第97話 全ては酒のせい
体が重いと感じながら、これまた重い瞼を開ける。
見飽きた天井は地下スタジオのもので、記憶の混濁を意識する。
普段からここで寝落ちすることは珍しくない。
(なんだか、おかしいぞ……)
視線を暖かく柔らかい右に向けると、そこには暁の寝顔があった。
(…………………………………………………………………落ち着け、素数を数えるんだ)
昨日の夜は、そうクリスマス・イヴで皆が集まっていた。
最後の方は地下に潜って、カラオケ合戦や演奏合戦になっていた。
千歳が仮面ライダーシリーズの歌を歌って、月子は演歌や昭和歌謡を歌っていって、暁は洋楽のギターを弾いて自分でも歌っていた。
基本的に俊以外は、普通程度の歌唱力を持っている集団なのだ。
いやそれより、と俊は布団から這い出た。
服装は皺がよってはいるが、脱いだりはしていない。
暁もしっかりボタンもとめていて、一線を越えた気配などはなかった。
(危ねえーっ!)
バンド内恋愛禁止とかいう以前に、青少年保護条例に引っかかるところであった。
俊は背が高くて年上で高圧的な女が苦手だが、暁は小さくて年下でギターさえ持たせなければ基本はおとなしいので、女と見れなくはない。
今までは全く意識していなかったが、これは注意しておかなくてはいけない。
ただ記憶を詳しく辿っていくと、寝落ちした暁を布団に転がした時、向こうから首に手を回して、キスをして舌を入れてきたような気がする。
こちらもそれに対して、体をまさぐったような記憶まではあるのだが、服を脱がすのが面倒でそのまま寝てしまった、というのが正確なところだったと思う。
もっとも夢の中の妄想であった可能性もある。物証はない。
(身長の割には胸はあるんだよな)
その感触にしても、トップスが水着一枚になることはしょっちゅうあるので、普通にそこから出た妄想かもしれない。
少女であることは認識していたが、女を感じたことはなかった。
だが今、女性であることを実感してしまった。
(どれだけ記憶があるか……)
出来れば全て忘れていてほしいものだ。
すやすやと眠る暁を見ていると、まあ可愛らしいものである。
自分でもどこまでが現実であったか、正確なところは分かっていない。
出来れば全て夢であったとして、今の関係が継続することを望む。
変化するのは音楽性だけで充分で、人間関係の変化なぞは望まない。
そういえば寝る直前には、作曲に入っていたのだったと、ノートPCの電源を入れて確認する。
千歳が最初に眠そうな顔をして、月子の部屋に泊まっていったはずだ。
その後に信吾が引き上げて、熱中したら倒れるまで続ける二人が残ったというわけか。
俊が気をつけるべきであったが、女性陣も男女二人きりにならないよう、少しは配慮して欲しかった。
それだけ俊のことを信用しているのかもしれないが。
(色恋沙汰では、すぐにバンドは崩壊するからなあ)
朝倉のことを笑えない。
ただそんな反省をしていても、あっさりと忘れて作業に入ってしまうのが俊である。
酔っ払って作っていた、メロディの断片。
暁を起こさないように、ノートPCを持ったまま、スタジオを後にする。
最後に照明を弱くしておけば、証拠隠滅になるだろう。
一階に戻ったが、どうやらまだ誰も起きていないようだ。
いや、月子だけはもう、アルバイトに出かけたのか。
イヴの翌日も普通に働くというのは、社会人としてはよくあることだ。
世の中はそうやって働く人がいて、世界は回っている。
最近は新聞配達はやめたのだが、それでも以前よりは楽に生活が出来ているという。
アパートの家賃があったこともあるが、アイドル活動のために必要だった、身の回りの物が減っている。
レッスンなどにしてもライブにしても、拘束時間はあってもほとんどが金銭収入にはつながらなかった。
もっとも今でも音楽活動では、安定して稼げているわけではない。
メジャーレーベルのデメリットは色々と言われるが、安定して給料が払われる場合は多く、そのために所属するという者は多い。
実際に栄二などは、そういうメリットを求めてスタジオミュージシャンとして正規雇用されていたのだ。
一人で先に食事をして、他のメンバーを待つ。
そういえば昨夜、佳代は帰ってきていたのだろうか。
二階は女子の領域ということで、基本的に俊は踏み込まなくなっている。
ハウスキーパーがチェックしてくれているので、特に問題になる使い方はしていないのだろう。
ダイニングで食事をしながら、PCで作業もする。
そこに起きてきたのは、暁が最初であった。
「おあよ~。俊さん、布団取ってごめん~」
元々天パの髪であるが、髪ゴムをしていないと、ものすごくもっさりとしている。
「ああ、それはいいけど、悪かったな。こちらも酔ってなければ一階の綺麗な方のベッドに運べたんだが」
「うん、確かに俊さんの匂いがした」
「……臭かったか?」
「あ、そういう悪い意味でもなくて、でもなんというか男の人の匂いというか……」
そう説明する暁の頬は、少し紅潮している。
これは確認をするべきなのか、それとも流すべきなのか。
「記憶はちゃんと残ってるか? 俺もあんまりはっきりしてないんだが」
「う~ん、あんまり。そんなにお酒飲んでたっけ?」
「お前は高校生なんだから、そもそも飲んだらダメだろう。今まで飲んだことなかったのか?」
「うん、初めて」
なんだか別の意味に聞こえてしまった、俊の耳である。
「何か飲むか? それともシャワーでも浴びるか? 二階は女性用になってるんだけど」
「う~、千歳は帰ったんだっけ?」
「いや、月子の部屋に泊まったはずだけど」
サイズの大きなベッドなので、二人でも寝られるはずである。
「じゃあシャワーもらう。あ、コーヒーがあるならほしい」
「分かった」
そして暁は、廊下に出て二階への階段を昇っていく音が聞こえた。
どうやら本人は、詳細を記憶していないらしい。
それほど飲んだとは思わなかったし、強い酒は信吾しか飲んでいなかったが、今後は注意していく必要があるだろう。
そもそも女性陣は全員、20歳未満なのだから。
「しかしよかった……」
「何が?」
突然の気配に驚いて振り向くと、ドアを細く開けて、千歳がこちらを見ていた。
「普通に入って来いよ!」
「うん、まあ、食べるもの何かあるかな?」
「昨日の残りを温めればいいだろ」
そうは言ったが自分の分もあるので、いそいそと俊は席を立つ。
「朝からピザでもいいか」
「とりあえずはなんでもいいよ」
そしてテーブルに戻った俊だが、向かい側に座った千歳の視線が鋭い。
これは、何か分かっているのか。
「なんだ?」
「ツキちゃんが出る時、あたしも目が覚めたから地下に行ったんだけど、二人で寝てたよね?」
見られている。
俊は頭を抱えそうになったが、落ち着いて素数を数えた。
「誓って一線は超えてないぞ。布団に寝かせた後、俺も限界でそのまま寝ちゃっただけみたいだし」
「本当に~?」
「もしそんなことしてたら、女の方は分かるだろ」
「知らないよ、そんなの」
ぷいと視線をそらした千歳は、そういえば男性との交流はそれほどないのか。
ただ見られていたからには、ちゃんと説明しておく必要はあるだろう。
「変なことをした痕跡はなかったから、本当に一緒に寝ただけだ。あとアキの方は、その一緒に寝た記憶すらないみたいだから、本人にも言わないでやってくれ」
「なかったことにするんだ?」
「いや、俺は別に何もやってないし、そもそも男と一緒に寝たのって、別にセックスしてなくても嫌なもんじゃないのか?」
俊の場合朝倉のバンドでは、打ち上げの後に男女関係なく雑魚寝をしていた経験はある。
今回の場合は同衾であるので、ちょっと意味が深くなってしまうのではないか。
「う~ん、まあ俊さんとなら、あんまり気にしないんじゃないかな」
「どういう意味だ?」
「いい意味で信用してるってこと」
信用と言ってしまっていいのか。
千歳から見たら俊は、親戚のお兄さんっぽいイメージがある。
そんな経験があったわけではないが、子供の頃に寝られなくて、一緒に寝てもらったというような感じであろうか。
もちろん今の高校生の自分が、そんなことを俊に頼むはずもない。
ただ小学生低学年ぐらいであったら、一緒に寝ても何も問題なかったかな、という程度の親近感はある。
おそらく正確な状況を伝えられても、暁は恥ずかしそうにするぐらいで済むだろう。
だが一歩間違っていれば、大問題になったことは間違いない。
もっとも俊は女性に対しても、あまり性的な目を向けるということがないと思う。
信吾などは他のバンドのメンバーには声をかけていくが、バンド内ではおとなしいものだ。
高校生に手を出すというのは問題もあるし、月子に対しては俊のガードもあり、わざわざ手を出す気にもならないのだろう。
彼はある程度女性関係があるようだが、それはそれではっきりと分けている。
バンド内恋愛禁止というのは、こういうことがありうるからか、と千歳は理解した。
自分が同じ状況になっても、冬だから一緒に寝ただけで、夏なら雑魚寝と変わらないだろう、と判断する。
(まあツキちゃんだけは、ちょっと違うかもしれないけど)
ノイズのメンバーの中で、一番関係性が深いのは、俊と月子だと思う。
俊は完全に月子の才能に惚れていて、ある種のリスペクトをしている。
ただ月子が俊に向ける感情には、明らかに好意はあるだろう。
恋愛としての好意であるのか、それは恋愛経験のない千歳にとって、微妙に分からないことであるが。
千歳がそんなことを考えている間、シャワーを浴びる暁は、己の記憶を辿っている。
果たしてこの記憶がどこまで、現実であるのかどうか。
(塩味のキスだった……)
これが現実であったのか夢なのか、判断が難しい。
味覚は夢では、あまり感じないものだったとは思う。
だが全てが本当であったのだろうか。
いわゆる一線を超えていないのは、衣服を見ても明らかであった。
教室の片隅で女子生徒同士が囁くような、そんな淫靡な痕跡も残っていない。
せいぜい抱きしめて運ばれたとか、その程度であったろう。
それにキスをしていったのは、自分の方からであった。
(せっかくの夢だし、相手が俊さんなら問題ないかとかって、問題ある!)
ガンガンと風呂場の壁に頭を打ち付けたが、酒は二日酔いするほどは飲んでいなかったようだ。
現実であったのか、それとも夢であったのか。
どちらにしても、後ろめたい感じは消すことが出来ない。
(ツキちゃんに悪いよ……)
明確にそう言われたわけではないし、そもそもそういった感情ではないのかもしれないが、月子が俊に抱いている好意は、暁も普通に気づいている。
だがそれは自分が、俊や月子に抱いている好意と、果たして何が違うのか。
(忘れろ。この感情ごと、記録も忘れろ)
そもそもこれは、問題にもすべきではない。
ただこの日、暁は珍しくも、練習の中でミスを頻発した。
全ては酒のせいにして、なんとか誤魔化せたとは思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます