第33話 望まぬ道

 月子は難しい漢字はおおよそ読めない。

 なのでこの場合、絶対に暁は離れられない。

 基本的に月子は、頭が悪いわけではない。

 ただ判断に間違いが多いのは確かなのだ。

 とりあえず食事でも、と言われて誘いに乗ってしまうあたり。

「アキちゃんも一緒でいいですか?」

「う……お姉さん給料安いけど、奮発しちゃう」

「ラッキー! 一食浮いた」

「あ、あたしは自分で払います」

「遠慮しなくていいのよ?」

「そうじゃなくて、下手に奢られるとそれで相手に借りが出来るので」

「え? だってこの人はわたしの時間を取って話をしたいって言ってるんだから、その分の食事代ぐらいは出してくれるんじゃないの?」

「……」

 これについては、おそらく月子の方が正しい。


 月子は基本的に、正社員ではないが社会人ではある。

 自分の時間による労働で、収入を得ている。

 そんな月子の価値基準からすると、自分の時間を使うというのは、対価が発生して当たり前となる。

 これは俊が、月子の活動にしっかりと金を払っていたからこそ、余計に浮かんだ発想であろう。

「ツキちゃんはそうだけど、あたしはいいよ。帰ってからご飯は食べるし」

 そんな暁の顔を、スカウトはまじまじと見る。

「貴女の方も、どこかで見たことがあるような……」

「さっきステージの奥でギター弾いてましたけど」

「それ以前に……気のせいかしら?」

 ひょっとしたら、ノイズのライブを見ていたのだろうか。

 それなら逆にもっと印象に残っているはずだ、と思う暁であるが、実際のところ今日の暁はアコギバージョンということでスカート姿。

 レスポールを使う姿とは、印象がかなり違うのだ。


 ともかくファミレスに、月子は連れられていった。

 そこで遠慮なくカロリー高めの注文をする。

 歌って踊るとカロリーを消費するのだ。

「ちょっとお手洗い」

 注文だけ先に済ませて、暁はわずかに席を外す。

 そして緊急事態ということで、俊に電話をかけた。


 俊はあまり電話番号は教えない人間だ。

 ただ月子や暁には、緊急事態に備えて教えてある。

 今がその時だ。

『もしもし』

「俊さん、今スカラベの近くのファミレスにいるんだけど、ツキちゃんにスカウトが接触してる」

『スカウト? 事務所かな、それともレーベル?』

「アルファベットでABENOっていうところ。A&Rの名前も阿部っていう名前だった」

『ABENO……一応大手メジャーのレーベルではあるな。目立ったアーティストだと……サブマシンガンズとかかな』

 いわゆる和製ロックバンドの名前を俊は挙げた。


 暁は基本的に、尖った音楽が好きだ。

 サブマシンガンズは、新曲が出たと言われても、記憶にすら残さないバンドである。売れてはいるようだが。

「あたしはどうすればいいかな」

『まず会話を録音しておくのと、月子が何か約束しようとしても、契約があるから確認しないといけない、と邪魔をしてくれ。俺も今から行く』

「今から?」

 確かに俊の家からなら、20分ほどで来れるだろうが。

『また近くに行ったら、今度は月子の方に電話する』

 そして電話が切れる。


 月子は必要だ。

 彼女がいなくなれば、俊と暁だけではノイズは成立しない。

 新しいボーカルなど、今さら見つけられるとも思わない。

 いや、月子以外とやっても、これ以上のものが見つかるとは思えない。

 だけど、誰かとセッションする快感からは、もう逃れられない。

 暁は巨大な使命感を胸に抱いた。




 月子は不安定な人間だ。

 人間との距離の詰め方も、かなり独特と言うか、友達のいないという点では、暁の方がよほど問題があるだろう。

 しかし少しでも仲良くなってしまうと、一気に距離を詰めて来るところはある。

 だが男性に対しては、かなりの苦手意識もあるようなのだ。

 基本的には、人間には不信感を抱いている、と暁は思っている。


「お待たせ。何か話した?」

 ぶんぶんと横に顔を振る月子。

「それでまあ、私は新人の発掘から育成、マネジメントやプロデュースまでも一定のところまでするのが仕事なんだけど」

「あ、そのあたりは知ってます」

「もしかして、誘いを受けたことある?」

「あれは誘いじゃないよね?」

「誘いたがってはいたけどね」

 斉木はメジャーデビューするなら絶対にうちから、と最後には俊に念を押していた。

 音楽性にはこだわるが、大衆にも受けなければいけないと考えるのが俊だ。

 そのこだわりが、これまでの作曲のジャンルの多さになっているのだろう。


 上手くできたものは、サリエリの名前で発表。

 実験的過ぎるのはサーフェスで。しかしそちらの方が伸びている曲もある。

 あとは適当なおものもサーフェス名義ということで、結局こちらの方が発表している曲はずっと多く、そのために累計再生数は同じぐらいになっていたりもする。

 俊はまず、圧倒的な地盤を築くことを目的としているらしい。

 その地盤というのは、純粋なファンの数だ。

 そして様々なジャンルに対して、受け入れてくれる土台を作っておかなければいけない。


 会社の音楽性に合わせない。

 自分たちの音楽をやる、というのが俊のこだわりだ。

 もっともそれで、カバー曲を嫌ったりということもないのだが。

 俊は月子の能力に合わせて曲を作っている。

 暁の力は、月子の力を高めるものだと考えているのだと、暁にもなんとなく分かっている。


 俊が彩に向けて言った、二年で超えるという台詞。

 さすがにそれは無理じゃないかな、と暁は思っている。

 だが五年あれば。

 月子がこのままボーカリストとしての資質を開花させ、メンバーがちゃんと揃えば。

(あたしが21歳で、ツキちゃんが23歳、俊さんが26歳で日本のトップって、かなり凄いんじゃない?)

 それにおそらく、俊は才能が長く生きるタイプだ。

 本人は自分に才能はないと言っているが。




 ともあれ既に接触があると知って、向こうの態度も変わったようである。

「ミキさんは既に高い歌唱力を持っているけど、うちならさらにそれを高めていけると思うの。前にどういう話があったかは知らないけど、うちなら音楽に打ち込める環境を提示できるわ」

 そこまで聞いて、月子は首を傾げる。

 だが料理が運ばれてきたので、それに集中する。

 月子は普段から、食事に関しては倹約生活を送っている。

 自炊が基本であり、外食などはほぼしない。

 コンビニ弁当すら贅沢な彼女にとっては、ファミレスでの食事はご馳走なのだ。


 嬉しそうに食べる月子。

 暁は前に一度見ていたが、月子は食べ方が綺麗だ。

 厳しく育てたという祖母が、おそらくそう教育したのであろう。

 食べ方というのは、賢さがある程度は出る。

 やはり彼女は、祖母からもある意味、愛されてはいたのだ。

 ただそれを感じられないのは、悲しいことであろう。


 阿部が話している間、月子は時々頷いていたが、食事に集中していた。

 そしてそれを終えてから、阿部に質問する。

「わたしをスカウトということで、メイプルカラー全体というわけじゃないんですね」

 当たり前ではないか、と阿部は表情で答えた。

 だが暁は知っている。月子は言葉にしないことを読み取ることが苦手なのだと。


 わざわざ一人の時に接触してきた。

 それだけである程度は、推測できるものだ。

「阿部さんは、ツキちゃんをソロのシンガーとして売り出したいんですか?」

 月子の代わりに暁が質問する。

「ええ、彼女の歌には完全に、そのポテンシャルがある。アイドル売りよりもそのビジュアルを活かした売り出し方があるはずよ」

「多分、ここ最近のツキちゃんを見てのことだと思うんですけど、それだと失敗します」

 暁は断言し、それに月子も頷いた。

「それは、どうしてかしら?」

「今のツキちゃんの力は、ツキちゃんだけのものじゃないからです」

 阿部の目が、すっと細められた。


 怖い目だな、と暁は感じる。

 だが事実は事実だ。

「ツキちゃん用に曲をアレンジしたのも、ツキちゃんのために曲を作ったのも、それに今のツキちゃんが成長しているのも、ツキちゃんだけの力じゃないからです」

「メイプルカラー以外にやっているとは、向井さんから聞いてはいたけど」

 社長にまで話しているのか。いや、こういうことは確かに、先に周囲から攻略していくのもありなのかもしれないが。

 なにせ地下アイドルであるのだし。

「向井さんからは詳しく聞けていないのだけど、他にも活動をしているの? たとえば……歌い手とか?」

 その通りであるが、あまり情報を与えすぎるのもどうなのか。


 月子が動けず、暁も答えに詰まる。

 だがそこで、月子の携帯が振動する。

「あ、ちょっとごめんなさい。あれ?」

 受信した月子は、向こう側と会話する。

「あ、はい。スカラベから西に200mぐらい行ったところのファミレスで。え、そうなの?」

 それで会話は切れてしまったらしい。

「なんだか俊さんが来るって言ってるんだけど、なんで?」

「さっき、あたしが連絡したから」

「え、ああ、なるほど」

 こういうことに関しては、俊がいた方がいいとは、月子も判断出来る。

 阿部が説明してほしそうな顔をしていたので、暁も伝える。

「もうちょっとでうちの代表が来ますので」

 そう言った瞬間、ファミレスの自動ドアが開く。

 走って来たのか、肩を上下させる俊が、店の中を探していた。それに対して暁が手を上げる。




 いつかは来ると思っていた。

 そして今はまだ、そのタイミングでないとも思っていた。

 店員の案内も断り、座席に向かう。

 座ろうと思ったが、そこは四人席である。

「ほい」

 暁が場所を譲り、阿部の隣に座る。

 そして俊が月子の隣に座ったため、阿部は逃げることが出来なくなった。別に逃げる必要はないのだが。

「どうも、主催の渡辺です」

 局面が変化する。


 事前の情報から知らない状態になって、阿部は少しだけ混乱した。

 だが俊の「主催」という言葉が鍵になる。

「ミキさんはつまり、他の音楽活動もしているということで、いいの?」

 先ほどの質問と同じであるが、俊はどう答えていいのか、自分なりの答えを持っている。

 そしてそれ以前に、確認したいこともある。

「阿部さんでしたか、あなたは月子……ああ、ミキをソロで売り出したいんでしょう? メイプルカラー全体ではなく」

「ええ、前から注目はしていましたけど、今日のパフォーマンスを見て確信したわ。彼女ならいずれ、日本のトップクラスのディーヴァになれる」

「月子、一人でデビューしたいか?」

「わたしは、メイプルカラーのミキだよ」

 このあたり月子の意識ははっきりとしていて、また俊にとっても面倒な部分であるのだ。


 阿部もおそらく、価値観は俊に近い。

「地下アイドルで歌っても……その、食べていけないんじゃない?」

 言葉は選ぶが、阿部もアイドル蔑視というか、少なくとも地下アイドルには未来などないと考えている人間だろう。

 実際にそこから成功する道は険しく、特に事務所もほとんど形だけで、強力なバックアップがあるわけでもない。

 アイドルフェスにでも出て、メジャーから声がかかるのを期待、というのが楽観視した未来だろうか。

 だがメイプルカラーにそこまでのポテンシャルはなく、いずれモラトリアム期間が終わるのは分かっている。

 その時にこそ、やっと月子を引き抜くことは出来る。

 そしてその時は、月子が活躍すればするほど、実は近づいてくる。


 俊としては自分が、人の悪い人間だなと思わないでもない。

 だがこの未来は、自分がいなくても似たような形で出てくるものなのだ。

「食べていくだけなら、普通の仕事をした方がずっと簡単でしょう。月子はやりたいメンバーとやるからこそ、意味があると分かってるんだ」

 俊はそう言うが、実際には月子が普通に生きていくのは、ひどく難しいものだ。

「けれど……それなら貴女は彼女をどう扱っているの?」

「アルバイトの歌い手だな」

「なんという名前で?」

「答える義務はないが、一つ言っておくと、今はもうメジャーから声がかかって喜んでデビューするという時代じゃない」

 もちろん俊としては、いずれメジャーの力も使わなければいけないとは分かっている。

 だがそれは、今ではないのだ。まだ実力も知名度も、それに何よりメンバーが足りない。


 そこに店員が注文を取りに来たので、俊はそれを断る。

「すみません、もう出ていきますんで。とにかく今の月子には、メジャーの声がかかっても意味はないんですよ。それじゃあ」

「ちょっと待って! せめてどういう活動をしているかぐらいは教えて!」

 まあそうだろうな、とは俊も思う。

 それにこれは、新たな人脈とはなると思うのだ。

「今度、マーキュリーでノイズという名前でライブがありますんで」

「マーキュリー……」

 名前は知っているが、あそこはロック系のハコであったはずだ、という知識が阿部にもある。


 それ以上は引きとめようとはしない。

 だがノイズという名前が分かっただけでも、今なら色々と調べることが出来る時代だ。

 下手に悪印象を残さないように、ここは動かない阿部であった。

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