第45話 夢見る少女じゃいられない
香坂千歳は、子供の頃から周囲から「ちーちゃん」とよく呼ばれていた。
ただ両親は、記憶にある限りにおいて、千歳としか呼んでいなかった。
なんでだろう、と今なら少し思ったりする。
つまらない答えが返ってきそうだが、あの母なら少しこだわっていたのかもしれない。
(気づけばパパとかママって呼んだこともなかったしなあ)
そう思いつつも、病室を出る準備をする。
「じゃあ、明日必要なもの持ってくるね」
「貴方は色々あるでしょう。私が準備をするから」
「フミちゃん、お祖母ちゃんの家のこと分かるの?」
う、と親とはずっと没交渉であった叔母は言葉に詰まる。
「あたしも夏休みだしさ。それにフミちゃんは仕事詰まってるでしょ」
うう、と痛いところを突かれる。
そして千歳は、ギターを背負って病室から出て行った。
「私が骨折なんかしなけりゃねえ」
「階段を踏み外したって、手すりとか付ける必要があるんじゃない?」
「そうだねえ」
老いた母は、しかし自分のことよりも、孫のことを心配する。
「あれからあの子、泣けたのかね?」
「……一生かけて、消化していくしかないよ」
「あんたは用事はいいのかい? 締め切りとか」
「元々あの子のライブを見に行くために空けてたから」
「ギターなんてどっちもやってなかったのにねえ」
「私の影響もあると思う」
今ではただ一人となってしまった娘の言葉に、老いた母は少し笑う。
「あのぐらいの年齢だと、それはもうきっかけでしかないよ」
「そうかな。でもあの子の中には、ずっとぐらぐらしたものが煮立ってるんだと思う」
その表現の仕方が、文章ではなく歌となったわけだ。
ギターを始めて四ヶ月でライブというのは、早いのかどうかは知らない。
ただ吐き出すものはずっと、もう持っているはずだ。
「ギターはともかく、歌は上手いし」
「上手だったねえ」
久しぶりの、親子の会話をする二人であった。
これは贖罪であり、同時に罰でもある。
普段の生温いものではなく、もっとシリアスな本物を求めてやってきたオーディエンス。
三橋京子はその冷たい視線に晒されている。
わずかに同じ学校の友人たちが、予定調和的に盛り上がってくれてはいる。
だがライブの演奏がつまらないと、ドリンクがよく売れるという。
届いていない、という圧倒的な敗北感。
だがそれでも、やらなければいけないことはある。
(それに、最低限のことはしてる)
リズムギターのはずの暁が、とんでもない存在感を発している。
これでも今日の暁は、最初の演奏の段階から、ずっと第一形態である。
あの日、暁のギターを京子は聞いた。
そしてすぐに、手に負えるものではないと思った。
単に器用なだけの自分とは違う。
それにあまりにもレベルが違ったため、周囲には悪影響があるのでは、とも思ったのだ。
自分に対する言い訳だとは、気がついていたのだが。
二度と部室を訪れなかったことをいいことに、もう一度接触しようなどとは考えなかった。
一つの可能性を潰してしまったと思った。
だから次の機会は、間違ってはいけないと決心した。
それでもこの冷えた空気は苦痛である。
次の機会に回しても良かっただろう。
だが暁がここにいるというのは、完全に偶然なのだが、あまりにも運命的過ぎる。
予定の三曲目が始まる。
そこでようやく、舞台袖に待っていた人影を見つける。
ただ、この冷え切った空気をどうするか。
いや、手段はある。
もっともこれは、やはり他人の力を頼ることになってしまうが。
(どのみち責任なんて取れないんだから、一番誰かが良くなることを考えないと)
一年生の香坂千歳。
普通に軽音部に入ってきただけだが、京子の下にはすぐに、色々な情報が集まってきた。
色々な意味で、普通ではない。
普段はとても普通であるのだが。
三曲目が終わる。
これで暁の出番は終わりである。
香坂千歳がやってきているのには、演奏の途中で気づいていた。
普段であれば全て、自分の演奏に集中していたであろうに。
一人目立つのもなんなので、かなり抑えて弾いてはいたのだが。
少し前の自分であれば、合わせることは出来なかったであろう。
だがバンドの中で、自然と合わせることを学んできた。
ただこのレベルであると、高めあうことには無理がある。
(でもまあ、気楽に弾くのも悪くないか)
あえてもう一度やろうとは思わないが。
短期間であったが、弟子であった少女がいる。
リードギターの位置を京子と交換し、自分は一度退場だ。
そう思っていた暁の肩を、京子が止めていた。
「安藤さん、最後の曲も弾けるでしょ?」
「え、弾けるけど……」
「じゃあリードギターをお願い。わたしはリズムギターが破綻したらそこに入るから」
「ええ?」
ドラムとベースにも話したが、当惑しているのは分かる。
その間に、千歳はステージに移動してくる。
「アキ、どうなってるの?」
「なんだかあたしがこのまま弾くような運びになってるんだけど……」
それは別に、技術的には問題ない。
そもそもリズムギターがなくてもさほど問題ない曲なのだ。
元は京子がリードギターの部分を弾き、千歳がリズムをじゃかじゃかと鳴らす。
別になくても成立するが、音に厚みが出るのは確かだ。
それを暁にリードの部分を弾いてもらい、千歳はギターボーカルとなる。
もしも千歳がとちるようなら、もうボーカルだけをやらせればいい。
「貴方たち、知り合いだったの?」
「あ~、クラスメイトで、最近ちょっとギター教えてもらってました」
「それならさらに、合わせるの出来るでしょ?」
二人は顔を見合わせる。
確かに出来なくはない。
舞台袖で、俊はその様子を見ていた。
他のメンバーは、楽屋で出番を待っているが、性格が適度に悪い俊は、見事にハコが冷えていっているのを見た。
ただここまで冷えると、自分たちも大変だな、とは思ったが。
しかしここで交代するはずの、暁が戻ってこない。
先ほど俊の横から、遅れてきたメンバーとやらが、やっと来たのには気づいていたのだが。
俊の視線の先で、少し会話がなされていた。
そして暁がそのままに、演奏が始まる。
(そのまま弾くのか?)
またプランを変えてしまっている。
もっとも暁の負担は、それほどでもないだろう。
今日の彼女はまだ全く本気を出していない。
それにしても、この遅れてきたギターボーカル。
ギターはまあ初心者に毛が生えた程度であろう。
「上手いな」
歌のほうは相当に上手い。
ただ何か、苦しそうに歌っている。
単純にギターを弾きながら歌うのが、まだ慣れていないだけであるのか。
それならもういっそのこと、ボーカルだけにさせた方が良かったのではないか。
(初めてのライブなんだし、もっと気楽に……出来るはずだったのか、本来なら)
高校生向けの、生温いハコで。
ただ京子が無茶を言ってきたので、こんなことになってしまっている。
(まあ普通に、初ライブなんて失敗するものだけど)
ある意味相当の成功であったノイズとは、さすがに一緒には出来ない。
俊も昔は初ライブではいまいちであったし、月子もわたわたしてしまったと言っていた。
初めてのステージで全力を出せたのは、暁だけである。
なんとも生き方がロックである。
自分の責任でもないのに、ギターを弾くことには妥協をしない。
今日は抑えて弾いているが、それでも目だってしまっている。
攻撃的にギターを弾くのは、もう彼女のスタイルのようなものである。
演奏がサビに入る前に、京子が千歳に話しかける。
そして彼女のギターが、リズムの方を弾きだした。
千歳はギターから手を放し、目の前のマイクスタンドにかぶりつくように歌いだす。
喉が広がって、純粋に声量が大きくなる。
だがそれだけではない。
(なんだこれ)
感情が、爆発するかのように襲い掛かってくる。
それまでは背を向けていたオーディエンスが、全員振り返る。
叫びのような、怒りを伴った声が、空間を支配する。
圧倒される周囲の中で一人、暁だけは髪ゴムを外していた。
音を増やし、アドリブをかけて、圧力を上げる。
短いギターソロで、ボーカルに向かっていた注意を一気に、自分に向けさせる。
その暁のギターの圧力に押されて、千歳の声はさらに感情を吐き出す。
下手くそなギターに、歌唱の技術もまだまだ。
しかしそんなものは関係なく、圧倒的な力が歌声にある。
(これを聞かせたかったのか?)
京子があそこまで、千歳を待った理由。
それがこれなのか。
髪を振り乱す暁が、ボーカルと喧嘩するようにギターを鳴らす。
それは衝突して、同時に共鳴もして、ステージをさらに上のランクに上げていく。
月子とは全く違うタイプ。
だが声はまさに、天性のボーカリストに与えられたものだろう。
こんな才能を見せられて、俊としては嫌になる。
しかし同時に感じるものもあるのだ。
『夢見る少女じゃいられない!』
曲が終わることには、冷えていたオーディエンスに、熱気が戻ってきていた。
何が起こったのか。
ノイズのメンバーの待機する楽屋にも、暁のギターの変化は伝わってきた。
演奏の最終盤に、その原因を見に来る。
最初だけは見たが、ノイズを目的にやってきた客は、明らかに興味をなくしていた。
いたたまれない気持ちで、自分たちの再度の出番を待っていた。
しかし先ほど楽屋に顔だけは出した少女が、ボーカルの位置で手を振っているのだけしか見られなかった。
それを見ていたのは、他人の失敗からも見た俊だけであった。
「俊、何があったんだ?」
「全然鍛えられてない、才能だけで歌うボーカルがいたんだよ」
その天才は、汗をかきながらもステージ横に戻ってくる。
若草バンドの、他のメンバーもである。
俊は京子と千歳の二人の肩に手をやる。
「ここで見ていてほしい」
それだけを言って、準備のためにステージに戻る。
セットを再調整して、暖まった会場でオーディエンスと向かい合う。
最初をタフボーイにしていてよかった。下手なバラードであると、自分たちこそが冷やしてしまっただろう。
見れば暁は、既にTシャツを脱いでいた。
星条旗からなるその水着、いったいどこで探してきたのだ?
そして演奏が始まる。
五人体制になってから、初めてのタフボーイ。
だが序盤から暁はマックスで弾きだし、それに他も負けてはいない。
暁がいくら暴走しそうになろうと、ドラムとベースのリズム隊が、強烈な勢いで道を作っていく。
そのラインから脱落することなく、ギターは疾走していく。
空間を爆発させるような、本物の演奏。
やっとノイズが、俊の理想的なものとなった。
そして何が足りなかったのかも、はっきりと分かった。
元々月子には、苦手とする歌の種類があったのだ。
それを捨てるか、あるいは月子の成長を待つか、それともアレンジをするか。
だがやっと分かった。欠けている部分に、合わすべきものがあるのだと。
アレクサンドライトから、ノイジーガールへ。
バラードで一度落ち着かせた会場を、さらなる熱気に持っていく。
そのうちダイブでも出るんじゃないか、と少し心配になるぐらいの。
リズム隊がしっかりしていることにより、俊も万全に自分のパートを厚くしていく。
ボーカルとギターのフロントガールズが、声と音で魅了する。
曲が終える頃には、これまでにない熱狂がハコの中に満ちていた。
おそらくそれには、本物の演奏をこれまで聞いたことのない、高校生たちが混じっていたことも影響するのだろう。
一度楽屋に戻るが、アンコールの声が既に聞こえている。
その中で俊は、若草バンドの二人を連れて、メンバーと一緒に楽屋に戻っていた。
「アンコールで歌ってもらうから、歌える曲を教えてくれ」
「え、あたしが?」
「君を待って、ずいぶんとこっちも無茶をしたんだ。アンコールに協力するぐらいはいいだろ」
「待てよ俊、正気か?」
信吾がそう言うのも当たり前のことで、アマチュアはもちろんプロでさえも、ある程度のレッスンをして合わすのが、常識である。
もっとも楽器であればまだ、飛び入りで楽譜を把握していれば、知っている曲なら弾けなくもない。
ただボーカルは別だ。キーが違えば入り方も変わっていく。
だが俊は、確信がほしかった。
それに別に失敗しても、さほどの問題にはならない。
「歌える曲を」
「夢見る少女じゃいられない」
「わたしが無理」
「え、じゃあ飾りじゃないのよ涙は」
「それも無理」
「え~と、じゃあ新しめのもので天体観測とか」
「歌ったことない」
それが何度か繰り返されたが、やがて千歳の言った歌に、月子は頷いた。
「それなら歌える」
「それこそ待て」
また信吾が待ったをかける。
曲の難易度自体は、演奏はそれほどでもない。
しかしツインボーカルがハモらなければ、ものすごく寒いことになるだろう。
それに電子音でフォローしている部分も多いはずだ。
「偶然なことにな、そのうちやりたいと思っていて、俺のPCにはそれが入ってるんだよ」
「……マジか」
西園は、軽く頷いた。
「弾けるが、合わせてもいないものを、ここで出す必要があるのか?」
「俺の直感が正しければ」
俊の返答に、西園はやれやれと頷いたものである。
あと、確認することは一つ。
「月子が女声パートで入って、君は男声パートを」
基本的に甘い少女性のある声なのだが、どこか少年らしさも感じる。
それが千歳の声で、本来ならこの曲は、女声パートを歌うべきではとも思う。
だがさすがに、最初は月子から歌い始めるべきであろう。
話の急展開に、千歳は京子を見る。
「行ってきな。わたしが保証するし、失敗したら代わりに謝ってあげるから」
そして千歳の背中を押したのであった。
俊の視線に気づいて、京子は頷く。
(ギターの音を増やすことも考えたし、それも間違いではないんだろうけど)
俊が求めていた、最後のピース。
コーラスや曲によってリードを変更する、ツインボーカル。
ギターが下手なのは練習すればいいが、声の質と表現力は、天性のものと人生経験がものをいう。
彼女の声には、どうしようもない怒りが含まれていた。
そんな声で、この曲は歌えないのだが。
(まだアマチュアの今、失敗なんて怖がっていられない)
俊は周囲が思っているよりはずっと、博打をするタイプの人間であった。
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