第23話 彼女たちの事情
月子にとって今は、両親を失ってからでは、一番幸福な時間かもしれない。
確かにアルバイトを掛け持ちし、アイドル活動と歌い手としての活動、二つをやっている大変さはある。
だがまともに教科書が読めず、クラスの中でも馬鹿にされていた、あの頃とは違うのだ。
叔母のマンションに同居していた時も、虐待などをされていたわけではない。
もっとも叔母は小説家らしさというか、エキセントリックな部分を多大に含む人間で、月子を研究対象のように見ていたのも確かだ。
彼女のパートナーとの関係などを見て、自分も独立しないといけないな、とは思っていた。
かといってある程度の人間関係もあり、また故郷の淡路が比較的近い京都ではなく、東京に出てきたのは月子にも夢のようなものがあったからだろうか。
最初から、やり直して生きてみたいという、夢と言うよりは願望のようなものが。
自分にはハンデキャップがある。
だがこれは比較的軽度のもので、そして自分や周囲が思っているよりずっと、知能は高いのだと診断された。
もっとも、それでも人間関係の距離感を測るのは難しかったが。
それは人の言葉から、より多くの意味を読み取ってしまうからだろう。
(ここでは必要とされている)
音楽の譜面は問題なく読めるのが、不思議に思ったこともある。
しかしディスレクシアはその現れ方が、人によって相当に違うのだ。
発達障害だと言われても、生きていかなくてはいけない。
本をほとんど読めない月子は、主に耳から情報を得る。
そして文字から何かを読み取るのが難しければ、ひたすら聴き続けるしかない。
その結果として、より優れた耳を手に入れたし、声には情報だけではなく感情が乗ることを知っている。
また特別な声を持っている人間がいることも、よく分かっている。
どうやったらその声になるのかも、なんとなくは分かっていた。
今の自分は幸福だ。
月子は本当に、そう思っている。
メイプルカラーという場所を得て、そしてさらに月子を評価して相棒としてくれる、優れた作曲家がいる。
だが本当に何か、絆めいたものを感じるのは、暁に対してだ。
ギターでまるで歌っているように、自分を表現する暁。
彼女と出会ったことで、自分の中からまださらに、音が生み出されていく。
明らかに歌える楽曲の範囲が、彼女によって広がった。
暁のような存在をこそ、まさにリードギター、あるいはギターヒーローとでも呼ぶのだろう。
「よいしょ」
物があまりない、四畳半のアパートに戻ってくる。
電気代を節約するため、夏場などは特に、あまり部屋にいることはない。
さすがにパソコンを動かす程度の電気は、使うしかない。
出来れば公共施設で充電でもしたいのだが、さすがに迷惑になるだろうし、このパソコンはバッテリーが死んでいる。
俊がくれたこのノートの中には、色々な音楽も入っている。
月子と知り合ってから俊は、多くの音楽的知識を授けてくれる。
だが一番重要なのは、実際にその音楽に触れることだ。
俊はたびたび、売れるための手段などを、冷静を装って話すが、本心でないことは分かる。
彩のことを話す時などは、負の感情が声に混じる。
だがこの渡された音源の中には、彼女のメジャーデビュー初期の楽曲も含まれている。
つまるところ、あれである。
よくファンの中にいる、初期の方が良かった、という困ったちゃんなのだろう。
(わたしが、この人のところにまで届く?)
音楽というのは、勝ち負けとは違うだろう、と月子は思っている。
もちろん売り上げや再生数などで、その数を比べることは出来る。
(けれどそもそも、全然違うから……)
彩はその低音が甘く響いていく歌手。
だが月子は、明らかに高音で勝負する声の持ち主だ。
まだその正体が全く分かっていないkanonという存在は、今は考えても仕方がないだろう。
俊がプロというか、音楽を仕事としていきたいと考えているのは間違いない。
自分は今のところ、それの協力者となっている。
顔出しをしていないのは、月子の都合ではある。
ただ今のネットの歌い手は、顔を出していない人間や、また中の人というのが多いらしい。
自分がこれから、どうやって生きていくのか。
月子は本当に、目の前のことしか見えていなかった。
メイプルカラーとして、少しでも多くのお客さんに見てもらう。
それが精一杯であった月子には、遠い未来を見て歩んでいる俊の姿は、ちょっと鮮烈であった。
また暁は、それとは全く別の存在である。
ギターで生きていきたいから、プロにならざるをえない。
あんな方向の考え方を、自分はしていなかった。
俊がくれた音源データは、ある程度のジャンルに分かれてフォルダ分けされている。
洋楽邦楽というざっくりした分け方ではなく、ジャズやR&Bといったものもあるし、フォークもある。
これを聴いているだけでも、果たしてどれだけの時間がかかることか。
その中には、俊が勝手に選んだらしいオススメフォルダや、歴史的な曲のフォルダといったものもある。
よく俊は難解な音楽、などという言葉を使っていた。
聴いてみれば洋楽の中には、ひたすら同じメロディーラインをたどっているだけ、というものも少なくない。
ダンスミュージックなどは、典型的なそういうものだろうか。
もちろん全てではないが、同じメロディーを永遠に続けられそうなものもある。
(ビートルズにもこんな曲があるんだ)
名前は誰でも知っているし、教科書にも載っているし、何曲かは必ず聴いたことがある。
それがビートルズであるが、知らない曲も多くある。
また聴いたことはあるが、ビートルズであったとは知らないものもあったりする。
俊は知識は凄いし、確かに歌う上で理解しておいた方がいいものはあるとも思うが、頭でっかちなところもあると思う。
ただ本人がそれを高言しているあたり、そんな頭でっかちな自分さえ嫌っているのだろうか。
ロックの歴史などを説明すると、商業ロックに対しては、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
商業主義に陥りすぎた音楽は、何かを伝えるパワーを失う。
だが商業として成立していなくては、音楽を続けていくことは出来ない。
(アイドルとして、売れたいのかな?)
あまりそこまで、考えていなかった。
本当に、先のことなど考えず、歌っていたのだ。
ただここ最近、メイプルカラーの活動は変化している。
月子のボーカルパートが多くなって、それ自体は嬉しい。
だがメイプルカラーというグループの根本がそのものから、変化していきそうで怖い。
(あ、この曲)
ポップスの曲なのに、三味線の音が聞こえた。
月子は三味線ケースの中から、自分の太棹を取り出す。
(まだ遅い時間じゃないし、少しだけ)
奏で始める月子は、自分が自分から音楽の方へ歩み寄っているのには気づかなかった。
疲れた体を引きずって、暁は自宅に辿りつく。
本日も父は出張のため、作り置きの食事を温めている間にも、ギターを手にする。ただこれは父がリビングに常に置いてあるアコースティックギターだ。
今日の練習をしていて、暁は自分に欠けている部分を、散々に感じていた。
それは他人とセッションするという、経験そのものだ。
父と一緒に弾いたときなどは、あちらがこちらに合わせることもあったし、逆に誘導されることもあった。
だがそれは百戦錬磨のミュージシャンを相手としてのことだ。
高校の軽音部で自分が合わなかったのは、もちろん相手の実力不足もある。
だがそんな相手にでも、上手くあわせるべきなのだ。
まともに弾けない下手くそは別として、少なくとも一人は相当の腕前の生徒もいたのだ。
大学のレッスンスタジオでのセッション。
そして今日のレッスンで、自分の問題点に気づいている。
俊は自分のドラムの下手さを罵っていたが、暁のギターも大きな欠陥を抱えている。
そもそもいくらいいセッションであっても、たったの一曲でへとへとになっていては、とても他人に聞かせることは出来ない。
(周りに上手い人しかいなかったからなあ)
俊のドラムも、自分で下手だなどと言ってはいたが、軽音部のドラマーと比べるとはっきり上手い。
それが合わないのだから、音楽として成立させるためには、自分が合わしていかないといけない。
もっとも打ち込みのコントロールによって、今日はかなり強制的に合わされた。
今時はドラムなど、最初から打ち込みのバンドも珍しくない。
リズム隊など機械に任せればいい、という考えもあるのだろう。
だがそれでは、届かない。
それに俊も、走るべきところではしっかりと、BPMを上げてきていた。
彼は暁や月子を誉めていたが、欠けている部分もしっかりと指摘していた。
それは淡々としたもので、二人ならば埋められる、と確信していた言葉であった。
俊は自分には才能がないと言っていたが、それは彼が求めるような才能であって、他の才能はあるのではないかと暁は感じる。
少なくともこの三人の中で、様々な折衝も含めて、知識に秀でてリーダーが務まるのは、彼以外にはない。
月子も自分も、ただ歌うだけと弾くだけしか出来ない。
ライブハウスとの交渉なども、全て俊がやっていた。
もちろんやり方を調べたり、父に聞いたりすることも出来たのだろうが。
自分一人の力で、それがもう出来る。
だから俊はその、スキルを持っているのだ。
派手な演奏の、それ以前の段階。
土台を支えているのが俊だ。
ライブまでの時間は、もうあまり残されていない。
単純に時間がないのではなく、集まれる時間が少ないのだ。
月子はアルバイトで、俊は大学とバイトで、それぞれ時間が限られている。
特に月子は、もう自分で働いて、それで生活しているのだ。
アイドルなどもやっている、と聞いた時には変な顔をしてしまったが。
暁にもアイドルに対する、まっとうな偏見というものはある。
偏見をまっとうと言うのは、ちょっとおかしいかもしれないが。
あれはそもそも音楽ではなく、キャラクターを売っているのだ。
ただそもそもビジネスが絡んだ時点で、どんなものでも売ることが目的とはなっていく。
暁にも、食っていく程度には稼ぎたい、というぐらいの欲はあるのだ。
人はパンのみにて生くるにあらず。
サーカスがないと、人は生きていけない。
ただ本物のロックは、ただのサーカスではない。
元はアメリカの黒人のブルースが源流という、クラシックとは全く違った体系。
明確な定義づけは必要ではなく、暁は自分がギターを弾けば、それがそのままロックになるように音を鳴らしたい。
月子の歌と、自分のギター。
本質的な方向性は違うようにも感じるが、それでも今は共にいることがいいと思える。
食事を終えると、父が準備した小さな防音室に入る。
多くの時間をここで、暁は過ごした。
ヴィンテージのギターが並んでいて、それを好き放題に弾いたものだ。
だが今の月子は、もう他のギターは予備にしか使わない。
黄色いレスポールは、スペシャルなものだ。
工業的に生産されたはずのレスポール・スペシャルに、どうしてこんな物が混じっていたのかは分からない。
だがこれは今の暁の音を、一番正しく響かせてくれる。
一番時間が余っているのは自分だ。
だから自分が一番、たくさん練習すべきだ。
(全力で四曲って難しい)
俊がテンションを落ち着かせる曲を入れたのは、そのあたりの理由があるのだろう。
今のところ俊が、一番このバンドのスペックを把握している。
(最初にノイジーガールをやっちゃうのが、ちょっと惜しい気もするけど)
これは一番、暁も月子も本質を捉えている。
だからこそ最初に、という意図があるのだろう。
二曲目にゴリゴリのハードロック調の曲を入れて、そこから一度オーディエンスを落ち着かせる。
そして四曲目、ラストはゴリゴリにギターのソロがある。
リフにしても暁の好みだ。
(何より海外でもカバーされているのが気に入った)
ギターをうならせながら、暁は疲れを忘れたように、ギターを弾き続けた。
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