第143話 飛んで埼玉
埼玉にはさいたまスーパーアリーナなど、横浜と同じく巨大なライブ会場となる施設がある。
そもそも関東圏は、東京を中心に千葉や神奈川にも、大きなイベント施設があるわけだが。
夏場の最大規模フェスの一つも、千葉において行われる。
だがさいたまスーパーアリーナでも、数多くの大物ミュージシャンがライブをやったこことがあるのだ。
「アニメイベントもあるじゃん。これ、あたしら出られないのかな?」
スマートフォンを操作して千歳は言っているが、それはアニソンをカバーするバンドではなく、本当にアニソンを歌っているバンドやグループのためのものだろう。
「でも、こういうところでコンサートするのって、どういう手順が必要なの?」
月子が夢見ていたのは、とりあえず武道館であった。
あちらはあちらで、かなりの実績がないと、貸し出しをしてくれないのだ。
日本で一番格の大きなコンサートをするなら、東京ドームということになるのだろう。
だがちょっと調べてみた俊は、難しい顔をする。
「ライブ当日のスタジアム貸し出しだけで1000万以上して、搬入と撤去とリハの日にも金がかかるから、3000万ぐらいは必要になるな」
また機材のセッティングなどについても、さすがにノイズのメンバーだけで行うわけにはいかないし、多くの演出も必要になるだろう。
「そういうのって、メジャーに行かないとやっぱ無理なの?」
「んなこたーない。俺の元いたバンドでも、2000人ぐらいのハコでワンマンやったことあるぞ。大変だったけど」
栄二はそんな過去があるらしい。
極端な話、施設自体は金を出せば、ある程度大きなところは借りられることが多い。
もっとも貸出料と施設規模などが、上手くペイしそうなところはかなり、既に埋まってしまっているが。
インディーズのバンドでも武道館でライブをしたり、全国ツアーをしたりしているのだ。
ノイズもこの間のツアーは、全国とまでは言わないが、随分西まで行ったではないか。
「集客、チケット販売、宣伝、まあ色々としないといけないけど、基本的には事務所が手配するんだよな」
本日は運転の信吾であるが、そのあたりはどうなってんの、と俊を窺う。
さすがに俊も、1000人や2000人といった単位のハコを、ワンマンで埋める難しさは承知している。
「本来ならそこで、たくさんの人間が動くことになるんだよな」
どれだけ人を動かすことが出来るのか。
集客力があれば、メジャーもインディーズも変わらない時代である。
あとはコネクションが、どこまでつながっているのかも問題だ。
地道にこれまでやってきて、対バンライブでも多くの客を集めることに成功している。
あとはワンマンをどれぐらい、やれるかが問題となってくる。
「ハコの選択が、本当に難しいんだぞ」
栄二はキャリアが長いだけに、そのあたりの本当の難しさが分かっている。
ハコの大きさ、料金設定、演出。このあたりをどう考えていくのかが問題だ。
興行内容により、使用する会場というものは変わるものである。
広い会場を用意しても、集客出来なければ赤字になる。
今の規模のハコであると狭いので、どうしてもかけられる予算が限られてくる。
予算が限られると、演出内容も派手なものには出来ない。
確かに今の調子でライブをしていけば、安定して活動できるような気もする。
だがそれでは駄目なのだ。
企業は常に拡大を目指さないと、追い越されるだけというのが資本主義社会である。
この現状維持ではまずいというのは、音楽を含めた芸能業界でも同じことだ。
普段と変わらないハコで、普段と変わらない演奏。
もちろん曲の数などは増えていくが、バージョンアップと言うよりはマイナーチェンジ。
いつかは飽きられていくものだ。
それでも一度は有名になれば、地方をドサ回りしてそれなりに稼いでいけるものだが。
そのための、大きな会場を用意するということ。
集客と興行の演出を考えれば、使用料と入場者数のバランスのいい会場というのは限られてくる。
そしてこういった会場の週末などはおおよそ、イベント屋に抑えられているのだ。
つまりイベント屋とのつながりが、重要になってくる。
大手事務所であれば、当然ながらそことのつながりは強い。
ノイズも傘下インディーズのバンドではあるが、ある程度の集客はほぼ確実に見込める。
だが優先順位は下になってくるのだ。
金をかけたミュージシャンにこそ、売れてもらわなければ困る。
だが同時に、売れそうなところにさらに金をかけて売るのも、こういった芸能界では当たり前のことなのだ。
ノイズは自力で300人規模のハコでワンマンライブを成功させるまでになった。
そして宣伝などが少ない現在でも、対バンのライブをどんどんと成功させていっている。
あとはCDなどの物販が、しっかりと売れていっている。
ここで金をかけて、売り出すべきだとは分かっている。
「でもメジャー契約をしなかったからなあ」
ここがいまだに気になっているのは信吾と栄二である。
やはり大きな金を動かすのも、そして人や物を動かすのも、金をかけているミュージシャンが優先。
300人規模のハコであっても難しいが、それが1000人規模となると難易度は上がっていく。
実際のライブの制作、つまり企画から演出までは、もう俊ならば出来るであろう。
だがここまで1000人以上の規模でやってきたのは、全てフェスや対バンの中のものである。
完全なワンマンで、1000人以上のハコで、出来ればライブ専用の会場がいい。
あとは立地も東京、という条件があった方がいいだろう。
さらにここに、日程として週末という条件も加えておくとして、果たして可能であるのかどうか。
能力の問題ではなく、コネクションの問題で俊では無理である。
阿部から事務所を通じて、果たしてそんなハコを用意してもらえるかどうか。
今が五月の中旬で、おおよそ六月までには、フェスの出場者はほぼ決まっていく。
それまでに一つ、大きなワンマンを成功させなければ、出演依頼など来ないのではないか。
「一応そのあたり、ずっこいコネも使ってるんだけどな」
俊の考えるずるさというのが、果たしてどのようなものなのか。
メンバーが考えるに、俊はひたすら現実主義者なだけで、卑怯な真似は使ったりしていないのだが。
埼玉県は電車一本で都内に来れることもあり、かなり人口は増加している。
将来的には人口減の予想も立てられているが、それは日本のどこでも同じことだ。
つまりここから東京のライブハウスに行くことも、さほど難しいことではない。
なんだかステージから見た限りでも、ちらほらと常連客がいるような気がする。
「わざわざ埼玉から見に来てくれてる人もいるよ」
千歳はそう言うのだが、それには全く気づかない月子。
彼女は読解障害だけではなく、相貌失認の脳の構造をしているのだ。
「するといつもとお客さんは同じなのかな?」
「いや、それは違うな」
そのあたりは信吾が説明してくれる。
「普段は東京まで出てこないといけないバンドが、地元で見られるとなると、友達とかも誘いやすいだろう」
東京にまで電車賃の金銭と、時間をかけて見に来るというのは少し敷居が高い。
だがそれがすぐ地元であるなら、チケットだけでライブに来れるというわけである。
こういったことは結局、人と人とのつながりなのだ。
確かにインフルエンサーという存在は、今のネット社会で新たな発信源となっている。
だがそれでもやはり、直接の知り合いの言葉の方を、信じる人間はいるであろう。
「ファーストアルバムもミニアルバムも、一万枚以上は売れてる」
楽屋の中で、俊は呟く。
「ただワンマンで1000人規模のライブをやったとして、果たしてどれだけを集めることが出来るかな」
まずはハコを決めろよ、という話になってくるのだが。
ノイズの分かりやすい潜在的な人気は、そのCDの売れ行きに表れていると言っていいだろう。
正直なところ音楽業界では、インディーズでのこの売れ行きに、注目している人間が多い。
いまだに配信などはごく限られた曲しかやっておらず、MVは霹靂の刻の完成を待つところである。
ただ月子の歌はまだまだPVが回っているので、オリジナルにも需要があるのは間違いない。
ファーストアルバムは海賊版が出回っているが、いまだに正規品がちょこちょこと売れているのだという。
今日は250人のハコに対して、ミニアルバムを300枚と、過去のアルバムも50枚ほど持ってきている。
他の物販に関しても、それなりに売れる見込みはあるのだ。
果たして1000人のハコを、自分たちだけで埋めることは出来るのか。
大阪の竜道などは、同じぐらいのハコでワンマンをやっていたのだから、ノイズも可能な気がしないでもない。
あとはチケット代をどうするか、という問題も出てくる。
対バンのあるライブと、ワンマンのライブ、果たしてチケットはどちらが売れるのか。
人気のない間は対バンライブであり、人気が出てくればワンマンである。
対バンライブのチケットなどは、そもそも付き合いで買っている人間が必ずいるはずだ。
それが3~4組もあれば、それなりに客は埋まってくる。
今のノイズは300人規模を東京でやれば、ほぼ埋まってくるのだ。
信吾や栄二の助言を受けながらも、基本はノイズの舵取りは俊がする。
その悩んでいる様子を見ると、苦労が多いなと暁は思う。
「なんだかプロデュースまで考えるリーダーって大変だね」
「いや、確かに俊は大変だが、いいことでもあるんだ」
信吾の言葉に、栄二もかすかに頷いていた。
「俊は色々と、ただライブをしようというだけじゃなく、ステップアップをずっと考えてるだろ? しかも事務所の言いなりではなく。これが本当に重要なんだな」
信吾としては前のバンドで、停滞していた音楽を思い出している。
「バンドっていうのは生き物で、常に動いてる必要があるんだ。止まると死ぬんだよ」
「あ、それ分かる」
月子としては、やはりアイドルとしての活動を思い出したらしい。
毎週のライブをして、時々歌は変えて、ライブの終わりにはチェキを撮る。
毎回全力でやろうと思ってはいても、どうしてもマンネリ化していることは否めなかった。
その変わらないことが、逆にいいのだと思われることもある。
充分なファンさえ確保できれば、予定調和の盛り上がりでも充分なのだ。
だが音楽のファンに限ったことではないが、常に新規の人間を呼び込む必要はある。
そのためには今のファンにも、常に新しいものを提供し続けなければいけない。
変化することを恐れていては、前に進むことは出来ない。
そもそも今の段階のノイズは、まだまだ成長の途上にあるのだ。
やがて対バン相手の演奏が始まっていく。
地元埼玉のバンドであるが、東京にもたびたび演奏してきているもので、インプットを必要とする俊などは、聞いたことがあるバンドだ。
小さなハコならワンマンも出来るぐらいの人気があり、それがもう一つ一緒に今日の演奏をしてくれる。
一番長いノイズの演奏は、およそ一時間半ほどを予定している。
もうほとんどワンマンと変わらない時間ではないかと思えるが、この時間に畳み掛けるように、演奏をしていくのである。
上手いバンドというのは、それなりにあるものだ。
だが凄いバンドとなると、それは絶対的に少ない。
今日は暁のレスポールも戻ってきていて、準備はしっかりしている。
「ノイズさん、そろそろです」
「よっし、じゃあ行くか」
わずかな心地いい緊張感の中、メンバーは立ち上がって楽器を取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます