第53話 Beat

 コードやスケールというのは結局、自分で憶えるしかない。

 ただ憶えやすい順番というのは、それなりにある。

 鳴らせる音が多くなってから、弾ける曲を多くするために、コードを完全なものにしていく。

 最初は完全ではないなら、弾ける音のみを弾いていけばいい。

「ヴァイオリンの諺らしいんだが、左手は努力、右手は才能といって、元々不器用な利き手と逆の手は、努力の余地が随分とあるそうだ」

「アキは?」

「あれは……英才教育ともちょっと違うな」

 生まれついての芸の鬼、とでも言うのだろうか。

 何者にも優先して、ギターを鳴らすことを己に強いている。

 ギターを弾かなかった日が続いて、体調が悪くなってしまうなど、性欲よりもよほど強いギターへの依存と言えるであろう。


 まず弾けるという状態があって、後からその理屈を学んでいった。

 まあ習うより慣れろ、というものであるのかもしれない。

 凡人の俊の場合は、まずコードを弾けるものから順番に憶えていった。

「人によって指の器用さは違うから、どれが難しいとかはなあ。まあFコードはだいたい難しいとか言われるけど」

 そう言う俊自身は、普通にFコードも弾けるようになった。

「あの、あたしひょっとして、ギターの才能はなかったり?」

「歌の才能に比べたら、確かに少ないかもしれない。けれど俺はそれなりにギターをやって、それでもしょぼかったからなあ」

 千歳からすると、俊も充分に上手いと思える。

 ただそれは、幼少期にやっていたからであろう、と言われる。

「子供の上達は早いし」

「やっぱり高校からでは遅いのかな?」

 そんな千歳の愚痴に対して、俊は少しだけ厳しいことを言う。

「それで大学に行ってから始めたら、せめて高校時代からやっておけば良かったって言うのか?」

 やってしまった後悔は、まだしも未来に活かすことが出来る。

 だがやらなかった後悔は、ひたすら無駄な執着を残すだけだ。

「明日以降の自分を考えれば、今日の自分が一番若いんだ」

 いつかはやらなくては、いつかは踏み出さなくては。

 だいたいそのいつかというのは、今なのである。


 この日、千歳は初めてリハの前から、ライブの全ての過程を経験する。

 照明チェックから音響チェック、実際のサウンドのチェックにリハーサル。

 ワンマンであればたっぷりと時間を取れるが、対バンの入っているライブであると、順番に素早く行っていかないといけない。

 リハーサルの後、再度の調整。

「めっちゃ忙しいんだけど!?」

「あたしも最初は思った」

「アイドルのステージとはかなり違うよね」

 などと女子三人は言っているが、俊と信吾、さらには西園が多くの経験を持っているため、相当のスピードで終わらせることが出来ているのだ。


 トリのノイズは、撤収に時間をかけてもいいだけ、まだ楽かもしれない。

「とは言ってもうちは俊が色々こなしてくれるだけ、まだマシなんだけどな。インディーズの間ならファンがローディーやってくれたりすることもある」

「ローディー?」

「機材の運搬とか設置とかするの、メンバーだけだと大変だろ? それを助けてくれたりするメンバーだな。普通に仕事としても成立してるけど、売れないバンドだと知り合いに頼んだりもする。まあうちは今のところ、俊が色々やってるけど」

 ライブハウスでも、ドラムセットが最初から置いてあるところもあれば、自分たちで持ち込まなければいけないところもある。

 対バンの場合であると、最初から店内のセットを使え、という場合も普通にある。


 千歳はこの間のライブは遅刻しているため、こういった普通の手順も知らない。

 だが誰でも最初は初心者なのである。

「あ~、そういえば言ってたかも」

「アキなんかも、けっこうセッティングに時間かけるタイプだしな」

「何もしなくても凄いと思うんだけど」

「いや、それはそういう環境で聞いてるからで、ライブハウスでの音はまた違うんだ。とりあえず今日は、アキの音を良く聞いておけばいいと思う」

 千歳はまだ、二曲しか歌っていない。

 打上花火はどちらかというと落ち着いた曲で、月子の後に入っていくことが出来た。

 その前は、暁のギターに導かれ、背中を押されるように歌った。

 今日もまた、ステージの上には仲間たちがいる。

 凄い仲間の中で、圧倒的に自分が一番下手くそ。

 それでも千歳は、必要とされているのだ。




 誰もが何かになりたい。

 その何かを見つけることが出来た者は幸いである。

 ほとんどの人間は、方向性のない欲求だけを持ったまま、漠然と生きていく。

 何かを見つけた者であっても、その何かになれるとは限らない。

 ほとんどの人間の人生は、妥協と惰性と打算の流れで消費される。


 千歳は自分が、特別な人間だなどとは、特に思ってもいなかった。

 変な欲求を持つこともなく、両親がいて友達がいて、それなりに楽しいことでいっぱい。

 それで満足できなくなったのは、当たり前のようにあった幸せを奪われて、それから考えるようになったのだ。

 あの日、高速道路のサービスエリアで。

 自分一人がトイレのために、車の中から出たのだ。

 そして戻る時に、見てしまった。

 トラックに押しつぶされて、車ごとぺしゃんこになる両親の姿。

 はっきりとは見えなかったのは、幸いであったと後には言われた。

 千歳は両親の遺体を、確認していない。

 とても見せられるようなものではないと、警察の人が言っていたのだろうか。


 あの時からしばらく、千歳の時間は止まっていた。

 そして自分の人生が、どうしようもない力によって、流されていくのを感じた。

 祖母が引き取ると言ってくれたが、そのためには合格した高校から、少し遠いところに引っ越すこととなる。

 そこへ手を伸ばしてくれたのが、親戚とは没交渉であった、叔母の文乃であったのだ。

 本名は文子であるが、どのみちフミちゃんと呼んでいるので変わらない。

 数少ない友達からは、タカさんなどとも呼ばれていたが。


 元のマンションと文乃のマンションは、かなり近い距離にあった。

 それなのに交流がほとんどなかったのは、文乃が普通に説明してくれた。

「私は姉と仲が悪く……いや、私が一方的に嫌っていたからかも」

 引き取った千歳に対して、そんな正直なことを言う。

 中学三年生であれば、ある程度大人扱いすべきだ、というのが文乃の価値観であるらしかった。


 文乃のことを母は、あまり口にしたことがない。

 ただ小説家である、とは言っていたものだ。

「小説家になんて、なれるはずがないと言っていたのだけれどね」

 母は歌手になりたかったそうだ。

 それを諦めた人間にとっては、一見して自分のやりたいことをやっている、特別な人間は羨ましかったのかもしれない。

 そこで姉妹の間で、お互いに対する悪感情が生まれてしまったとしたら、それは母の方が悪いと思う。

「姉は私に、変なものばかり書いていても、まともな人間にはなれないと言っていた」

 文乃はまるで遠慮なく、そんなことを言ったものだ。

 ただ彼女は甘やかしはしないが、千歳を個人として尊重する人間ではあった。

 なのでこんな、本気で音楽で食べていこうなどというバンドに参加するのも、止めはしなかったのだ。


 両親を失って不幸な自分が、叔母は小説家などという特殊な職業なのだから、何か自分にもあってもいいのではないか。

 そう思ったとき、初めて自分にはなりたいものなどないと気づいた。

 あるいはそれは、幸福であったのかもしれない。

 普通に生きているだけで、楽しいということ。

 凡人が一般的であるこの世界の中で、凡人として生きるのが苦痛でないこと。

 しかし千歳は、奪われてしまった。


 両親が死んで、叔母が小説家で、それなのに自分には何もないのは、不公平な気がした。

 考えすぎであるのだろうが、そう思ってしまったから、高校生になって軽音部に入ってしまっていた。

 ライブハウスデビューを、まだ稚拙なギターの自分が指名された。

 もっとも期待されたのは、ギターではなく歌の方であったが。

 かつて歌手になりたいと言っていた母の願いが、自分を通じて実現するかもしれない。

(なんだか……変な気分)

 本気でプロを、現実的に目指している仲間たち。

 月子と西園は違うが、それでもプロ級の腕ではある。

 そんな中で千歳だけは、稚拙なギターを弾きながら、歌で一点突破しなければいけない。

「おし、そろそろだな」

 今日は五曲に、アンコールを含めて一曲。

 かなりの部分を千歳に歌わせる、という構成になっている。




 初めての時は、むしろ客の様子を観察する余裕などなかった。

 だがそれがかえって、千歳には良かったのだろう。

 今日はノイズを目当てに来ている客がかなりの数になる。

 そんな中で、自分がメインボーカルを歌う曲が多い。

 もちろん上手くいかなければ、すぐに月子がフォローするようになってはいるが。


 CLIPのハコはおよそ50人ほど。

 ただここはスパイラル・ダンスと違って、普通のハコではある。

 高校生に対する優しさなどはない。

 ステージの上から、オーディエンスの顔が見えている。

 そして千歳の存在に、疑問を抱いているような顔もある。


 そんな中で、俊のMCが始まった。

『どうも、ノイズです。まずは新しい、メンバーの紹介をします。ギターボーカルのトワ』

 ノイズのメンバーは基本的に、俊と信吾はスタイリッシュなカジュアルにまとめて、月子はドレス、アキラがTシャツとジーンズという格好になっている。

 はっきり言ってファッションに統一感はない。

 千歳も好きにしろと言われて、ワイシャツにワイドパンツという普段着の外出着ではある。


 千歳はペコリと頭を下げ、そして他のメンバーが紹介される。

『一曲目は、初めての洋楽カバーからです』

 千歳自身の選んだものではあるが、心臓が飛び出そうな緊張感がある。

 俊が自分のギターを持って、ギター三本という編成になる。

 そして暁が、ギターにエフェクトを盛大にかけて、キュイーン、キュイーンと鳴らし出した。

 ここからは、千歳が言う手はずになっている。

『マイケル・ジャクソンのBeat It!』

 ドラムが軽快な音を立てる。

 そして俊が最初の主旋律を弾き始める。

 そこに暁が、さらにギターを被せていった。


 千歳が歌い始めると、オーディエンスは乗ってきた。

 ただ暁のギターが、それを引き出しているようには感じる。

 また月子が上手く、コーラスとバックコーラスを歌っている。

『Beat It!(Beat It!) Beat It!(Beat It!)』

 ギターソロの部分は、暁の独壇場となる。

『OH!』

 そういった掛け声にも感じる部分を、暁と信吾が声を入れている。




 Beat Itはあの、世界で一番売れたともいわれるアルバム、スリラーからの三曲目のシングルカットされた曲である。

 そのMVはウエスト・サイド・ストーリーをモチーフとしたもので、マイケルのダンスと共にストーリー性も高く評価されている。

 踊れる曲としては、世界の歴史でもかなりトップに近い位置にあるだろう。

 リズムギターが鳴らされる中、リードギターの旋律が奏でられる。

 ここを担当しているのがヴァン・ヘイレンだというのだから、贅沢なものである。


 千歳はギターは何度もミスしたが、俊のリズムと暁のリードギターによって、ほとんどそれは目立たなかった。

 ライブの生音なのだから、ミスしても当然とは言わないが、ミスを恐れていては人は成長しない。

 上手くなるまで練習していたら、いつになったら人に聞かせられるようになるのだ。

 少なくとも千歳の歌は、その熱量を届けることが出来た。


 俊は月子と千歳の声には、明確な違いがあると思っている。

 それは表現力の絶対値と、表現の幅の問題である。

 聞かせる曲の場合、月子の歌はとんでもなく高い場所にまで到達する。

 ただしその表現力は、ある程度ジャンルが限られている。

 たとえばラップなどでは、全くその力は活かされない。

 タッチなどを歌わせた時も、むしろ千歳の方が向いていた。

 もちろんこれから、まだまだ上手くなるのだろうが。


 千歳の魅力は、その表現の幅が広いことだ。

 夢見る少女じゃいられないと歌った後に、打上花火を歌うことが出来る。

 そしてタッチを歌うときは、かなりアイドル寄りの歌声にもなる。

 器用な歌い方とも言えるが、単純に器用なのではなく、その絶対値が高い。

 ある分野では、圧倒的に月子の方が上なのだが。


 一曲目は、上手くフェードアウトしていく部分をアレンジして終わらせている。

 これまでずっと邦楽を歌っていたノイズであるが、千歳の加入で洋楽も歌うこととなった。

 俊の計画としては、いずれ英語で歌わなければ、世界には届かないだろうとは思っていた。 

 もっとも月子が歌うようになるのは、もっと先であろうと思ってもいる。

 月子は歌詞の意味を消化して、解釈して、しっかりと表現するタイプなので。

 だからこそ、その歌の深みは、向いている曲を歌う限りは千歳よりも上手いと言える。

 この二人のボーカルは、互いにいい影響を与えるだろうと俊は思っている。


 世界中で知られている曲が終わった。

 そして次も千歳のリクエストした曲であるが、こちらは相当にマイナーであろう。

 もっとも何度か、カバーされてはいる。

 あと曲自体は、かなりいいと俊は思った。


 一曲目が終わって、千歳の緊張も取れてきたことだろう。

 二曲目はドラムから始まる。

 千歳と西園、そして暁の視線が交差する。

 そしてライブハウスの中を、青い光が走った。

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