第14話 三味線チェリー

 槙子もまた、月子の祖母、つまり自分の母とは上手くいかなかった人間だ。

 兄が旅先で所帯を持ってしまったことや、自分が奨学金を使ってでも大学に入ったこと。

 これらは故郷の空気から、兄も自分も自由になりたかったからである。

 だが母親が悪い人間であった、とは思わない。

 あの土地が、単に田舎であり、そこから逃れようとしただけだ。

 そんな母を看取ったのは、既に両親を失っていた、ただ一人の姪。

 遠い親戚ならばたくさんいても、これだけの近親は、もう互いに一人ずつしかいない。


 月子は不幸に満たされすぎて、そしてさらにハンデキャップを負っていた。

 自分のおかげでどうにか高校を卒業できたなどと言ってくれるが、月子の努力は並大抵のものではなかったはずだ。

 そして小説家などというものをしていると、確かに天才は困難な状況から生まれる、という実例を知ってしまうのだ。

 その10倍100倍の、単に生き辛いだけで死んでいった者もいると、分かりはするのだが。

(どのみちほとんどの人間は、何者にもなれずに死んでいく)

 それを思えば、何かを残せる人間というのは、重要なものではないのだろうか。


 槙子は頼まれていた、大きな箱を渡す。

 一応は槙子も少しは習ったが、月子ほどには仕込まれなかった。

 それだけ祖母も、生きていく力を月子につけるために必死であったのだろうと、今なら思える。

 厳しく見えて、そしてその地域でしか通用しないものであっても、それは間違いなく優しさだ。

 月子に対しては、そのようには言えないが。

「三味線……」

「太棹、って言うんだよな?」

「うん。けどまずは調整を頼まないと。お店調べないと」

 そう言って箱を開けていった月子は、胴体の皮が新しくなっているのに気づいた。

「バラバラだけど、大丈夫なのか?」

「これは運ぶためにそうなってるだけなんだけど……」

「皮の張替えと調整はプレゼント代わりにしておいてあげたよ」

 使われない道具というのは悲しいものだ、と槙子は思っている。


 ギターやベースの常識から、俊は三味線もあれで一体のものだと思っていた。

 さらに言えば弦楽器のヴァイオリンも基本はそうである。

 だが三味線は、こうやってバラバラになっているらしい。

「久しぶりだし、弾けるかな……」

「せっかくだから一曲聴きたいな」

 そう言ったのは槙子であり、う~んと考えるのは月子である。

「このあたりで普通にカラオケボックスはあるけど」

 カラオケ代なども、払いたくない月子である。

「ここは新宿だから、その辺で弾けばいいと思うけど」

「え、でも一応、路上ライブ禁止のはず」

 このあたり、月子は微妙に遵法精神が高い。

 ただそれは道徳観念が高いというよりは、単純に叱られるのが怖い、という体験からきている。


 俊としては、せいぜい注意される程度だと考えれば、特に深くは考えない。

 一応は保護者のような槙子の前で、こんな考えでいるあたり、彼も完全にまともとは言えないところがある。

 ローリングストーンズやレッドツェッペリンが頭にある俊としては、ミュージシャンなど頭のネジが吹っ飛んでいて一人前、という考えを持っている。

 他人に対する無理解、社会性のある程度の欠如など、俊も非常識なところは充分ある。

 ただ非常識であれば、才能があるというわけでもない。

「一曲聞かせて、それで退散しちゃいなよ。私も用事までに時間があるし」

 そして槙子も、どちらかというとアウトサイダーな人間である。生きるのに不器用だ。

「それじゃあ、適当に外で」

 俊に促され、いいのかなあと考えながらも流される月子である。

 このあたり、後にもずっと「いいこちゃん」と言われるのだが、それはずっと先の話だ。




 さすがに人通りを妨げない場所にまで、移動した三人。

 そこで月子は三味線を組み立て始める。

「いつもこうやって運ぶのか?」

「ううん、普段は組み立てた状態で運ぶけど、しばらく使わない時はこうやって保管しておくかな。普通に解体出来ないのもあるし」

「エレキギターとかとはかなり違うんだな」

 ギターはむしろ、弦などを下手に緩めてはネックが反ってしまったりする。

 弦が強く保たれているのを、計算してネックも作られているのだ。

 アコースティックギターなどとはまた違う。

 

 器用に組み立て、弦まで張る月子。

 そして撥を使って、糸巻きを操作しながら音を合わせていく。

(ギターよりはヴァイオリンに近いのかとも思ったけど、それも違うな)

 フレットがないので、そこは確かにヴァイオリンに近い。 

 もっともギターも、いくらでもアクロバティックな使い方はあるのだが。


 音を鳴らしている程度では、視線を送ってはきても、立ち止まる者など一人もいない。

 このあたりはそうでもないが、少し移動すれば無許可の路上演奏をしている者はいくらでもいるのだ。

「何がいいかなあ」

「出来れば知ってる曲がいいけどね」

 槙子も月子の三味線と歌を聞くのは初めてである。

 祖母の、つまり彼女の母の葬式には、確かに三味線つながりの人間が出席していた。

 しかしそこでは、月子をどうするのかということが、本人を目の前にして赤裸々に語られていた。


 知的障害と勘違いされてさえいたが、会話をする限りどう考えても、槙子はそう思わなかった。

 むしろ従順であったがゆえに、自分が引き取ると言ってしまったのだ。

 浅慮だったかとは思ったが基本的にやらない後悔よりやった後悔を選ぶのが槙子だ。

(何を弾いてくれるんだか)

「よし」

 準備を終えたらしい月子は、とても分かりやすいメロディラインを弾き出した。

「チェリー」

 発表されたのはかれこれ30年ほども前であるが、いまだにカラオケでの人気は高い曲である。

 そしてチャンネル開設後、すぐに発表する10曲の中の一つでもある。


 弦の音を合わせるではなく、一音一音をしっかりと弾いていく。

(思っていたより太い音だな)

 俊の事前のイメージとは違った。

 そして月子の声が、空気を轟かせる。

(え)

 槙子が知っている曲を、知っている子が歌っている。

 だがそのレベルが、明らかに素人のものではない。


 槙子は小説家で、間違いなく音楽は専門家ではない。

 ただ小説を書くために、インプットは多くしている。

 基礎的な音楽の教養だの、絵画に対する知識だの、薄く広く知っておけば、いざ小説の題材となった時、深彫りするきっかけになる。

 その薄っぺらい経験で、鳥肌が立っている。

 良く聞いた歌だ。

 だがそれを、こんな風に歌うことが出来るのか。




 引き込まれることを、俊は必死で我慢していた。

 だからこそ俯瞰的に、この状況が分かる。

 月子の歌が届いた、大半の人間の視線が向けられる。

 そのまま歩みは止めない者、そして立ち止まる者。

 本来ジャンル違いのはずの三味線を使って、これだけ空間を変えてしまう。

 レコーディングをした時よりも、さらに声が伸びている気がする。


 最高の録音環境を整えたはずであった。

 しかし今の月子の歌は、それよりもずっと魅力的だ。

 何が違うのか、と俊は考える。

 この歌はレコーディングしたよりも、ずっと「届いている」ものだ。

 そして違いと言えば、聞かせる相手が槙子であるということ。

 音楽は演奏し、歌唱するだけでは完成しない。

 必ずその先に、聞き手がいるはずなのだ。


(聞かせる相手がいると、さらに乗せてくるのか)

 俊などと違い、それなりに長い期間、共に過ごした相手。

 表現力が対する相手に対して、全く違うものになってくる。

(これをコントロール出来るようになったら……)

 本当のシンガーに……いや、ディーヴァになれるだろう。

 ただそこまでの道は、まだまだ険しそうだが。


 月子だけに成長してもらうのではない。

 自分も月子の力を引き出せるように、成長しないといけない。

 そのために何をすればいいのかは、これから考えていくことだろう。

 そんなことを考えている間に、一曲が終わった。

 そして拍手が聞こえた。

(新宿で……人の足を止めたのか)

 10人ばかりの主に若い人が、足を止めて聞き入っていたのだ。

 俊が気づいたのは、そんな人々がスマートフォンでの撮影をしていなかったこと。

 完全に歌に集中して、心を囚われていたということだろう。

(想像以上だ……)

 目を向ければ月子は、慌てて三味線を片付けていたが。




 いずれ彼女は、自分の元からは飛び立っていくのだろう。

 自分が追いつけなくなれば。

「それじゃあ、わたしは」

 またいつものようにぎこちなく笑って、月子は去っていく。

 これからレッスンであると、俊はその予定を把握している。

 槙子ともここで別れるか、と思った俊であったがその槙子が声をかけた。

「青年、用事までにあと少し話そうか」

「あ、じゃあ忘れないうちに、サインください」

 そして俊が取り出したのが、随分と読み込んだ文芸書であったので、槙子は驚いた。


 大学時代に書いたデビュー作であり、これでちょっと大きな賞を取れたから、小説家でやっていくことが出来るようになった。

 色々なことが付随した、思い出深い作品ではある。

「これは……第二版。自分で買ったやつじゃないよね?」

「死んだ父の棚から取って読んでたんです。父は自分の音楽を作るのに、インスピレーションが湧く作品だったみたいですね」

「君の父親も、音楽を?」

「僕よりもずっと、成功した人でしたけどね」

「え、この小説から音楽を作った人ってまさか……でも渡辺って」

「東条は本名じゃなかったんですよ」

「そ……あの人の、息子?」

 頷いた俊に、槙子は考え込む。


 芸術的な才能は、果たして本当に遺伝しないのか。

 遺伝しにくいもの、であることは間違いないだろう。

 ただ親がそういう環境にあれば、その子供も若年から芸術に触れることは多くなるだろう。

 教育は環境が重要だというが、芸術教育にも適用されるなら、確かに俊は英才教育を受けた秀才だ。

「月子には秘密なんだね」

「必要とあれば使いますけど、父は手を伸ばしていた先が広いから、その分敵も多いんです」

「なるほど……」

 これはまた、この青年も複雑なんだな、と改めて槙子は思った。


 サインをしてから、本を返す槙子。

 そして歩きながら、俊に話をする。

「あんなに歌えるなんて、全然知らなかったよ」

「あんなに綺麗に歌えたのは、先生の前だったからだと思いますよ」

「あの子はてっきり、歌うことは嫌いなんだと思ってた」

「強制されてた間は、本当に嫌いだったんだと思いますよ。けれど仲間との関係が、それを癒してくれた」

 その小さな箱庭から、俊は月子を引き出そうとしている。

 罪悪感とまではいかないが、慎重にしないといけないな、という程度の責任感はある。




 槙子は俊に、月子のことを話し始める。

 それはさほど、新しいことはなかった。

 ただ月子が東京に出てきた理由については、少し話してくれた。

「私がパートナーと暮らすのに、自分が邪魔だと思ったんだね」

「失礼かもしれませんが、結婚のお相手が?」

「いやいや。私は結婚に向いてない人間だから、パートナーが変わるだけなんだ。それをあの子は、自分の責任じゃないかと考えてしまってね」

 そういうものなのだろうか。


 芸能人や自由業の人間は、比較的離婚率が高いと言われている。

 それは離婚をしても、経済的に自立出来てしまうからだ、という説がある。

 槙子の場合もそういうことなのかな、という程度に俊は考えた。

 凡人の自分には、小説の才能だけで食っていける人間のことは分かりにくい、という結論である。


 槙子としては俊も、充分に奇妙な作りの人間だと思うのだが。

「あの曲、発表されたら連絡してよ。機会があれば宣伝しておくから」

「ありがとうございます。ただ今は下手に誉められると、逆にアンチが出来てきたりもするので」

「いや、あの曲はかなり特別だよ。門外漢の私にも分かる」

 プロの表現者にそう言ってもらえると、俊としては嬉しくなる。

「あの子をモデルにした歌詞だろ? 世の中を生きていくことの難しさとか、人間関係で心をすり減らすこととか、はっきり分かるよ」

 確かにそれは、俊が表現したいことではあった。

「けどノイジーガールっていうには、ちょっとまだ雑味が足りないかなとも感じたけど」

 なるほど、本物の人間は、そんなことまで分かるのか。

「実はその通りで、あれはまだ本当は未完成なんです。ギターイントロと間奏がしっくり来ないんで、省略してるだけで」

 騒音のような激しいギターを、生音で弾けるギタリストが、俊の想像を超えるようなギタリストが必要になる。


 あれはおそらく月子の言うとおり、バンドで演奏するようなものなのだ。

 ただ普通のメンバーを揃えて練習すれば、それで弾けるというものでもない。

 一応は俊の打ち込みで、また収録はしてみたいものだが。

 夢の中で聴いた曲は他に、特徴的なギターを中心に、ベース、ドラム、コーラス、ストリングスなどがあった。

 そしてあのギターリフを活かすには、少なくともドラムとベースのリズム隊は必要になる。


 プロのミュージシャンの中には、普通に弾ける者はいるはずだ。

 しかし、ただ弾ければいいというものでもない。

 ケミストリーを爆発させるためには、それこそ自分が月子に感じたのと同じぐらいには、インスピレーションを感じさせる人間が必要になるだろう。

「まあ、月子は東京に来てから、人間関係には恵まれているみたいだね」

「そのプラスの人間に、僕が入っていたら嬉しいですけどね」

「青年、君はかなり計画的な人間のようだから、そこは信用してるよ」

 槙子の評価は、ミュージシャンに対するには微妙なものであったかもしれない。




 俊と別れた槙子は、こちらに来た主目的の一つに向っていた。

 出版社の人間との顔通しや、月子の様子を見るというのも、一つの目的ではあった。

 だが一番最初に作られた理由は、戦友との旧交を暖めることだ。

 待ち合わせの喫茶店では、槙子とはまた違ったタイプのユニセックスというか、身なりを気にしていない女性が待っていた。

 化粧をしたら化けるのだが、顔で食っているわけじゃない、と彼女は言うだろう。

 実際のところは、顔のいい小説家は売れる。

「タカさん、待たせたかい?」

「ん? 時間には遅れてるけど、待ってはいないよ」

 そんな彼女はノートPCを開いて、やはり文章を綴っていた。


 同年代で、デビューも同時期。

 同じ出版社で書いているが、ジャンルはかなり違う。

 より純文学に近いが、同時に児童文学も書くという高岡文乃は、友人と言うよりはまさに、この不毛の文学の荒野で戦う戦友なのだ。

「ジウさんが時間を守らないのは珍しいね」

 クオンジユウを省略して、彼女はそんな呼び方をする。

「姪っ子が面白いことをしていてね」

「あ~、姪っ子……」

 二人に共通のことは、もう一つある。

 それは姪を引き取っているということだ。


 ただ文乃はこの春に引き取ったところであり、そしてその直前まで姪っ子は、両親と幸せに暮らしていた。

 違うところはもう一つ、その姪っ子は祖母などの手を経ずに、そのまま文乃の元にやってきたということ。

 進学予定であった高校が、文乃のマンションからの方が近かったため、あの微妙に無神経な親戚には任せられなかった、ということもある。

「そちらの姪っ子は、どうしたの?」

「あの子、まだ泣いてないんだよね。いまだに両親の死が受け入れられていないみたいで」

「事故だとそういうものなのかもしれないねえ」

「それを観察して、小説のネタになるなと思ってる自分がね」

「はは、私らはそういう生き物だから仕方がない」

 慰めるでもなく、槙子は文乃を肯定する。


 小説家というのもまた、芸の鬼だ。

 自分を切り売りして、そして糧を得ている。

「軽音部に入ってギターなど始めようとしているんだけど、不良にならないか心配でね」

「タカさんの認識は何年前なのかね。しかしまあ、そっちの姪っ子も音楽か」

「と言うとそちらも?」

「うちの姪っ子はいつの間にか地下アイドルなんてしていたよ」

「アイドルって……また刹那的な……」


 極道な職に就いていながら、二人の認識はそれなりに一般的だ。

 地下アイドルからの転身直前の少女と、これからやっとギターを始めようとする少女。

 この二人の姪っ子たちの道が交わるかどうかは、定かではない。

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