第140話 また会う日まで
世界は広いようで狭く、狭いようで広い。
普段から活動の拠点に近い渋谷に、こんな天才的な演奏者がいるとは。
学校の制服ということは、通学路かその近くなのであろう。
霹靂の刻の三味線部分と、コーラスが入る部分を的確にヴァイオリンで弾き分けている。
(実はけっこう有名な子だったりするのか?)
クラシックにはあまり興味も知識もない信吾だが、あちらはこちらのポップスを充分に弾いている。
これがクラシックのヴァイオリンなのかは、甚だ疑問ではある。
インストバンドの中に、ヴァイオリンを使ったものがいたりするからだ。
確実なのは、その圧倒的な支配力。
月子のボーカルと共鳴するところなどは、暁のギターにも匹敵するのではないか。
(ライブはともかく、レコーディングならこの音は充分に武器になるぞ)
さすがにこれ以上メンバーを増やすのは、バンドとしては多すぎる。
霹靂の刻を、ここまでしっかり理解しているとは。
そしてこの年齢というのは、まさに暁のようなものであろう。
信吾も多くのギタリストを見てきたが、暁と同年齢で暁より上手いというのは、一人もいなかったように思う。
ヴァイオリニストならばいた、ということなのだろう。
演奏が終わったときには、周囲には壁のような集まりが出来ていた。
これ以上はちょっと無理だな、と信吾は考える。
過去にはロックスターが、歩行者天国などでゲリラライブをしたものだが、それで大騒ぎになってしまったという過去がある。
日本でも知名度稼ぎのために、そういうことは行われたものだ。
だが俊はそういった手段は、あまり好きそうにない。
好悪ではなく、影響に懐疑的であるというべきだろうか。
「ちょっと、お巡りさん来てるよ!」
同行者であった制服の言葉に、すぐさまヴァイオリンをしまう少女。
そのまますたこらさっさと消えようとする。
「あ、ちょっと!」
信吾が声をかけたが、一度振り向いて月子を見ただけ。
確かにまずいのだろうが、壁の間を抜けていった。
まるで彼女の行方に、何も遮るものなどないように、自然と人が動き道が開けたのだ。
名前ぐらいは聞いておきたかったな、と信吾は思う。
「また会えるよ」
だが月子の言葉には、確信の響きがあった。
「何か言っていたたのか?」
「目と目で通じ合うっていうか」
かすかに色っぽいことを言う月子であったが、そういう感性に由来するものは、信吾にとっては遠いものだ。
また会える、と本当に言えるのだろうか。
ただ少し調べてみる気にはなっていた。
このあたりでそこそこ見る制服に、あのヴァイオリンの腕前。
おそらく知らないだけで、有名な人間ではあるのだろう。
「その前に、お巡りさんに説明しないとな……」
さすがに人が集まりすぎて、誰かが伝えたのだろう。
当然ながらこれについては、信吾でなければ説明は出来ない。
「それで、正体は分からなかったんだ?」
「そうなんだよな~」
長野から戻ってきた俊に、信吾は起こった出来事を伝えている。
一応は事前に許可は取っていたものの、まさかあんなことになるとは思っていなかった。
月子のパワーをより引き出す演奏。
そんなことが出来る人間が、全くの無名というのはおかしな話だと思ったのだが。
俊としては、少し思うところがある。
「でも、また会えるよ」
月子はこのように、確信を持っている。
「音楽を続けていたら、必ず」
「中学生だったら、まだ親に止められてるとかか?」
「普通はヴァイオリンをするなら、クラシックで有名になってるだろうな」
中学生でヴァイオリンの結果を残している、おそらくは日本人。
とりあえず制服で学校までは特定出来たが、果たしてこれ以上調べる必要があるのか。
「そっちはどうだったんだよ」
「アキがしつこかった」
「言い方」
長野は長野で、それなりにこだわったらしい。
千歳はビンテージテレキャスターの音と、スクワイアの音を両方使えるような、つまり特化した音と汎用的な音、二つをピックアップの切り替えで出来るように頼んだ。
するとテレキャスタータイプではなく、ストラトキャスタータイプになってしまったわけだ。
だがまだしも千歳は良かったのだ。
問題は暁の方で、ブリッジが一ヶ所おかしなギターを持っていって、こんな感じのギターをほしい、と言ったわけである。
熟練の名工をして、どうなってるんだこれ、と言わしめたものである。
ギターは色々な種類があり、それこそ形で分けることも出来る。
一番多いのはテレキャスタータイプかな、と暁は思っているわけだが、好みなのはレスポールである。
なぜかと言われても困るのだが、やはり幼少期から使っていたから、と言えるであろう。
単純にテレキャスやストラトは、スケールが大きいので、子供には使いにくかった。
また似た理由で、重いためギブソンでもスタンダードやクラシックも使いにくかった。
ショートスケールなどと呼ばれるムスタングやジャガーもあったが、あちらは比較的チューニングが狂いやすい。
それで最終的に選んだのが、軽いギブソンのレスポールというわけだが、ポール・リード・スミスなどもいいギターは多い。
重要なのは、形がレスポール・スペシャルであり、重量も近いこと。
音も重要であるが、自分が弾きやすいというのも、当然ながら重要なのだ。
おかげでオーダーに時間がかかったが、職人というのはそれだけ、こだわりをもった人間に合わせてくれるものだ。
完成するのに一ヶ月以上かかるが、夏のフェスには間に合うだろう。
間に合わなくても、それまでにはレスポールのメンテナンスは終わっているはずだ。
練習の日々がひたすら続く。
暁は代替機のエピフォンのレスポールを使っているが、同じタイプであるのに音が違うのは分かる。
あの皮膚をえぐって肉に染み込んでくるような、独特の音ではない。
それでもエフェクターのセッティングで、どうにか近い音を出してくるのだが。
「そういえばさ、ギターの音には本質的な良い悪いはないって言ってたけど、ヴァイオリンとかはどうなの?」
こういう基本的なことを尋ねてくるのは、だいたい千歳である。
ただ解答は、暁が持っていたりする。
「良い音の基準が、決まってる楽器と決まってない楽器があるだけだよ」
ギター弾きとしては、そういう返答になるらしい。
クラシックにおいては、おおよそ良い音の基準が決まっている。
するとそれを出せる楽器も、限られてくるというわけだ。
ギターの場合はクセがあって、そのクセを愛するギタリストがいる。
レスポールのスタンダードやクラシックにしか出せない音があって、テレキャスターでもビンテージタイプにしか出せない音がある。
同じレスポールのスタンダードでも、ピックアップで出てくる音が変わってくる。
年代で使っているピックアップは違い、その中でPAFというピックアップが出す音は特別だ、などとも言われている。
暁のレスポールは、P-90というピックアップであるのに、そのPAFに近い音が出る。
ただそれは、良い音と単純に言ってしまうものではない。
「チューニングをわざと少しだけ狂わせるの、ギターとかでは当たり前のことだろ? まあヴァイオリンは正確な音が出る楽器で、どれだけ表現をしていくかが問題なんだが」
ヴァイオリンも習っていた俊の話が長くなりそうなので、皆でそれを止める。
ただクラシックには、正解に近い音、というのがかなり明確である。
ポップスというか、ロックはもっと自由なのだ。
ショートスケールのギターなどは、弾いているうちにチューニングが狂ってしまったりする。
またビンテージ物なども、音の正確さ自体は悪い、と言ったほうがいいのだ。
根本的な話として、人間の耳や脳は、正確なだけの音には魅力を感じない。
例外はあるという者も、いくらでもあるだろうが。
正確ではない雑音の中に、その人間の本性が表れる。
それを楽しむだけの余裕が、受け取る側にあるかどうかという話である。
ヴァイオリンという普段の演奏からは、あまり使われていない生音。
それを月子と信吾が凄いと感じたのだから、本当にそれは凄いのだろう。
だがクラシックではなく、ポップスを演奏できたこと。
またコンクールなどを調べても、それらしい人間がいないこと。
まさかヴァイオリンを、独学で弾けるようになったわけではないと思うが。
不思議な少女であることは間違いない。
千歳はまだ定期的に、ボイストレーニングに通っている。
少しずつ教わっている先生の家族とも、接触することが多くなった。
長男は既に家を出ているらしいが、その下に女の子が二人いて、まだ小さな男の子が一人いるという。
それとは別に住み込みの教え子がいて、千歳と少し話したりすることもある。
音楽一家らしいが、次女とその教え子の方は、クラシック以外が好きであるらしい。
(こういうのも天才っていうんだろうなあ)
クラシック以外の現代音楽も好きという彼女は、ピアノですぐに既存の曲をアレンジする。
ミニアルバムが出来たときも、最初に聞いてもらったものだ。
そしてすぐさまアレンジして、その仕上がり具合に千歳は唇を噛んだものだが。
年下であるが、間違いなく天才だな、と千歳は感じたものだ。
そのくせクラシックのコンクールなどには出場していないというのだから、そのあたりもよく事情が分からない。
長女の方は、やはり音楽をしているようだが。
どうも先生があえて止めていて、それに彼女も従っているらしい。
変な話だなと思うが、人前で弾くのが苦手なのだろうか、などと千歳も距離感を考える。
本当の親はどうしているのかなど、自分だって問われたくないことがある。
「やっぱギターはいいよねえ」
先生の次女である玲は、クラシックよりもポピュラーミュージックの方が好きであるらしい。
千歳と時々会うため、そんな会話をするようにもなった。
「ちーちゃんもギター一年ちょっととは思えないぐらい上手いよね」
「あ~、そっちは師匠たちが上手いから」
そろそろ俊は超えたかな、と思っている千歳である。
「私も高校に入ったらバンドやろうと思ってるのだけど、メンバーが足りないのよね」
「あたしは普通に、軽音部に入ったけど……今のバンドに誘われたからなあ」
よくもまあ、あの時点の自分を、俊は引き抜いたものだな、と今なら千歳は分かる。
俊には才能を見抜く才能があるのは、間違いではないと言っていいだろう。
二人がボイストレーニングをし、先生がその肩や腹に触れる間、ピアノを弾くのはその教え子である。
名前も聞いているが、基本的にクラシックの声楽の曲以外に、ポップスの曲も弾いてくれる。
「クラシックが嫌いとか悪いとかではないのだけど、やっぱり日本でやるなら邦楽ロックが一番でしょう?」
そんな例の言葉遣いは、かなりお嬢様っぽいものであったりする。
ピアノが弾かれるのに合わせて、千歳がギターを弾き、そして玲が歌う。
ギターボーカルをやるらしいが、少なくともドラムとベースは必要になるだろう。
ガールズバンドではドラムは少ない。
あと単純にベースも、楽器の大きさがあるので少なめではある。
もっともギターはギターで、茨の道だと思っていたりする。
自分よりも上手い人間が多くて、本当に無力さを痛感するのだ。
「花音は本当は、ピアノ以外も弾けるのだけれど」
「へ~、ドラムなんかも?」
一応この防音室には、ドラムのセットまである。
ゴリゴリにかっこいいガールズバンドがやりたい、というのが玲の希望であるらしい。
ノイズなどはフロントが完全に女性陣なので、それなりに憧れがあるという。
「ちーちゃんに頼んで入ってもらったり出来ない?」
「契約どうなってたかな? けどあたしはギターかボーカルしか出来ないよ?」
「最悪ドラムは私がするから」
なんともお嬢様であるのに、過激なこともやってみたいらしい。
帰り際に玲は、なぜ花音が表舞台のコンクールに出ないのか、少しだけ話してくれた。
どうも本当の両親の方に、理由があるらしい。
どういう人間であるのかは知らないが、娘が表舞台に出ないのを、止める理由になるのだろうか。
そのあたりが気になった千歳であるが、彼女がどうこういう問題でもないだろう。
「バンド作ったら対バンしてね」
「うちらが有名になりすぎる前に来てくれたらね」
自分の価値はともかく、ノイズの価値については、周囲の環境の変化によって、理解しつつある千歳であった。
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