第183話 8000
やることが多いと、時間の流れるのは早く感じる。
ただし若い間は、経験することから吸収するものが多い。
そのため時間を濃密に感じるのだが、俊にとっては時間というのは、やることが多すぎるために短く感じてしまうのだ。
徹夜で行えば、などということは周囲が止める。
長期的に見ればそれは、生産性が低くなるからだ。
もっともあえて脳の働きを落としてみる、という方法も最近ではまた試している。
だがまずは、この二日間のワンマンライブである。
2000人が入るハコで音楽専門となると、かなり限られたものとなってくる。
これ以上のものも、横浜や埼玉にアリーナがあるが、そういったところは舞台を作るのに一桁違う金がかかってくる。
もちろん動員数も一気に増えるし、演出で出来ることも多くなっていく。
果たしてどれぐらいのキャパの会場を押さえるのが正解なのか、その判断は難しい。
キャパだけではなく、演出の方向性もある。
普段のライブハウスはおおよそ、派手な演出が出来る設備などは存在しない。
しかし大きなアリーナなどには、最初からそういう設備があったり、設置する余地があったりする。
ノイズは単体で、2000人のキャパを埋められるようになった。
夜のチケットはすぐにソールドアウトし、昼のチケットもその日のうちには売り切れた。
スタンディングのハコなので、実際にはもう少し入る。
当日のチケットもある程度、様子を見て販売するだろう。
その前日の夜、ノイズのメンバーはセッティングとリハのために会場を訪れる。
音響などを確認し、セッティングも終了し、リハも行ってみた。
俊の好みとしては、野天型のステージよりも、ホールなどでの演奏になる。
どうしても野天型の演奏であると、音のクオリティが落ちるからだ。
もちろんクオリティを、パワーでカバーしてしまう演奏があることも分かっている。
どちらが優れているのか、という問題ではないだろう。
ある人はそれを、フランス料理のフルコースと、ラーメンの話に例えたりもした。
お高くつくのはフランス料理で間違いないが、ラーメンの方が好きという人間は多いだろうし、そして親しまれているのは間違いなくラーメンの方である。
俊としてはそもそも、フランス料理などという選択肢も、ラーメンという選択肢もどうでもいい。
さっさと栄養を補給して、やるべきことをやるのだ。
視覚や聴覚と違って、味覚から得られるインプットというのは、あまり多くないと考える俊である。
もっとも料理であっても、視覚的に素晴らしいものはあるのだが。
公演一日目の朝、俊はしっかりと時間通りに起きた。
大学に通っているといいなと思えるのは、ある程度の時間感覚が自然と残ることである。
生活のリズムは、やはり朝型の方がいい俊だ。
とりあえず信吾を叩き起こす。
時間は充分な余裕をもって、行動しなければいけない。
こういう場合においては二階に上がるが、さすがに月子の部屋には踏み込まない。
ただガンガンとドアを叩いて、起きているかどうかは確認する。
そろそろ同居にも慣れてきて、最初の頃のような緊張感はなくなっている。
普通にすっぴんの顔も見るわけであるが、そもそも月子は元から顔はいい。
どうせステージの前に本格的に化粧はするが、目元は何もする必要がない。
仮面をしている顔出ししないということは、それだけでも面倒がなくて済むのだ。
「でも保湿ぐらいはさすがにするけどね」
「女の化粧は本当に分からないな」
俊としてはそう思うし、実は月子も高校ぐらいまでは、ほとんど化粧などしていなかった。
それでもはっきり美人だと分かるぐらいであったので、世間というのは残酷である。
アイドル時代からはさすがに、色々と基礎的なことは行っている。
もっともノイズで歌うようになってからは、ほとんど土台しか作らずにステージには上がっている。
仮面をつけるのだから、意味がないというのは確かだ。
そもそも仮面などをしていると、化粧がすぐに崩れてしまうことがある。
予定通りに会場に到着すると、高校生組はもう到着していた。
彼女たちも朝早く起きるのが生活のリズムであるため、普通に起きるのが得意なのだ。
栄二としても子供がいると、それに合わせて生活のリズムが作られる。
嫁が仕事で遅くなる時などは、栄二が世話をすることも多い。
基本的に俊は朝型であるのだが、夜更かしをすることもある。
脳がしっかり働いていると、眠くならずに曲を生み出せるのだ。
そして電池が切れたように、ぐったりと眠ってしまう。
スタジオにベッドではなく布団が敷いてあるのは、ベッドの持込が面倒だったということもあるが、ベッドにまで這い上がるのが難しかったということもある。
他人には節制しろと言っていながら、自分の音楽に対してはそんなことを気にしない。
もっとも俊の場合、食事や酒、タバコなどには気をつけている。
ドラッグまで平然と試したことがあっても、常用しないのが境界であろう。
もっとも本当に音楽を生み出すためならば、平然とそちらも使っていたであろうが。
ノイズというバンドの、音楽以外の方向性は「自然体」というものである。
だが全員が、普段着でステージに上がっているわけではない。
分かりやすいのは暁で、彼女のステージ衣装はバンドTシャツにダメージジーンズというものであるが、普段はむしろそういう格好はあまりしない。
スカートを履くことも多いし、キュロットなども身につける。
バンドTシャツは夏場に、少し着るぐらいであるのだ。
普段と一番格好が変わらないのは、俊か千歳であろうか。
ただ俊の場合、自宅であると部屋着に着替えて、リラックスした姿で生活する。
冬場であるので普通に、今日もジャケットを羽織る。
だが夏場であるとシャツだけということも多い。
パーテーションで区切られた一角で、女性陣は着替える。
一番手間のかかるのが月子であるが、彼女のドレスというのはもう、イメージ戦略の一端である。
ルックスを売っていくのも考えたのだが、当初はアイドルとの二足の草鞋であった。
なのでそのイメージに引っ張られて、歌唱力を低く見られてしまうのを心配したのだ。
今となってはグループも解散してしまったが、素顔を見せるタイミングが微妙になってしまった。
もっとも下手に顔出しをすると、変なファンに追いかけられる可能性もあるので、これも正解かなと思わないでもない。
Vの歌い手などは、顔を隠すことによって、逆に利点としているところもある。
彩などは顔もいいが、彼女の場合はスターであるので、普通に事務所のタワマンに住んでいたりする。
ただそれは事務所の物件であって、彼女の資産ではない。
二年以内には追いつく、などと言っていた俊であったが、ちょっとそれは間に合わないかな、とも思っている。
現実的に考えて、もう一年は必要であろう。
さらに現実的に考えるならば、高校生組が卒業してからでないと、自由に動けない。
音楽を主体として生活するのには、限界というものがあるのだ。
着替えも終わってメイクもし、準備万端となる。
ここで忘れずにトイレを済ませておかないといけない。
体調は誰もが万全で、あとは時間を待つだけ。
開場して、人間の気配がホールに満ちてくるのが、わずかな建物の揺れで感じられる。
「ノイズさん、時間です」
スタッフに促されて、六人は顔を見合わせる。
「これからあと三回だから、まだ全力を出さないでね」
阿部がそんなことを言ってくるが、ならば全力をあと三回出せばいいだけだ。
屋内のライブとしては、過去最大。
ステージに向かうに連れて、12月の空気の中に、既に熱が混じり始めていた。
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