第66話 アイドルとシンガー
アイドルとシンガーは両立するか。
答えとしては、両立する場合もある、というのが適当であろうか。
たとえば邦楽の歌唱力アンケートなどを見てみると、アイドルとしてデビューした中森明菜がかなりの上位にランキングしていたりする。
他にも特に、女性の場合はアイドル売りをする本格シンガーというのはそこそこいる。
最近ではソロアイドルはほぼ見なくなってきているが、グループメンバーの中の歌スキル担当というのは確かにいるのだ。
なおルックス担当、ダンス担当などもいる。
以前の月子は、ツッコミどころ担当であったと言えようか。
ディスレクシアであることを利用した、天然ちゃん枠でもあった。
「でも、もう一人で突き抜けすぎてしまった」
ルリの言葉は、重い響きを持っている。
「正直、わたしたちじゃミキの歌には付いていけない」
気持ちは分かる。俊も月子と暁の二人には、とてつもなく引っ張られたのであるから。
メイプルカラーのメンバーは、元々歌メンと呼ばれる、歌唱力で突出したメンバーはいなかった。
正確には月子が突出していたが、それが目立たなかったのだ。
本人の性格からして、歌にまで手が届かなかったというのはある。
今の月子の立場は、グループの中ではエースに近い。
誰もが認める、圧倒的な存在感。
ダンスパートがあまりなく、歌唱力に振り切ったその能力。
ルックスもかなりいいので、それだけで普通に歌手として売り出せばいけたはずだ。
もっとも理解者がなければ、それも叶わなかっただろうが。
月子に足りなかったのは、自信と言うよりはもっとはっきりした、自己肯定感である。
民謡の世界では、ある程度以上の評価をされていた。
しかしそこが自分の居場所とはならなかったのだ。
そして今、また一つの居場所を失おうとしている。
「アイドルフェスは、いい機会だと思うの」
「解散するのかい? それとも月子を……卒業させる?」
実際にデビューさせようという業界の人間もいるのだから、卒業という形でもいいだろう。
「メイプルカラーは……解散する」
ルリの言葉には、少しだけ衝撃を受けた俊である。
月子を引き抜くことは、ずっと考えていた。
だがそのために、グループを解散する必要はないと思っていたのだ。
しかし状況は、俊が単純に月子を誘った時とは、大きく変わっている。
今のメイプルカラーは、月子の力をどれだけ引き出すか、というようにステージの構成が変わってしまっている。
これも最初に、俊が口を出したからだ。
もっとも最初だけと言えば最初だけなのだが。
語るルリの言葉は震えていた。
「いつか、どちらかが来るとは分かっていたし、こうなるだろうとは思ってたの」
どちらかと言うのは、成功か失敗のどちらかであるだろうか。
そして解散は、間違いなく失敗だろう。
「けどグループ名とメンバー変えて転生するから、渡辺さんの責任じゃないよ」
それは間違いないのだが、こうも大事になるとは思ってなかった。
また、ルリは諦めが悪い。
これをきっかけに、アイドルなどは諦めてもいいだろうに。
確かにルリは美人で可愛い。
あざとさまで含めて魅力的であろう。
もうちょっと容姿を利用すれば、上手に生きていけるだろうに。
上手に生きていきたいんじゃなく輝きたいの。
そんな歌詞がどこかでなかっただろうか。
アイドルの賞味期限は短いという。
ルリは今が20歳というから、まだなんとかなるのかもしれない。
しかし相変わらず、未来が見えない。
それでも月子の背を押すことは出来るのだ。
用事があるから、と先にルリは去っていった。
食欲がなくなったが、それでも俊はメニューを完食する。
「ルリはああ言ったが、他のメンバーは同じタイミングで卒業するのもいるだろうな」
向井はむしろ、ルリにこそ卒業のタイミングだと言いたかったのだ。
俊としては、アイドルが売れるというのは、本当に訳が分からないと思う。
大きなグループに入るなら、どうにか手段があるのだろうか。
ただ前に、そういう選考では落ちているとも聞いた。
俊はアイドルをプロデュースしたのではなく、シンガーである月子の活用法を少し提示しただけだ。
ルックスと最低限のダンス技術。
ただそれを全て吹き飛ばす、圧倒的な歌唱力。
声の質、声量、そして解釈に表現。
天性の素質とハンデに、複雑な成長過程を経て成立した、奇跡の存在。
月子の人生はまさに、それだけでドラマになる。
俊もそれなりに壮絶な人生を送っているが、生活に困るとか将来が不安とか、そういうレベルではなかった。
生きていけるのが不安、という絶望を味わってはいない。
そういう絶望から、生まれる音楽もあるらしい。
黒人のブルースというのが、そもそもそういうものであったのかもしれないが。
月子は、何者かになりたいのだ。
圧倒的な不遇から、何者かになることによって、ようやく彼女の人生はプラスに転じる。
俊もまた、何者かになりたい。
単純に誰かから見える成功ではなく、明らかに誰からも分かる成功。
生命の危険に陥ったことはないが、精神を殺されそうになったことはある。
そういう抑圧から、何かを表現しようというのが、三大欲求よりも強いのが俊である。
西園などはそう考えると、まともな感性を持っているのだろう。
家庭を持つということは、まともでなかったとしても、新しく家庭を作るということだ。
娘に向けられる西園の視線は優しかった。
俊の思考はまだ、欲望に満ちている。
己の器の限界を悟りながらも、一人では行けない境地が遠くに見える。
そのためには、月子の完全な加入は望ましいはずだった。
「月子は、何をしたら満足するんだろう」
俊はふと呟いただけであったが、向井はそれに対して応えてくれる。
「紅白とか東京ドームとかレコード大賞とかじゃないか?」
「俗~」
だがそれだけに、正直であると言ってもいいのか。
アイドルフェスが、月子のアイドルとしての最後のステージになる。
それを俊は見るべきであろう。俊以外の人間も、ノイズのメンバーであるならば。
メイプルカラーのミキは消滅する。
やがて過去の姿として、紹介されることはあるかもしれない。
だがこれからが、本当の活躍になると言ってもいい。
メイプルカラーのメンバーも、ノイズのフェスを見に来るらしい。
月子がどれだけのパフォーマンスを見せるか。
自分たちが月子の背中を押すのは、間違っていないのだと見せてやるべきだろう。
俊はその理由には納得しながらも、プレッシャーを感じるのはどうしようもなかった。
月子の件については、西園だけには先に話した。
なぜならそれが、彼の示した条件であったからだ。
フリーになること自体は、前から考えていたのだ。
だがノイズでの活動をメインとするなら、色々とスケジュール管理は必要となる。
「思ったより早かったな。うん、ものすごく早い」
喫茶店で直接対面して、西園とは話す。
「ありがたいことだけど、本当に良かったんですか?」
「今さら」
西園がサラリーマンミュージシャンになったのは、付き合っていた舞子が妊娠したことによる。
生まれた陽鞠も七歳になり、もう小学生。
舞子も仕事に復帰して、ある程度の手は離れている。
実際のところ、信吾も他のバンドに呼ばれて、ヘルプに入ったりはしているのだ。
特に九月以降、ノイズは高校生組が二学期になるので、活動が制限される。
フロント二人がいないというのは、ちょっとパワー八割ダウンといったところだろう。
俊も大学が始まるので、そちらの授業に忙しい。
ただ月子のカバー曲のレコーディングはしようかな、と考えている。
もっともメイプルカラーから外れた月子が、果たしてどういう精神状態になるか。
今はそれが一番危険である。
それと向井から告げられた、一つの事実もまた、俊が頭を悩ませる原因になっている。
今の月子は、実は向井が持っている不動産の一つに、格安で住んでいるのだ。
次に入る住人が決まるまで待ってやってもいいが、いずれは出て行かなければいけない。
アイドル活動にかける時間がなくなれば、かなり自由に活動できる。
だが仕事の量は増やさないといけない。
それを考えても、月子に歌わせてバイト料を払おうと思っているのだが。
西園はフリーになるにあたって、信吾にも仕事を紹介しようとしている。
もちろん西園と違い、実績が少ない信吾なので、顔つなぎという意味が強いだろう。
本当なら、俊にも仕事を振ってみたいらしい。
レコーディング時に見た、ミックスからマスタリングの作業に関するものだ。
アシスタントとしての実力は、既に充分あると考えている。
「時間が……時間が足りない……」
俊の悩みは贅沢だと思うが、それでも西園は理解する。
才能と言うよりは、技術的に俊は充分なことが出来るようになっている。
俊の才能というのは、作品を商品にまで昇華することだ。
おおよそのミュージシャンが、それを持っていないために消えていったり、搾取されている。
とはいえ、月子の問題である。
メジャーデビューでも決まっているなら、会社が社宅を用意してくれたりする。
だが月子に声をかけてきているのは、実はあの後にもあったのだが、ソロシンガーとしてのものが多い。
月子はそれには興味がないというか、グループに義理立て選択肢に入れないようにしているようだ。
もっとも月子の場合は、信頼できる人間がマネジメントしなければ、彼女を理解することすら不可能だろう。
俊がやるのだ。
もっと仕事を作って月子の収入を増やさないといけない。
「俺の方から、彼女に仕事を振ることも考えてる」
月子の声を、コーラスとして使いたい。
そしてあのルックス。
中身は残念仕様ではあるが、スター性はあるのだ。
それも俊が、見出して磨き始めたからだ、と言えるだろうが。
西園は、月子の住居問題について、一つの提案をしてきた。
「お前の家に、下宿させられないのか?」
「え?」
あまりにも予想外のことであったので、俊は思考が停止した。
「だって今、あの広い家の二階、完全に使ってないんだろ? 週にハウスキーパーが三回来てくれてるんだったか?」
「いやいや、男一人で住んでる家に、女を下宿させるわけにはいかないでしょ」
「だから、他にも何人か集めればいい」
西園はちゃんと、考えてからこの話をしている。
俊という人間は、他者と自分の間に、明確な線を引く人間だ。
しかしノイズのメンバーに対しては、それがあまり感じられない。
「ついでに信吾も誘ったらどうだ? 多少の光熱費を負担させても、今よりはいい環境になるだろ」
二人が一緒であれば、音楽談義も盛んになるはずだ。
「それでも男二人だと危ないでしょうが」
「地方から上京してきてるミュージシャンとか、多分紹介できると思うけど」
う~むと考え込んでしまう俊である。
ここで美人との共同生活、などとにやつかないのが俊なのだ。
「月子にはムラっとくるか?」
「いや、月子は大切な仲間だし、人間としては好きだけど、女としては苦手なタイプなんです」
正直な俊であった。
ただ、メンバーとの共同生活、というのは悪いものではない。
特に信吾が一緒なら、作ったフレーズなどをすぐに試せる。
それはボーカルの月子としても同じことだ。
「ただ母の了解も得ないといけないだろうし」
「あの家、お前の名義じゃないのか」
「あの土地と家は、母が父との離婚の際に受け取ったものなんですよ」
父の不貞が原因で、あの頃の父はまだ羽振りがよかったので、普通にあれを母には渡した。
まだ先のことではあるが、話だけでも通した方がいいかもしれない。
それに月子は別としても、信吾を共同生活の人間とするのは悪くない。
いや、生活習慣が違いすぎると、やはり困ったものになるのかもしれないが。
目の前の悩み以外に、どんどんと未来の悩みが重なっていく。
それでもフェスの日は近づいてくるのであった。
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