第12話 レコーディング
月子はひたすら、歌の練習をしている。
それは俊の渡したリスト10曲だけではなく、もちろんメイプルカラーで歌う楽曲もある。
ステージでのソロパートも増やされたため、必死で練習をする。
しかしそれを繰り返せば繰り返すほど、歌唱力の絶対的な差が明らかになる。
歌えば歌うほど、月子はその曲を自分のものとしていく。
俊が言うところの、表現力を増していくのだ。
月子がその声に感情を込められるのは、本人としてはあまりいい思い出のない、民謡の練習によるものだ。
好きだからとかではなく、生きるために唄え、と言われたものだ。
祖母のディスレクシアに対する無理解は、だからこそ月子を将来、しっかりと生きていける手段を身に付けさせることに注力された。
実際のところ、今は民謡で稼ぐというのは難しい。だが確かに流派などもあり、弟子を多く取っている名人もいたりする。人間関係で食っていける。
特に東北地方では、地域に根付いたソウルフルな存在ではある。
祖母が子供の頃に聞いたのは、盲目の三味線弾きなどが、門付けで金銭や食べ物を得ていたという言い伝え。
それは極端にしても、山形の田舎では、三味線を弾けるということは、ある種の教養ではあったのだ。
月子という人格は、ほんの小さな頃の幸福期間を除いて、かなり複雑な過程で人格が形成された。
祖母による厳しい教育は、彼女を鍛えはしたが、同時に不幸にもした。
唄わなくては死ぬ。それが祖母が月子に言っていたことだ。
昭和の貧しい頃を生きた祖母には、子供を単純に甘やかす優しさなどはなかった。
厳しさが優しさであったとは、結局存命中は伝わらなかった。月子がそれに気づくのは、まだずっと先のことである。
その後は京都の叔母に引き取られたが、この叔母はある意味、祖母以上に癖が強かった。
祖母と違って厳しくはなかったが、とてつもなく放任されている、と感じることはあった。
保護者としてではなく、人間として一緒に生活するから、甘えてもらっても困る、という人間であったのだ。
ただこの小説家であった叔母のおかげで、月子は障害に気づくことが出来たし、どうにか高校を卒業することも出来た。
卒業後も別に、出て行けと言われたわけではない。
月子自身が、何も始まらない自分の人生を、どうにかしようと思ったのだ。
ただこの叔母は、やはり月子に生きるための根本的なことを教えていなかった。
むしろ東北にいた方が、単に生きるだけなら、月子には良かったかもしれない。
そんな月子が、東京の立派なビルに入った大学で、レコーディングを行っている。
本人が一番、信じられないことだろう。
むしろ地下アイドルというのは、現実味がなくてふわふわとしたものであった。
しかしこのレコーディングには、しっかりと報酬も出るのだ。
今、生きている。
小さなライブハウスで歌っている時よりも、確実に感じる充足感。
月子は自分の人生を、ようやく歩み始めている。
ヘッドフォンを被って、コンデンサーマイクに向かう。
普段のステージでは、ダイナミックマイクしか使っていないので新鮮だ。
とりあえず自分たちで選んだ五曲は、それなりに簡単に収録を終える。
やはり好きな曲、歌いたい曲を選んだということで、感情が上手く乗っている。
「また、本当にとんでもないの見付けてきたな……」
設備を使うにあたって、俊は岡町の力を借りている。エンジニアとして岡町は確かな技術を持っているからだ。
生徒としては講師に頼るのは当然であるし、岡町には色々なアドバイスもほしかったのだ。
そして何より、忖度のない感想が聞きたかった。
「体の真ん中に柱が通っているみたいなのに、しっかりと揺らしてくる」
ああ、なるほどそんな感じはする。
民謡というと、マイクの前で直立不動で唄うというイメージがあるが、実際にはマイクを手に持って、揺さぶりという唄い方もある。
それを月子が習得しているのかどうかは知らないが、その歌声はクリーンであるのにソウルフルであった。
歌声にしっかりブルースが乗っている。
「よし、じゃあ休憩しよう」
ここまでは思ったよりも、ずっといいペースで消化出来ている。
問題は俊の選んだ五曲が、どれだけ時間がかかるかということだ。
スタジオのこちら側に戻ってきた月子は、それなりに疲れていた。
「大丈夫か? とりあえず水分」
「ありがとうございます」
立派に歌っていたように思ったが、かなり力は入っていたらしい。
「しかし思ったよりリテイクは少ないな」
「練習してきましたから」
そういえばまた、言葉遣いが戻っている月子であったりする。俊としては気づいてすらいないが。
俊は録音した歌を、ちゃんと打ち込みと合わせて流してみる。
自分の歌声を聞いて、月子は照れたような顔をした。
(この一ヶ月で、驚くほど成長している)
土台となるものがあったからこそ、とは言えるのだろう。
だがこれだけのクリアな声なのに、しっかりとパッションを感じる。
(ダンシング・ヒーローはちょっといまいちかな)
不思議なもので、より原曲の歌手の力が強い、他の三曲の邦楽の方が、月子の出来がいい。
自分なりの解釈をして、それを歌で伝えているということなのだろう。
しかしこの速度で、アイドルソングではなく通常の歌唱にマッチしてきている。
生まれついてのボーカリストなどとは言わない。月子は環境が才能を育てている。
ただ、それを別にしても、声という才能と、それに感情を乗せる人生は、天才ゆえのものであろう。
「二年以内に、彩は抜けるな」
「え~、それ無理~」
俊の期待に月子が音を上げる。
そして岡町は、複雑そうな表情を見せる。
俊は本来、単純に売れればいいというような、上昇志向だけの人間ではない。
ただ彩を基準にしてしまっているところが、不幸であるとは言えるのだろう。
10で神童、15で才子、二十歳すぎればただの人。
俊はそう言われるような典型的な成長をしているが、岡町の目から見ても、ある種の才能というか、適性はあるのだ。
それはともかくいくらなんでも、ここから二年で彩に追いつくというのは、さすがに無理だろうと岡町などは思う。
彩は今年でデビューから五年を経過した、24歳の女性シンガーソングライターだ。
ルックスに歌唱力、そしてそのカリスマ性からいっても、単体売りのミュージシャンとしては今、日本では一番ではないかと言われている。
ただ俊などからすると、デビューからのさほど売れなかった数曲と、売れ始めてからの最初の数曲以外は、没個性的なものになってきている。
このご時勢にアルバムを出せば、それなりに売れるというのがすごいのだが、中にはカバー曲を多く含んでいる。
確かにトップではあるのだが、既に頭打ち。
個人的に彩とも面識がある岡町としては、どちらの味方をするとも言えない。
そもそもまだ二人は、比較するような舞台にさえ上がっていないのだ。
「マクロスって人が死ぬんですよね」
「そりゃあ戦争してたら、普通に人は死ぬよな」
「せっかく音楽がテーマなんだから、ラブ&ピースで戦争が止まったりしたらいいのに」
「さすがにそれは無理がある」
「いや、シリーズの中にはそういう作品もあるぞ」
年齢的に岡町は、一応初代からリアルタイムで知識はある。ただ当時の記憶はあまりない。
今思えば歌が人々を救うというあの作品は、ジョン・レノンが殺されてわずか二年、おそらく企画はそれと同時ぐらいに始まっていたのでは、と想像したりもする。
初代は戦争ばかりをしている異星人に、愛と文化を伝えるというのがテーマになっていた、のだと思う。
そこで戦争が起こって、確かにキャラはそれなりに死んでいた。
だがその後の作品の中には、まさに歌の生み出す力が異星人を救ったり、相互理解の鍵になったりしている。
「まあ恋愛要素も相当高い作品だけどな」
「へえ」
「お前、見てなかったの?」
「一応途中までは見たのあるけど」
「あ~、わたしはちゃんと見たのに」
そう言われても、俊にも時間の限界があるので、優先順位は決めているのだ。
AXIAはちゃんと、作中で使われる部分までは視聴している。
「あれって、別れの歌なんですよね」
「まあ、上手く自分の表現にしてたな」
別れの中でも、死別の別れだ。
そのあたりは月子も、上手く感情を乗せることが出来たのだろう。
月子の存在は、本人は普段それなりにうっかりしているが、その内部に歪なものがあると俊は気づいている。
人間関係の距離感がおかしい、というのは分かっている。
俊のありきたりな洞察によると、発達障害によって小学校から中学校ぐらいまでは、普通の距離感を持てなかったのだと思う。
そういった突っ込んだことは、まだ話すような仲ではないが、おそらくある程度は合っているだろう。
ミュージシャンにはどこか、壊れた人間がいるのは確かだ。
自己プロデュースの出来る人間が出やすくなっている時代だが、俊なら月子をしっかり使えることが出来る。
そんな言い方はまるで道具扱いのように聞こえるかもしれないが、俊はとても道具を大切に使う人間ではある。
このレコーディングにおいては、音声だけではなく映像も撮影している。
普通に歌ってもらうのと、仮面をつけて歌ってもらうものの二つだ。
結局は普通に歌っている歌に、仮面の画像を重ねるのだが。
「顔の上半分を隠すと、なんだかマクロスじゃなくガンダムになるな」
「ガンダムは原作までは見てないんだよね」
「世界観も重要だから、音楽以外のインプットもしないといけないぞ」
「水星の魔女は面白かったですよ」
どうやら月子もあのシリーズは見たらしい。
別に俊も、あえてアニメを見ていないわけではない。
必要かと思って、アンインストールを採用している作品はしっかりと原作のマンガまで読んだのだ。
「あのアニメ、面白いけど最悪でした……」
「原作のマンガはもっと面白くて最悪だけどな」
また俊も、ガンダムシリーズの楽曲はそれなりに聞いている。
ガンダムSEEDシリーズは楽曲も売れていたため、フォローはしている。
ただあれはガンダムだからと言うよりは、作詞作曲の人間目的であったりする。
アニメタイアップは昨今、楽曲を売るための手段の一つにはなっている。
ただ俊には、毎週一話ずつ話が進んでいくというのが、あまり性に合わないのだ。
SNSやBBSで盛り上がることもない俊は、同時代性を重視していない。
それでもある程度、使われている楽曲はフォローしている。
その中で日本の、タイアップではないアニソンというものが、独自に進化していることも感じたが。
俊はインプットに時間をかけているが、その中で一番効率がいいのは、映画なのではと思っている。
テレビアニメであると、短くてもおよそ12話をかけて240分ほどでストーリーが完成する。
対して映画は120分ほどで、しかもそこにテレビアニメと違って、まとめて脚本と演出を必要とする。
まあ大きな括りにしてしまうのも、それはそれで乱暴な話なのだろうが。
「時をかける少女は良かった~。ちょっと時代背景は古かったけど」
「あれはむしろ、俺らみたいなおっさんが喜ぶんだけどな。当時映画館で何度も見たもんだ」
「俺もあれは何度か繰り返して見た」
音楽というのは不思議なもので、音だけを楽しむものではない。
歴史を見てみれば、踊るための音楽というのが、どれだけ多かったのか分かる。
むしろ演劇においては、音楽は本当に重要な意味を持っていたりする。
「するとガーネットはテイク一発で終わるかな」
「プレッシャーかけないで~」
ただ月子は、大勢の前で演奏すること自体は、プレッシャーをあまり感じないらしい。
これは三味線の大会などに出場すると、普通に1000人単位のホールで演奏することになるからだ。
そういえば地下アイドルのステージでも、歌うこと自体はしっかりと出来ていた。
休憩が終わり、レコーディングを再開する。
あまり長時間を確保出来ないので、出来れば今日一日で終わらせてしまいたい。
これがプロならば、それこそ何週間だと月単位でレコーディングをするのだが。
「俊、お前もう、彩の背中を追うのはやめろ」
録音ブースに月子が戻ってから、岡町はそんなことを言った。
短い言葉に、幾つかの意味が含まれている。
確かに彩について、自分はたびたび口にはしている。
だが本当にいまだに、そこまでこだわっているだろうか。
俊はしばし考えた後、抑えた声で答える。
「もう追いかけてるという感じはしないよ」
「彩とは逆のタイプのボーカルを連れてきてか?」
「同じ音楽の世界、ある程度は交わることはあるだろうけど、もう俺は憎しみも恨みもないし、逆に憎まれても恨まれてもどうでもいい。それでも何かがあるとすれば……」
俊の感じているのは、傲慢かもしれないが哀れみに近い。
「残念だな、っていう感情かな」
「どういうことだ?」
「今の彩は、歌えば売れる歌手になっているだけで、もう自分で作曲も作詞もしていないか、もしくは中途半端なものしか出してきていない」
「それは、売れてくれば出てくる問題だな」
岡町も否定しないのは、自分もかつて経験したことだからだ。
新しいものを作りたいという気持ちは、当然ながらある。
だが全員が集まって曲を作る機会は少なくなり、そして過去の類似品ばかりを求められるようになる。
皮肉なことにデビュー曲やそれ以前に作っていた曲がむしろ代表作になるシンガーソングライターはいるのだ。
「まあ月子は月子で、曲を解釈するのが大変だったりするんだけどさ」
「漢字の歌詞があまり読めないってやつか」
「もっともそれなら、英語圏はアルファベットだけでどうにかしてるじゃないか、って話になるんだけど」
健常者に障害者のことは分からない、などとはよく言われるものだ。
ただ俊にとっては、天才の感じていることは凡人には分からない、ということも言える。
俊はまだ、このユニットが成功すると無条件に信じているわけではない。
良いものでも売れない、ということは確かにある。
だが最悪でも、月子を世に出す必要はあるだろう。
自分のことではないので、これはいくらでもコネや伝手を使って、彼女が正しく成功する選択をしなければいけない。
自分の音楽を伝えるのと、才能のある人間を世に出すというのは、両方が必要なことだ。
そして両立しない可能性も高い。
レコーディングはガーネットから始まった。
夏の青空と入道雲を意識させる、高くクリアなハイトーンのボーカル。
「泣かせるねえ……」
岡町がそういうぐらいに、月子は見事にこの曲を表現していた。
俊はまだ大学生で、変に過去に感傷を持ったりはしない。
むしろ大学生になってからの方が、自由度は増えたしやれることも大きくなった。
ただあの、閉ざされた空間を懐かしく思い出す人間もいるのだろうな、と想像することぐらいは出来る。
結局この日は、六曲のレコーディングが出来た。
金を払えば好き放題に使えるというわけでもなく、事前の申請がしっかりと必要になるのに加え、岡町に最大の便宜をはかってもらっても時間は足りなかった。
だがこれは想定の範囲内である。
プロと比べるのもなんだが、たった一日でレコーディングが終わるわけもない。
あとは音源を持ち帰って、撮影した動画と編集する。
そして次で、どうにか残り四曲を終わらせる。
夏休みに入る前には、充分終わるだろうか。
「次に使える時まで、わたしは何を?」
「一応次の曲の準備をしてもらう」
俊の作った三曲に加えて、ノイジーガールである。
またその後も、カバー曲は歌ってもらう必要がある。
歌い手であるルナの名前を、売っていくことは重要だ。
ただそちらに集中しすぎて、新曲が出来なくなれば本末転倒。
もちろん時間をかければ、いい曲が出来るというわけでもない。
(前に作った曲から、いいフレーズを持ってくるかな)
そこで俊はふと気づいた。
「そういえば月子は誰かの扶養に入ってるのか?」
「扶養?」
そのあたりの知識も教えないといけないのか。
「まあアイドル時代なんかはともかく、これからもし収入があったとしたら、税金の問題も出てくるしな」
「ぜ、税金?」
「扶養控除とか、アルバイト先で何か言われてなかったか?」
「ちょっと分からないですけど……」
「まあ、高校を卒業したばかりならそうか。それも今度教えないとな」
ただ音楽をやろうと思っても、社会はそれだけでは回っていない。
「一度その叔母さんにも話さないといけないだろうな」
「ええ、でもわたしはもう成人してるのに」
「成人と世帯は別だから……そのあたりも確認しないと」
プロデューサーでもこんなことは、普通はマネージャーに任せられるんだろうな、と思う俊であった。
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