったギタリストで、もちろんギタリストとしては相当に上手いのだが、前に出て行くタイプではない。
また音楽とは別だが、天文学の博士号を持っており、イギリスではナイトの称号を持っていたりする。
要するに理系の人間であり、だからこそギターを自作したとも言えるのだろう。
あれはエレキギターであるが、同時にエレキギターの形をした、別の楽器でもある。
さすがの暁もブライアン・メイコピーは完璧には出来ないが、それは彼女のレスポールに、そもそもその機能がないからである。
熱気はあるが、熱狂はない。
不思議な空間になってきている。
ポップスのライブと言うよりは、クラシックのコンサートに近いのではないだろうか。
陶酔と困惑の、二つが空気の中にある。
とても素晴らしいものを聴かされているが、オーディエンスは本来は、こういうものを求めてはいなかったはずだ。
だが、凄いものは凄い。
「すげー」
「むっちゃ上手いな、あの子」
「てか、またポジション変わるのか?」
演奏しているほうも必死なのか、MCがない。
だが音楽だけで充分、伝わってしまっている。
伝え方をもっと、工夫するべきなのだ。
またこのような演奏をやっていては、確かにクオリティは高くなるだろう。
だが体力がついていかないと思う。
ポジションをあちこちに変えることで、そのあたりもどうにかしているのか。
カバー曲をやっていると、こういうことになるのかもしれない。
三曲目には何をするのか。
花音のキーボードの位置は変わらない。
ボーカルはエイミーがするらしく、ベースも持っている。
ジャンヌはドラムとなり、ギターに玲が戻る。
楽器四つにボーカルだが、ベースボーカルというのもなかなか難しい。
リズムギターとボーカルならば、まだしも簡単なのであるが。
せめて邦楽か洋楽か、どちらをするのかぐらい、MCで伝えるべきだろう。
パフォーマンスのクオリティは高いが、それでもいっぱいいっぱいであるのは同じなのか。
ブッキングして四曲だけというのは、今の彼女たちには相応しいのであろう。
ノイズにしても最初は、せいぜい五曲でアンコールがあって六曲であった。
初めてワンマンをやった時は、20曲もやってヘロヘロになったものだ。
それに最初、月子と暁しかいなかった時も、お互いがお互いを煽りすぎて、四曲しかやっていないのにヘロヘロになっていた。
走りすぎてストッパーを必要としたのが、あのデビューライブであった。
フラワーフェスタも見るからに、二曲目で既に消耗している。
「千歳、何やるとか聞いてないのか?」
「当日のお楽しみだって言ってた」
しかし二曲目に、70年代の洋楽を持ってくるというのは、なんというか趣味的である。
聴衆は満足しているので、これはこれでいいのだろうが。
ただエイミーは見た目からして、明らかにアジア系人種ではない。
ジャンヌもちょっと違って見えるが、彼女は一応ハーフである。
わざわざ彼女が歌うのに、どんな曲を用意したのか。
だがイントロを聴いた瞬間、意外性と共に一瞬で分かる曲であった。
「プリプリか」
ダイアモンドである。
エイミーの声はややハスキーボイスである。
その声は甘いものであり、彼女もまた普通なら、ソロで通用するシンガーのレベルだ。
マルチプレイヤーである才能の塊を、四人もそろえてしまった。
ファンキーな歌声は、先ほどのジャンヌとは完全にカラーが違う。
それを言うなら三人とも、それぞれ全く印象が違うのだ。
玲の歌が一番、バンドとしては一般的なものであろう。
汎用性が高いと言うか、分かりやすいポップスだ。
ただその中でも、かなり技術的には高いものがある。
あの母親に、声の部分で鍛えられているからであろう。
ジャンヌの声はそれに比べると、かなりソロ向きのものである。
彼女もバンドを組む必要などはなく、母親の影響力を使えばそのまま、ある程度のルートを歩めると思う。
エイミーもこの声は、かなり特徴的なものだ。
そして花音も楽器を演奏さえしていなければ、あの世にも稀な歌声を使えるのだ。
声によってかなり、歌のイメージが変わっている。
客層からするとリアル世代はほとんどいないだろう。
だが、だからこそと言うべきか、新しい曲として伝わる。
「てか、日本語でも歌えたんだな」
この間、会話は英語でなされていた。
ジャンヌは日本語も達者だが、彼女は英語だけかと思っていたのだ。
前の二曲に比べると、明らかにポップスと分かるものである。
日本では年度一位を取ったぐらいなのだから、潜在能力は高い曲だ。
そして他のポジションのメンバーが、バックコーラスを歌っていける。
それぞれがとんでもない技術と能力を持っている。
なんで女の子で、こんな年齢の子供たちが、こんな凄いことをするのか。
(なるほど、こういう売り方が出来るか)
若い少女たちでありながら実力派。
このギャップは大きいな、と俊は思った。
エイミーが歌い終わり、ここでオーディエンスから拍手が起こる。
前の曲に比べると、やはり日本語の曲ということもあり、キャッチーではあったのだ。
見た目は黒人系のエイミーが、それを歌ったということ。
ここもまたギャップの効果が強かった。
そして最後の四曲目、オリジナル曲である。
ここで花音がキーボードから離れた。
玲がピアノ、ジャンヌがベース、そしてエイミーがドラムというポジションに移動する。
ギターがいない。
『オリジナル曲で「パワー」という曲をやります』
「え」
タイトルを聞いた暁が驚く。
「どうした?」
「いや、この間のセッションした時に楽譜を貰ったんだけど、それが同じタイトルだったから」
なるほど、暁は先に知っているというわけか。
『ちなみにギターがいないんで、助っ人が来てくれていなかったら、他の曲をやる予定でした』
そして玲が指差したのは、間違いなく暁であった。
飛び入りで助っ人をしろと、そう言っている。
無理である。そもそもセッティングが出来ていない。
だが玲が取り出してきたのは、暁が普段使っている構成と同じ、エフェクターボードであった。
そういえばこの間、暁とは合わせているのだ。
そのセッティングを憶えていれば、少なくとも機材の準備は出来るわけだ。
もちろん実際は、微調整が必要なはずである。
しかしあの中に、そういったセッティングまでをしてしまえる、誰かがいてもおかしくはない。
「え、行っていいのかな」
「ダメだけど、ここで行かないのは」
「「ロックじゃない」」
俊の声と暁の声がハモっていた。
解説
Somebody To Love/QUEEN
言うまでもない名曲。ボヘミアン・ラプソディ以降のQUEENが全盛期に入っていく中での名曲の一つ。
作者的にはフレディ以外では、AGTでブライアン・クラムが歌ったのが強烈に記憶に残っている。
だいたいAGTは最初のテレビ審査が一番良くて、上に進むほど微妙になるというイメージがあるのはワイだけであろうか。
ようつべで普通にあるので、是非聴いてほしい。
Diamonds(ダイアモンド)/プリンセス プリンセス
90年代の100万枚が当然の時代の前、89年に発売されたシングル。
年間一位の売上を記録した、同バンドの最大のヒット曲である。
考え方次第ではあるが、日本で一番成功したガールズバンドではなかろうか。
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