第141話 関東遠征
遠征というほど遠くもないが、関東の三ヶ所にライブに行く。
横浜、埼玉、千葉の三県である。
もちろん関東には他に、数十万の人口を抱える都市がいくつもある。
だがまずは、神奈川県の横浜からである。
300人規模のハコであり、対バンとして用意されたのは二つのバンド。
共に横浜を拠点とするバンドであるが、東京に遠征に来ることもある。
相変わらず信吾の知り合いではあるが、俊も一度だけ対バンをしたことはあった。
その頃に比べればずっと、二人の所属するバンドは大きな存在になってしまった。
インディーズレーベルでありながら、使える情報とコネクションはメジャー並。
インディーズにも色々あるし、メジャーにも色々ある。
重要なのはどれだけ、金が儲かるかということだ。
アーティスト印税や楽曲の著作権では、著作権者のみが多くの収入を得る。
だがメジャー契約でないと売れない、というのも昔は確かなことであったのだ。
宣伝や広報などは、ファンが勝手にしてくれる時代になっている。
推しという文化と言えばいいであろうか。かけられる金は有限であるが、時間を使って宣伝してくれる分には、もっと大きな効果が見込める。
「なんだかんだ、高岡先生も宣伝してくれたしな」
フォロワー10万規模の小説家の、宣伝効果というのは大きい。
そもそもコネクションというものがあれば、それだけで宣伝効果が打てる時代なのだ。
もっともフォロワーが多い人間ほど、安易に宣伝をしたりはしない。
しょぼい対象をオススメなどしてしまえば、自分もお粗末なものだと思われてしまう可能性があるからだ。
本当に自分の作品に自信がある人間は、自分の作品のことを凄いだなどとは言えない。
まして分からない方が駄目だなどとは言わない。それは統合失調症の人間にある症例の一つだ。
肥大した自我が、己の卑小さを認めることが出来ない。
すると無敵の人となって、周囲に破壊をもたらすことにもなる。
情報化社会となって、ネットワークが拡大した結果、人間は幸福と不幸をより知ることが出来るようになった。
不幸を知って、己の幸福に気づくだけならいいのだが、その不幸を蔑むことで、己の自我を保とうというのは愚かな所業である。
また大きすぎる幸福を知ることではなく、わずかに自分よりも上の幸福が、すぐ傍にいることを知ってしまうこともある。
それへの嫉妬により、目の前の幸福の価値を見誤ってしまう人間のなんと多いことか。
本当に満足しているなら、空虚な自慢などしなければいいのだ。
不足していることを嘆き、絶えず飢えの中から渇望することの方が、どれほど美しいことか。
「やってきました! 横浜アリーナ!」
「おお~」
「ぱふぱふ~」
「どこがだ」
あちらは17000人が入る場所である。
もちろんいずれは、あそこでもライブはしてみたい。
最近のノイズのライブは、東京の渋谷近辺では、すぐに売切れてしまうのだ。
明らかにやっている、ハコの規模が見合わなくなってきている。
横浜アリーナは大げさにしても、もっと大きなハコでもいいだろうに。
だが1000人規模ぐらいのハコになると、その予定がかなり埋まっている場合が多い。
あるいはイベンターが、既に確保している場合もある。
そういったところに、話を通していくのが事務所の力だ。
巨額の宣伝や広告は打たなくても、コネクションがあるというだけで、充分に活動が出来るようになる。
ノイズの場合はとにかく、ローディーもさほど雇うことがないため、そのままハコの設備を使うことが多い。
するとどうしても、演奏出来る舞台に限界が来る。
大きなハコは単純に借りる費用だけではなく、セッティングにも巨額の金が動く。
そうやって裏方にも仕事を作るのが、トップアーティストの仕事であるのだ。
ビートルズがレコーディングバンドになったのは、そういうことへの反発もあったのかもしれない。
アイドル扱いが嫌になったとも言うが、確かに後期のビートルズはヒッピーファッションになったりしている。
マッシュルームカットで統一されていたのとは、全く違う方向性だ。
「週末にここを使えるだけでも、充分に凄いことだな」
栄二が言うのは、300人規模のハコであると、機材やドラムセットがまだ最初から揃っているところが多いため、スムーズな演奏の交代が出来るからだ。
横浜もまた、関東の巨大都市である。
むしろここにこそ、東京にもない特色があったりする。
千葉や埼玉よりも、さらに巨大な都市である。
ここの存在の東京と比較した異質さは、やはり海外の影響が強く出てくるからであろうか。
そもそも誕生からして、横浜は海外の影響を受けやすくなっている。
幕末に開港された横浜は、急激な膨張を遂げた街であり、当時としては江戸よりもよほど海外に開けていたのだ。
それからずっと時間は流れていったが、港町という空気感は失われていない。
ある意味では東京寄りもお洒落な街、などというイメージもある。
確かに東京は、下町など古くの文化が残っている。
「あんまりアウェイって感じはしないかな……」
こっそりステージ脇から、暁は前のバンドを見ていた。
今日の彼女は、自分に不安があるのだ。
愛用のギブソンレスポールスペシャルは、本日まだメンテナンスから戻ってきていない。
オーダーメイドが完成するのはさらに先の話であり、本日はエピフォンの予備を持ってきている。
レフティの彼女には、どうしても使えるギターの選択肢が狭くなってしまう。
しかもレスポール・スペシャルタイプに体形が最適化している。
他のギターも弾けなくはないが、まさに愛用の武器と一体化しているのだ。
前座というわけではないが、対バンをしてくれている、前のバンドが二つある。
ちゃんと盛り上げてくれているが、今日はやや緊張している暁である。
「アキちゃん、大丈夫?」
同じくステージ脇に来ていた月子に声をかけられる。
月子はだいたい、いつも怖がりだ。
だが同時に現金でもあるので、すぐに恐怖を上回って歌うことが出来る。
普段の暁なら、ギターを持てば心が落ち着く。
だが今日のギターは、愛機ではない。
(他のギタリストって、そういうところないのかな)
父はだいたい同じギターで仕事をしているが、時々他のギターを使っている。
状況に応じて、ギターを替えているのだ。
暁の場合はエフェクターで、ギターの音を変えているのみ。
「大丈夫じゃなくても、なんとかするよ」
暁も本当は、ギター一本というのは無理があるとは分かっていたのだ。
一応は今日のエピフォンも、たまには弾いて体に慣らしている。
たった一人で弾いていたように思える暁であるが、実際には父がいたし、その父のバンドのメンバーとも面識があった。
俊ともわずかにだが、過去に会っているのだ。
もっとも俊の父の離婚より後は、そういった機会はしばらくなかったが。
スタジオミュージシャンの父は、場合によっては暁を仕事場に連れて行くこともあった。
そこでセッションなどもしていた暁が、高校に入学して初めて、自分と同年代の人間の実力を知る。
そしてノイズにやってきたわけだが、なんだが昔に考えていたのとは、予想だにしていなかった展開となっている。
セッションする楽しさを、暁は知ってしまった。
もう一人きりで演奏する、防音室に戻るのは難しい。
別に有名になりたいとか、大金持ちになりたいとか、そんなことを考えたことはない。
だが好きなだけギターを弾いていくためには、ある程度の金を稼ぐことが必要だ。
そして今は、好きなメンバーと面白い曲を、どんどんと弾いている。
俊は自分のことを天才じゃないと言うし、確かに苦しみながら作曲をしたりしている。
だが彼は、進む方向と、進み方を知っているのだろう。
それだけでも既に、ただの凡人ではない。
少なくとも、音楽の研鑽を続けた凡人だ。
あるいはたいていの天才をも上回るほどの。
努力をするにも、才能が必要だと言われる。
少なくとも俊は、それが可能な環境に育った。
ギターばかり弾いている自分と、少し似ているところがあるかもしれない。
ノイズのメンバーというのは、何かを切実に求めている者が多い。
栄二だけは少し違う気もするが、欠落した何かの代償を求める千歳や、要求の高い信吾とも、上手くやれていると思う。
バンドというのはすぐ解散するものだ、などと父は言っていた。
解散はしなくても、メンバーの入れ替わりはあるのだと。
ただノイズはまだ、結成して一年も経過していない。
この場所がなくなるのは嫌だな、と暁は感じている。
「よし、そろそろ準備しようか」
切り替えるように言って、暁は月子と共に、楽屋に戻るのだった。
300人規模のハコを、しっかりと埋めてくれる。
メジャーのチャート上位のミュージシャンを別とすれば、これぐらいが実力の証明となる。
およそ一時間にもなるライブにおいて、今日のMCは主に俊が行う。
上手く盛り上がっているように思えるが、わずかに暁の反応が悪い。
そんな細かい部分が分かるほど、バンドとしてはお互いが把握できるようになってきている。
なんなら俊は、女性陣の生理周期まで、ある程度把握している。
さすがにこれは質問することはなかったが、パフォーマンスを万全にするには、ある程度把握しておく必要があったのだ。
女性の阿部がある程度、マネージャーをしてくれている今は、そのあたりは任せることが出来る。
俊にとってはひそかに、自分自身がげんなりとする問題であったりした。
それは別として、今日の暁の調子が悪いのは、ギターがメインの物とは違うからであろう。
ほんのわずかな重量の違いで、演奏に変化が出てしまう。
案外繊細なようにも思えてしまうが、弘法筆を選ばずとはいかないのだ。
実際に史実の空海は、しっかりと筆を選んでいたという。
激しい曲は案外、エフェクター頼みでどうにか誤魔化せる。
だがむしろバラードなどに、楽器の音色は反映されるものだ。
俊はこんなこともあろうかと準備していた、電子音を即興で混ぜていく。
まさにジャズ的な即興であるが、曲が悪くならなかったらそれでいいのだ。
(けれど、まずいな)
霹靂の刻には、ギターの激しい音が必要だが、同時に静けさを感じるパートもある。
アンコールの前の、その曲で一応は、終わるはずの予定なのだ。
どうせアンコールは起こる。
起こってもらわなければ困る。
(実際のライブだと、どうしてもスタジオ練習とは違う感じになるからな)
特に霹靂の刻だと、月子のテンションが上がっていく。
(行けるのか?)
俊の位置からなら、ステージ全体を見渡すことが出来る。
(いっちゃえ!)
上手くいかなければ上手く行かないで、少しぐらいの経験にはなるだろう。
慎重すぎる俊のせいで、ノイズは基本的に失敗経験が少ない。
東京から来ている客もいるため、ある程度は許されることもあるか。
普段はそういう妥協を許さない俊であるが、この場合はもうどうしようもない。
霹靂の刻で失敗するなら、それは本当にどうしようもないのだ。
だがステージの上で、月子と暁の視線が交錯していた。
電子三味線による、月子の即興。
本来の形ではないが、霹靂の刻はしっかりと成立していた。
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