第2話 消えていく時間
敦子は、山田大輔の小説を何度も読み直している。特にこの「消えていく時間」も何度読んだことだろう。
そのうちに一つの疑問に辿り着いた。
「彼の小説は、どこかで他の人の手が入っているような気がする」
というものである。
そういう意味で、
「他人との共作」
というイメージの小説も少なくないと感じていた。
しかし、この「消えていく時間に関しては、確かに他の人の力が加わっているとは思うが、それは、
「途中から作風が変わってきている」
という意識であって、共作というのとは少し違っている。
敦子が思う共作というのは、アイデアをそれぞれで持ち込んで、ああでもないこうでもないという意見をぶつけ合って作り上げるものだという発想である。それぞれのパーツを別々の人が作って、それを繋ぎ合わせて一つの作品を作り上げるということは、小説の世界でもありではないかと思っている。しかし、山田大輔の作品に関しては、それはできないと思う。なぜなら曖昧な部分が多すぎて、ミステリーなのか、ホラーなのか、SFなのか分からないというジャンルすら曖昧な小説を繋ぎ合わせることを不可能だと考えるからだ。
敦子が山田大輔の小説に興味を持ち、何度も彼の作品を読み返すのは、確かに、
「一度読んだだけではよく分からない」
という思いに駆られるというのが一番の理由であるが、それとは別に、
「彼の作品には、他人の力が働いている」
という思いがあったからだ。
「小説家というのは、ある意味二重人格ではないだろうか?」
という話をどこかの雑誌で読んだことがあった。
敦子もその話にはなるほどと思う節もあるが、他の人の作品の中に、もう一つに人格が存在することはない。小説家としての性格的なものは二重人格なのかも知れないが、実際に作品に向かうと、これ以上ないというくらいに自分の作品に一直線に素直になれるものだと思うのだった。
敦子はそんなことを考えながら喫茶店からアーケードをせわしなく歩いている人々を見ながら、自分が漠然とした朝を過ごしていることに気付いた。さっきまではまばらだった人が少しずつ増えてきて、サラリーマンだけではなく、学生の姿も増えてきたのを見て、思ったよりも時間が経ってしまったのではないかと感じた。
しかし時計を見ると、店に入ってからまだ五分ほどしか経っていない。考え事をしていると時間が経つのが想像以上に早いということを分かっていたので、余計にサバを読んで頭の中で時間を進めすぎたのではないだろうか。そう思うと思ったよりも時間が過ぎていないことも理屈で説明できる気がして、何とも言えない気分になっていた。
もちろん、まだ注文したメニューが運ばれてくるわけもなく、また表を見ていると、
「お待たせしました」
と、さっきの女の子が注文のモーニングを持ってきた。
まるでこちらの気持ちが分かっているかのように敦子の顔を覗き込む彼女の表情は謎めいていたが、笑顔には屈託がなかった。どこか矛盾した感覚だったが、どちらもウソには思えなかった自分が不思議に感じられた。
店内を見渡すと、ほとんどの客が単独で、しかも常連だということがよく分かった。
「消えていく時間」
に出てきたお店のように、皆常連でそれぞれの時間を過ごしている。
しかし、一番の違いは、老人が感じたような凍り付いた時間が、この世界には存在しないということだ。あくまでも凍り付いた時間は、作家である山田大輔が創造した世界観であり、実際の世界とは違っている。
――もし、私があの小説を読んでいなくて、今この光景を見て、何か小説を考えようとすると、彼のような凍り付いた世界を創造することができるかしら?
と考えてみた。
小説家の発想に自分が近づけるわけはないという思いを抱いている敦子なので、当然不可能だろうと思っていたが、時間が経つうちに、
――そんなことはない。私にだって創造できないことではないような気がするわ――
と感じた
小説を書くということには、普通の人間は自分の中で余計な結界を作ってしまって、それ以上先に進めないという壁が見えてしまうと思っていた。小説家を目指す人にはそれ以上の結界を感じるようで、目の前にまるでドミノ倒しを思わせる連立した壁が創造されるのではないだろうか。
小説を書こうという甘い考えのまま、最初の壁で諦めてしまう人はそれはそれで一番正解の選択なのかも知れない。少しでも嵌りこんでしまうと、そこから先は少なからず小説家を諦めなければいけないという壁を自分で作り上げて、自分を納得させなければいけないという労力が必要になるだろう。
「先に進むにも後ろに戻るにも、それぞれに体力がいる」
という意味で、断崖絶壁の谷間に掛かった木の吊り橋を、突風に揺れながら渡ろうとしている光景を思い出してしまう。
思い出すというのは、自分がそんなところに行ったことはないという意識はあるのだが、記憶のどこかに格納されているようで、目を瞑ると光景がまるで見てきたことでもあるかのようにある程度鮮明に思い出されるのだ。
確かにテレビドラマのサスペンスなどではよくある光景なのだろうが、その光景を敦子は鮮明に思い出せるほどではないと思っていた
やはり、潜在意識の中で前に進むことと後ろに戻ることのどちらにも労力を必要とする場面を思い出すことがいずれはあるということを感じていたからなのかも知れないと思うのだった。
山田大輔の小説を愛読するようになる前からその思いはあったような気がする。
――いや、ひょっとして、小説というものを読み始める前から、この光景は意識の中にあったような気がする――
子供の頃には思い出せそうな意識の中で、
「子供だから」
という意識が邪魔をして、思い出すという機能に埋もらせていたかのようにも思えた。
断崖絶壁というと、サスペンスもののテレビドラマでは「お約束」と言ってもいい場面であろう。
だが、断崖絶壁というシチュエーションは、敦子の中では、ホラー小説だったりオカルトのような世界にこそ存在するもののように思えていた。それをミステリーに応用するという考えは、
「ホラーとミステリーの融合」
という曖昧な発想を凌駕しているものではないかとも思えた。
そういう意味で山田大輔という作家の作法は、先天性のあるものであり、いつか誰かに描かれる運命にあるものだったと言えるのではないだろうか。
「消えていく時間」の話を思い出していると、この喫茶店に入るのが初めてではないような気がしてきた。デジャブとでもいうのか、少しずつでも何かを思い出せそうな気がしていた。
敦子は自分が、
「なかなかものを覚えることのできない性格」
であることを分かっていた。
すぐに忘れてしまうというのが一番の原因なのだが、忘れるにしてもすべてを忘れてしまうわけではなく、肝心なことだけを忘れてしまうのだ。だから、何が肝心なことなのかということを自分で理解できておらず、そのために覚えられないのだと思っていた。
こんな話を人としたことがなかったのでよく分からなかったのだが、人は何かを記憶しようという意識を持って、モノを覚えているのだと思っていた。無意識にモノを覚えることなどできないのであり、
「忘れてはいけない」
という意識よりも、
「覚えておかなければいけない」「
という意識の方を強く持たないといけないと思うようになった。
どうしても意識するとすれば、
「忘れてはいけない」
という方だという意識があった。
どちらも大切なことであるが、一つを意識すればもう片方は意識する必要はない。敢えて同じ結論となることを両方意識する必要はないと思ったからだ。だが、意識しないといけないというのは間違いではなく、そのどちらを意識したとしても、そこに大きな差はないと思っていた。
なかなか覚えられないというのは、小学生の高学年の頃が一番強かったかも知れない。ひどいと感じたのは、学校で宿題を出されたことを覚えていなかったからだ。それも一度だけのことではない。何度もあった。先生から、
「どうして宿題をやってこないんだ?」
と聞かれえても、
「覚えていなかったから」
と答えると、
「そんな言い訳通用するわけないだろう」
と言われて、廊下に立たされた。
「忘れてしまいました」
というと、宿題をすることを忘れていたのか、それとも宿題が出されたこと自体を忘れていたのかのどちらかだと思われるはずだ。
しかし、普通は前者を想像するだろう。そうなると、宿題を忘れたというのは、わざとやってこなかったという意味で捉えられてしまうこともあり、それが嫌だった。後者だと言っても、きっと信用してもらえないと思った。まだ子供なのに、宿題が出ていたということ自体を忘れてしまうなど、信じられることではないだろうからである。
実際には後者だった。親からも叱責された。結局は学校の先生と同じ目でしか見てくれていないということが分かると、何も言えなくなってしまう。それを思うと敦子は、余計なおとを言わない方が自分のためだと思うようになり、言い訳を口にしないようになった。
言い訳を口にしなくなると、何も言えなくなる。中学生になってから誰にも悩みを相談することもなく、そのせいで友達もできない。それまで友達と言えるかどうか分からない微妙な関係だった人は、当然離れていく。敦子のまわりに人はいなくなっていった。
だが、その頃からであろうか、同い年くらいの人が悩んでいると、人には見えない何かが見えてきたような気がした。話しかけられたいという思いがみなぎっているのに誰もその人に話しかけようとはしなかった。
敦子は自分から話をすることはできないと思い込んでいたので、誰もその人に話しかけてあげないことにいら立ちを覚えていた。
だが、それも他の人にはない特殊な力を自分が持っているからだとは思っていない。自分が物忘れが激しいということに気付いた時、すべての能力で自分は他人から劣っていると思っていたので、そのコンプレックスが人との接触を拒んだのだ。
――本を読めば、少しは記憶力がマシになるから?
と考えるようになった。
ただ、記憶力が悪いというのは、生活においてだけのことであった。学校での科目の中で、暗記物と呼ばれる科目の成績は決して悪いものではなかった。実際に試験勉強をしていても、覚えられないという意識はない。テスト中であっても、記憶したことが出てこないということはない。スラスラと問題は解けていた。
そんな自分を中学時代は不思議に思わなかった。ただ不思議に思っていたとしても、誰かに相談したかどうか疑問だった。
友達もいないので、急に相談するわけにもいかない。学校の先生や親に対しても、
「頭ごなしに叱るだけで、私を表面だけでしか見ていない」
という思いしかなかった相手である。
そう簡単に相談などできるはずもなかった。それは自分の気持ちの否定であり、矛盾しか感じさせないからだった。
本を読めば記憶力が戻ると思ったのは、半分は気休めであり、相談する相手もいないので、とりあえずやってみようという考えでしかなかった。
それまで本なんか読んだこともなく、国語の時間も苦痛でしかなかったはずなのに、実際に読み始めると面白くなっていた。元々読書が嫌いだったのは、
「すぐに結論が知りたい」
という思いが強かったからだ。
結論というのを求めてしまうと、ついついセリフばかりに目がいってしまう。それはマンガやドラマなどの映像作品のせいではないだろうか。描写は画僧や映像を見ればいいのだ。文字で想像するのは、セリフも一緒に理解しなければいけないということを考えてしまい、自分でハードルを上げていた。
「余計なことさえ考えなければ、勝手に本能が判断してくれる」
ということだと分かったのは、もう少し経ってからからであって、それまではまわりからよく言えば、
「真面目」
悪く言えば、
「融通が利かない」
と言われていた。
きっと物覚えの悪さもそこから来ているのだろうが、その頃の敦子にそんな意識はまったくなかった。
いずれはそのことに気付くことになるのだが、
「よく分かったわね」
と気が付いたに言いたかったくらいだった。
「もし、この時に気付かなければ、きっと一生気付いていなかったかも知れない」
とも思っていて、それに気づくことができたから、読書する時もセリフだけでなく描写も理解しながら読むことができるようになったと思っている。
要するに、気持ちの上で、少しだけ余裕ができてきたからだと思うようになった。
最初に読んだ本が山田大輔の本だったというのも、何か運命のようなものを感じた。他の人に言えば、
「山田大輔から読書に入るなど、そんな人がいるんだね」
と言われたことがあった。
「そうかしら? 結構奇抜で面白いわよ」
というと、
「そういう意味ではなく、読書にも段階のようなものがあって、読みやすい本から入っていくものだって思っていたので、それで意外だなと思ってね」
と言われ、
「私が読書をするようになったのは、最近のことだったので、それでなのかも知れないわね」
「それもおかしい気がするわ。小学生の頃から本に馴染んできたのであれば分かるんだけど、それまで本を読んでこなかったということは、読書に対して一種の抵抗があったというわけよね? それなのに、いきなりハードルの高い小説家の小説を読むというのは、私には理解のできないことではあるわね」
と言われた。
その人のいうことにも一理あった。しかし、それを考えると、
「どちらにしても、最初に読書に入るとすれば、山田大輔という作家の本を選択するのは、不思議なことだということになるのかしら?」
というと、
「一概にはそうとも言えないかも知れないけど、読書というのは、集中しなければできないことなのよね。でも、読み込んでいくうちに自分が集中しているということを忘れるほどに熱中してしまうものなの、本の世界に入り込んでいくというかね。本にはそれだけの力があるからなんだろうけど、本の内容が読み手の共感を得るという意味で、誰にでも起こりそうな話を読み手の気持ちになって書く場合もあるでしょうし、逆に作者が読者に対して問題提起をし、自分の作品にのめりこませるテクニックを駆使することもあるでしょうね。後者の場合は、いかに読み手に本の内容に興味を持たせるかが重要で、最初にくじけさせると、それ以上は読んでもらえることはないわよね」
と、またしても、敦子を考えさせるようなセリフを言った。
「山田大輔の作品に、『消えていく時間』という作品があるんだけど、読んだことはありますか?」
と訊ねてみると、その人が、
「ない」
と答えたので、あらすじを少し話してみた。
もちろん最初に、その小説を今後読む気があるかという質問をしてからであったので、ネタバレも承知の上ということであった。
「なるほど、確かに時間という感覚は曖昧なものがあり、解釈次第によっては、いろいろな小説を書くことができるでしょうね。それがSFであったり、ホラーであったり、ミステリーであったりと、時間をテーマにした小説はいくつもある。でも僕はそれぞれのジャンルで時間をテーマにした小説のパターンは、突き詰めれば一つになるような気がするんだ」
「というと?」
「小説というのは、いろいろなパターンで無限に発想できるのではないかと思うこともあるけど、結局は作者が経験したことがその根底にあると思うんだよね。もちろん実際に経験したことだけではなく、人から聞いた話や他の本で読んだ内容だったりの中で、印象に残ったものをテーマに織り込むんだろうけど、でもそれって自分で納得できなければいけないことのように思うんだ。だから自分で経験したりしたことがベースでないと成り立たないと思うんだけど、ちょっと極論かな?」
とその人はいう。
「夢に見たり、想像することだってあるでしょう?」
と敦子がいうと、彼は笑いながら、
「夢で見たり、想像することと言っても、それはしょせん、その人の潜在意識によるものでしかないでしょう? そういう意味で想像力には限界があると僕は思うんだよ」
「そうなのかしら?」
と、敦子はまだまだ納得できない気持ちだった。
「敦子さんは、夢を見たことがありますか?」
「ええ、もちろんありますよ」
「じゃあ、その夢を覚えていることってあります?」
「ええ、全部の夢を覚えているわけではないんですけど。覚えている夢もあるわね」
「何かその夢で共通点を感じたことはありませんか?」
「私の場合は、怖い夢を見た時というのは覚えている気がします」
「じゃあ、楽しい夢を見た時は?」
「夢の中で忘れたくない。もっと見ていたいと思うんでしょうね。だから余計に覚えられないんじゃないかって思うんです。目が覚めると見ていた夢を忘れてしまったという残念な気持ちが残っています」
「じゃあ、覚えているのは怖い夢ばかりなのかな?」
「そうですね。自分の中ではそう思っています」
「僕もそうなんだけど、これって今敦子さんから自分と同じような夢の見方をするからと言って、皆が皆同じだというわけではないと思うんです。確かに一人よりも二人となると、その信憑性は上がるとは思うんですが、だからと言って、すべての人が同じだというには、あまりにも発想が乱暴ではないでしょうか?」
「確かにそうですね。でも、私はずっとこの発想が自分だけのものなのか、それとも皆同じなのかというのを、半々くらいで考えていたんです。だから、今あなたの話を聞いて、かなり皆同じなんじゃないかという方に傾いてきましたね」
「でも、今の敦子さんの発想は、あくまでもオールオアナッシングじゃないですか。自分だけなのか、それとも皆なのかという究極の選択でしかないわけですよね?」
「ええ、私はずっとそう思ってきました。そう思うことに疑問を感じたこともなかったんですが、その割には今あなたに指摘されても、ハッとした気分にはならなかったんです。発想としては頭の中のどこかにあったんでしょうが、表に出てくることはなかった。そんな感覚ですね」
と敦子がいうと、
「敦子さんが今言われたことは、結構重要な気がするんですよ。頭の中で理解はしているけど、それを自分の発想として表に出すことはない。つまりは、誰かが指摘しないと表に出てくる部分がないという発想ですね。それも私は潜在意識の一つなのではないかと思うんです」
と彼に言われて、敦子は初めてハッとした。
「そういう風に言われると、納得できる気がしてきました」
「ね、目からウロコが落ちた気がするでしょう? 私はそれを夢に当て嵌めることができるんじゃないかって思うんです。覚えていない夢は確かにほとんどが楽しい夢だったりするんだと思うんですが、その理由が今話をした『オールオアナッシング』の発想から来ているのだと考えるのも面白いんじゃないかってね」
敦子はこの話に感動した。
敦子はこの話を喫茶店の窓からアーケードを眺めながら思い浮かべたのであるが、最初は、この話をした相手のことも、どこでこんな話をしたのかまったく思い出せなかった。まず話の内容が思い出されて、思い出した内容から、少しずつオアずるのピースが埋まってくる気がした。それこそ潜在意識というもので、ピースを埋めようとしての発想ではなかったはずなのに、それを思い出すことでピースが埋まっていくというのは、偶然という言葉では片づけられない気がした。それこそ彼が言っていた「潜在意識のなせるわざ」なのではないかということである。
この話をしたのは、この間の合コンでのことであった。敦子は合コンなどあまり誘われたこともなく、学生時代にもあまり経験がなかった。ただ、予定していた人が体調不良で参加できないということで、
「ごめん、来てくれるかな?」
と言われて参加した。
その見返りは、ランチ一食分で悪い条件でもないと思ったのと、
――一度くらい参加してもいいかな?
という軽い気持ちからであった。
実際に参加してみると、やはり他の人たちは鳴れているのか、グイグイと自分アピールに余念がなかったが、敦子は完全に浮いてしまっていた。
だが、相手にも敦子と同じ立場と思しき人がいた。彼は何も話そうとせず、その場を持て余しているようだった。最初に話しかけたのは敦子の方で、最初はお互いに手探りの会話だったが、話題が読書の話に及んで、俄然スイッチが入ったのが、彼の方だった。
敦子は、彼が自分の話題に乗ってきてくれたことが嬉しく、普段であれば引かれてしまいそうな話題をしていた。もし彼が引いてしまえばそれでもいいという考えからである。
だが、彼はその話題に乗ってきた。それどころか自分の考えを惜しげもなく話してくる。それでも彼は決して相手の話を制して自分から口を開いたり、強引な話をするわけではなかった。そこは大人の対応を思わせ、
――この人、思っていたよりも饒舌で、その割に人に気を遣うことも忘れない人なんだわ――
と感じた。
彼の話は、基本的に敦子に話題を振る形で、敦子が意見を言うと、それに対して自分の意見を口にするというやり方だ。話をしていて、最初は彼の話にハッとするところがなく、淡々と進んでいく中で、それでも次第に深く話が入ってくることを相手に意識させることもなく、気が付けば敦子に自分がハッとするような意見を口にするように仕向けるというやり方は、その時は感じなかったが、後になって感心させられ、
「この人とだったら、お友達以上になれるかも知れないわ」
と感じさせた。
彼の名前は、新田弘和と言った。普段は何をしている人なのか、そこまでは聞いていなかったが、別に結婚を前提に考えているわけではないので、そこまで詳しく知る必要はないと思った。
敦子も彼に対して自分のことを必要以上な情報を与えていない。
――お互いに言いたくなったら言えばいいんだわ――
と思うだけだった。
新田弘和と知り合ってまだそんなに日が経っているわけではないので、合コンの日からまだ会っていないが、連絡だけは取りあっている。
お互いに他愛もない連絡が多く、それだけを見れば普通の友達なのか、これから恋人に発展するかも知れないという程度の友達なのかという内容だ。
――やはりあの人との話は、会ってからする話なんだわ――
と、その時の話が重厚だったのを思い出していた。
話が重厚だったと感じたのは、その日彼と別れてから初めて感じたもので、それから次第に重厚さが思い出すたびに深まって行った。しかも、彼との話を思い出す時、時系列に微妙な誤差が感じられた。後になって思い出すのに、前に思い出した時よりも、ごく最近だったという感覚である。
――これもまるで夢の感覚に似ているのかも知れないわね――
というものだった。
さらに彼の話を思い出す時には何かの共通点があるようで、
「共通点がある」
という意識はあるのだが、その共通点がどういうものなのか自分で分かっていない。
この日、彼との話を思い出したということは、その共通点に沿ってのことなのだろうが、やはりその理由は分からなかった。
人との話に後からジワジワ何かを感じさせることはおろか、人の話にインパクトを感じるということもほとんどなかった。
元々、人と話をすることが少なく、会話をする機会があったとしても、自分も話に参加することはあまりなかった。つまりは一対一で話をすることはほとんどなく、たくさんいる中で端の方に一人ポツンというのが多かった。
だが、そもそもの敦子は目立ちたがりな性格だった。人と会話になったとしても、すぐに目立とうとして自分の意見を最初に言おうとするところがあった。そんな敦子が人と会話をしなくなったのは、高校生になってからのことだろうか。急にまわりが敦子に冷めた目で見るようになったのだ。
思春期の敦子は、一時期だけであるが、
「箸が転んでもおかしい」
と言われるような笑い上戸だった。
一度笑いのツボに入ってしまうと、はらわたが捩れるくらいに笑いが止まらなくなるのだが、その様子をまわりが冷めた目で見ていることに思春期の敦子は分かっていなかった。高校生になり、思春期を通り過ぎるとまわりの視線が急に気になるようになり、それまで感じたことのなかった冷めた視線に怯えを感じるようになった。
その時に感じた怯えであるが、いきなり怯えを感じたのだ。その怯えがどこから来ているのかが分かるわけもなく、敦子は戸惑っていた。怯えがいきなりやってきたにも関わらず、その理由に関しては、徐々に分かってきたのだ。
「こんなにじれったいものなんだ」
と敦子は思ったが、その理由が分かるわけもなかった。
理由を考えてみようという気にもならなかった。
そのせいで、次第に人との会話が少なくなり、しかも高校時代というと、まわり全体が異様な雰囲気にあり、中学時代から相変わらず、青春トークに花を咲かせている人もいるが、ほとんどは会話をしなくなっていた。
最初は自分の学校だけなのかも知れないと思っていたが、どうやら他の学校でも同じようである。それを知ったのは予備校に通い始めてからのことで、他の学校の人とであれば、同じ学校の人との間に生まれた違和感はないだろうと思った。
だが、他の学校の生徒も同じで、逆にもっと露骨な雰囲気があった。
「大学受験という目標がしっかりした場所なので、皆がライバルという意識が強く、会話が成立するわけもない」
というのが、正直なところであろう。
敦子は、高校時代を後悔していた。
――もっといろいろな人と会話ができたかも知れないのに――
という思いもあったが、それよりも、
――あの時にしかできない会話があったはずであり、その内容は自分にとって必要なことだった――
という思いである。
そう思うと、時間を戻すことができないという感覚をひしひしと感じた。
「青春は一度きり」
などというベタなセリフを耳にすることがあったが、高校時代には、
――何をいまさらそんな当たり前のことを――
という思いから、
「余計な事」
という意識が強かった。
だが、高校を卒業して、あれほど目標にしていた憧れの大学生活を始めると、思っていたのと若干違っていることに気が付いた。
高校時代に考えていた大学生活では、
「まず第一に友達をたくさん作って、大学受験の勉強とは違う勉強を大学で思い切りするんだ」
という思いがあった。
実際に友達をたくさん作るという目標は達成したと思ったが、その友達の影響からか、それとも自分の意志の弱さから招いたことなのか、次の目標である大学の勉強に一生懸命になることはできなかった。遊びにかまけてしまい、やはり意志が弱かったのだろうということを、就活の段階になって気が付いた。
第一の目標であった友達を作るというものも、本当の友達がたくさんできたわけではなく、自分だけが友達だと思っていただけで、実際には表面上の友達でしかなかったのだった。
新田和弘とはその時だけの話だったが、彼は合コンには来ていたが、年齢的には微妙なところで、三十代後半、いや、ひょっとすると四十を超えていたかも知れない。
もちろん、恋愛感情を持つわけでもなく、一応人数合わせというだけでの参加だったので、最初から男子を7目当てにきたわけでもなく、実際に恋愛対象になるような人もいなかった。
敦子は面食いというわけではないが、理想が高いというわけでない。自分では好きになる相手は平凡でどこにでもいる相手だと思ってはいたが、こだわりがないわけではない。一口に、
「どんな相手が好みなのか?」
と聞かれると返答に困るが、一見平凡そうに見える相手で、ふとしたことでハッとさせられる人が気になるというくらいにしか答えられないだろう。
目立ちたがり屋だった頃のことを思い出すと、今でも顔が真っ赤になるくらいの恥ずかしさがあるが、別に目立ちたがり屋が悪いと思っているわけではない。目立ちたいと思って、ただ闇雲に人の前に出ようとすると、
「出る杭は打たれる」
という言葉そのままのパターンに嵌ってしまったことが恥ずかしいのだ。
「人と同じでは嫌だ」
という考えを持っていることから、いわゆる「パターン」に嵌ってしまうというのは嫌だった。
しかも、パターンに嵌ってしまった理由が闇雲に動いてしまったというところにあるのだということを後になって分かったということが恥ずかしいのだ。
本当は恥ずかしいわけではなく、悔しいと思っているのだろうが、敦子は悔しさよりも恥ずかしさの方が頭の中に強く残っている。
目立ちたがり屋であった時、表に出ようという意識を強く持っていて、その時に恥ずかしさが頂点に達した時があった。それはきっと自分が目立ちたがり屋であったということを一番意識した時であり、そのことから、悔しさではなく恥ずかしさが前面に出てくるという意識を持つようになったのだろう。
そのエピソードがあったのは、中学二年生の頃だっただろうか。敦子は大きなグループに入っていたわけではなく、四人の仲良しグループに入っていた。
どうしてそのグループに入ったのかを今思い出そうとしたが、そのきっかけは思い出すことはできない。きっかけなどというのは後で思い出そうとしてもピンポイントで思い出すことはできないものなのだろう。
そのグループの中に一人男の子が混じっていた。女性三人に男性一人という少し不思議な組み合わせだった。
もし、その男の子が輪の中心で、前面に出ているのであれば、それほど不思議な組み合わせだと思わなかったかも知れない。ただこれも後から客観的に見てそう思うだけで、あの時に客観的に見ることができていればどうだったのか、想像することはできなかった。
輪の中心には、一人の女の子がいた。元々クラスでも目立っている子で、生まれつきのリーダーシップを持った子だったような気がする。実際にクラスでの発言力もあり、彼女の一声で決まったこともいくつかあった。ディスカッションの場で、ある程度まわりに意見を出させて、最後にそれをまとめるというやり方に長けていて、正直自分から意見を出す方ではなかったが、そういう意味でのリーダーシップが生まれつきのものではないかと思ったのだろう。
敦子はそのグループの中では、さすがにリーダーにはかなわないとは思いながらも、どこかでリーダーへの野望を虎視眈々と狙っていたのではないかと思っている。
――せめてグループ内のことはすべて知っている――
という自負すらあった。
グループ内でなるべく内緒ごとはしないようにしようという暗黙の了解があった。だからこその少人数のグループなのであって、個人同士の結びつきが深くなるのは抑えることはできないが、グループの調和を乱すような二人だけの秘密は持たないようにしなければいけないというのは、当然のルールなのだろうと、敦子は考えていた。
輪の中にいた男の子は、どこか女性的なところがあり、それがグループへの参加に対して障害がなかった理由なのかも知れない。ひ弱に見える外見もそうだが、性格的にも女性を彷彿させる感じがあった。
ナヨナヨしている印象は、他の三人にそれぞれ別のイメージを植え付けていたよyだ。
リーダーの女の子から見れば、まるで妹のようなイメージに見えていたようで、彼が一番頼りにしているのも彼女だった。
もう一人の女の子は、彼のことを完全に下に見ているのが伺えた。まるで奴隷のように扱っているようにも見えたが、不思議とそれをリーダーの彼女がいさめるようなことはしない。分かっているはずなのに見て見ぬふりをしているように思えて仕方がないが、リーダーともう一人の女の子との間に時々アイコンタクトがあることから、何かの理由があったのではないかとは思ったが、その理由はハッキリと分からなかった。
敦子はというと、彼のことをどちらかというと遠ざけていた。彼が最後にグループに参加してきたのだが、それまでの女の子三人での関係は、正三角形をイメージできるほど、それぞれの距離は均等だった。それなのに、その男の子が入っただけで関係性は微妙に歪になっていき、敦子は他の二人の女の子とも微妙な距離感になってしまっていた。
遠ざけていた彼も、敦子を見ようとはしなかった。自分を奴隷のような扱いをしているもう一人の女の子に対してよりも、敦子に対しての距離の方が遠いように感じたのは、なぜなのだろう?
――他の二人との距離が微妙になったからなのかしら?
と敦子は考えた。
四人の距離感としては、それぞれ歪な距離感ではあるが、その歪さに色を添えてしまったのは、敦子の存在であろう。
――私がこの団体の中にいなければ、他の三人は正三角形を描いているのだろうか?
と思ったが、女性二人の彼への対応を考えると、それはありえないように思えた。
では、元凶は彼にあるのだろうか?
敦子はその答えを見つけることを怖いと思った。彼の存在とグループ内の関係を考えていると、結び付きからメンバーの関係を考えるのは、少し違っているように思えていた。
その理由は、自分もグループ内に所属しているからであって、どんなに努力しても、まわりから見る客観的な目を持つことはできないと思ったからだ。
その男の子の存在は、グループ内に微妙な距離感を与えたが、だからと言って、亀裂をもたらすほどのものではなかったような気がする。もし亀裂が発生するとするならば、どこかの一点が障害を起こすことを理由とするだろう。その障害はあくまでも精神的なものであって、具体的なものや肉体的なものではないだろうと思っていた。
そういう意味では一番危ないのは自分だと敦子は思った。他の二人に若干の違和感を覚えていた。最後に入ってきた男の子に対しても、分からないことだらけで、そんな彼を他の二人がどれほど分かっているのかということを考えると、ふと自分が何を考えているのかハッとしてしまうのであった。
ある日のこと、男の子を含めた四人で下校した時のことだった。敦子は下校時間があまり好きではない。というよりも、四人が揃っているところを見られたくないという思いからなのか、いや、実際には自分の近くにその男の子がいるというのを知らない人に見られることが嫌だったような気がした。
学校内であれば皆知っているだろうし、何よりも皆同年代なので、それほど気にもならないが、学校を出てしまうと、出会うのは不特定多数の様々な年代の人たちだ。それを思うと、出会う人びとがどんな目で自分たちを見ているかと思うと、少し怖い気がした。
男の子が、本当に男らしいタイプであれば何ら問題ないのだが、見るからにナヨナヨしたタイプなのが気になるのだ。他の二人は一見何も気にしていないように見えるが、心の奥では何を考えているのか分からず、敦子は絶えず二人の女の子ばかりを見ていた。男の子を見たくないという意識も手伝っているので、必然的にそうなるのだが、きっとそんな敦子の様子が、知らない人がまわりから見ると、一番不可思議に思えるのではないだろうか。
学校を出てからどれくらい言ってからであろうか。その日はリーダーよりももう一人の女の子の方が饒舌だった。普段、何も話題がなければ、リーダーの女の子が話題を出し、それに対して盛り上がるのだが、誰かに話題があると、リーダーは完全な聞き手に回っている。
その関係が実にうまく構成されているので、知らない人が見ると、
「なかなかいい関係を築けている仲間なのね」
と思うことだろう。
かくいう敦子も他人の目で客観的に見ればそう感じることだろう。ただそれも敦子から話題を出すことがなければである。敦子が話題を出すこともあったが、そんな時はある程度までくると、会話がぎこちなくなり、うまいタイミングでリーダーが幕を引く。敦子とすれば助かったのであろうが、たまに、
――もっと話したかった――
と思うこともあり、どうして自分だけいつも最後はぎこちなくなってしまうのかが分からず、それでも目立ちたいという気持ちは心のどこかにあるので、また性懲りもなく、話題を自分から出すこともあるのだった。
その日の話題は、一種の、
「恋バナ」
だった。
彼女には心に思っている人がいるらしく、その人が誰なのか、頑なに隠しているのだが、少しでも進展があれば、黙っていることができない性格の彼女は、他に話す相手もいないことから、どうしてグループ内で話をしてしまう。
たった一人の男の子としては、彼女にそんな話をされてどう思っているのか分からないが、目は前の一点を見つめているようで、
――彼には何が見えているのだろう?
という思いを抱かせるが、その見えているものを想像する気にはならなかった。
しょせん想像したところで分かるはずもないし、想像できたとしても、敦子が想像したいと思っているものとはかなりかけ離れているような気がした。
彼は背筋を丸め、前かがみに歩く癖があるので、前を見ながら、一点に集中しているとしても、それはいつもと変わらない光景なので、意識して見ない限り分かるはずもない。
彼はそれほど身長もあるわけではない。女の子三人と一緒にいても、背だけを比較すれば、少し大きいくらいで、男子とすれば、かなり低い方であった。
しかも髪型も真面目で、少しおかっぱな雰囲気もあることから、
「女の子みたいだ」
として、他の男子から距離を置かれるようになっていた。
男子から見れば、彼のような男性は気持ち悪く思えるのだろう。特に思春期の男の子は、女の子に必要以上に意識が強いので、女の子のような雰囲気の男の子の存在は、気持ち悪いという他に感じることができないものではないのだろうか。
しかも、彼の声も、
「声変わりしてないんじゃないか?」
と言われるほど、声のトーンが高い。
それでも彼が中学に入学してきた時は、男らしいとまではいかなかったが、女の子のように見えるほど他の男の子と違っていたわけではない。他の男子が中学に入ると成長期に入り、次第に男の子から男に変わっていくのに対し、彼はまだまだ男の子だった。
彼が他の男の子のように男になり切れていないだけなのに、女の子のように見えるというのは、敦子の目がおかしいのか、それとも他の皆も同じことを思っているが、それを言わないのが暗黙の了解になっているのか、どっちなのだろうと敦子は考えた。
――暗黙の了解だったとすれば、私が知らなかっただけなんだろうか?
と考えたが、実際にそうだったことが、その日に起こったことで証明されてしまったようだ。
学校を出てから十五分くらいしてからだとうか、彼女お話も次第にヒートアップしていた。
と言っても、彼女が一人の盛り上がっているという感も否めなかったが、話の焦点はいつの間にか佳境に入ってきているようだった。
一人で盛り上がっている状態だったので、目のやりどころに窮していた。男の子の方を見るなど論外だったので、リーダーの様子ばかりを気にしていた。
するとどうだろう。学校を出てから十分を過ぎたくらいから、リーダーの視線が男の子に集中しているのが分かった。
だが、それはただ見つめているというだけではないような気がして、最初はその視線が何を意味しているのかよく分からなかった。
分からなかったからこそ、敦子はリーダーから目が離せなくなり、彼女の視線の先にいる男の子の様子も交互に見ながら、自分が何を意識してしまったのか、頭の中を整理していた。
――彼女の視線は、何かを心配しているように見えるけど、視線の先の彼は普段とどこが違うというのだろう?
と敦子は考えた。
よく見ると、少し顔色が悪くなっているようにも思えた。最初は真っ赤な顔に見えていたものが、いつの間にか土色に変化しているようで、まるでモノクロの映像を見ているかのようだった。
――どうしたんだろう? 気分でも悪いのかな?
と思ったが、表情に変わりはないようだった。
だが、交互に見たリーダーの顔色が急に変わり、
「あっ」
という声を発したかと思うと、その視線の延長上で、男の子が崩れかかっているのが見えた。
その様子はまるでスローモーションのように見え、テレビドラマのワンシーンを思い起こさせた。だが、その顔は苦悶に歪んでいるという様子ではなく、無表情のまま、倒れこんでいるのだ。
――苦しくないのかしら?
と最初に感じたが、状況は尋常ではなかったのだ。
後の二人も最初は状況を把握できていなかったのか、何が起こったのか分からない様子だった。
――二人も一緒なんだ――
と思ったが、それも一瞬だった。
二人とも最初は何をどうしていいのか分からず、震えているようだった。だが、少しすると、二人は顔を見合わせて頷いた。その時に意を決したかのようだった。
「救急車、救急車を呼んで」
とリーダーがいうと、
「分かった」
と言って、もう一人が少し離れたところからスマホで救急車の手配をしている。
相手からいろいろ聞かれているのだろう。手振りを交えながら説明している姿は、冷静そのものであった。
リーダーはというと、彼の顔を覗き込み、
「大丈夫? しっかりして」
と、大きな声で話しかけている。
――彼女がこんなに大きな声を出しているのを初めて聞いたわ――
と思うほどの音量で、音量もさることながら、声には重低音を感じさせることで、声がこの狭い範囲であれば、これ以上ないと言えるほどのインパクトの強い声に聞こえた。
――どうやら二人にはこの状況が理解できているようだわ――
と敦子は感じた。
二人の様子を見ているだけで何もできない敦子は、右往左往するだけだった。二人はそれぞれの役割をしっかり分かっていて、それに伴ってやっている。まるで敦子の存在が目の前から消えてしまったかのようにさえ思えた。
リーダーはテキパキと行動している。頭を起こしたり、胸の様子伺ったりしていた。すると、倒れた彼の様子が少し変化してきていることに気付いた。
――身体が震えている――
と思った時、ビクビクとした震えが次第に大きくなっていき、完全に身体全体が痙攣してしまったようだ。
リーダーはそれでも慌てることはなかった。まるで最初から分かっていたかのように、彼が倒れてからすぐに、前もって用意したタオルハンカチをすかさず、彼の口に挟んだ。
歯をガクガクさせているのだから、一歩間違えば指を噛みちぎられる可能性もあるので、なかなか慣れていないとうまくいかないはずなのに、リーダーはうまくタイミングを計って、彼の口にタオルハンカチを入れることができた。
「こうしておかないと、舌を噛みちぎってしまうかも知れないからね」
と、初めて敦子に対して言葉を発した。
ちゃんと敦子の顔を見て、微笑みながらの行動だったので、敦子は一気に安心した。そしてその場でのリーダーの行動力に、尊敬の念を抱いたのだった。
リーダーは敦子を無視していたわけではなかったのだ。彼女が倒れてから、痙攣を起こすまでの経緯をあらかじめ分かっていて、どこまで行けば落ち着けるのかが最初から分かっていたのだろう。だから、痙攣を起こして口にタオルを挟み込むまでが最初の気の抜けない時間帯だったのだ。
どうやら、彼は癲癇という病気を患っていたようだ。倒れこんでから身体が震えだすまで少し時間が掛かったかのように感じたが、実際には一連の動きだったようで、それだけ敦子が動揺していたということであろう。
「すぐに救急来るって」
と、もう一人の女の子がそういった。
「ありがとう。こっちも少し落ち着いたようだわ」
と言って、少しホッとしている。
口にタオルを挟んだことで、少し痙攣が収まってきているように思ったのは気のせいだろうか。リーダーの、
「少し落ち着いた」
という言葉がまるで催眠術のように敦子の心に間違いのない何かを植え付けたような気がした。
二人の様子に尊敬の念を抱いていた敦子に、リーダーが話しかけた。
「あなたが最初に気付いたのよね」
とふいに声を掛けられ、敦子はビックリした。
「えっ、そうだったの?」
ともう一人の女の子が言った。
「ええ、敦子さんが最初に気付いたの。今までは私がいつも一番最初に気付いてきたので、敦子さんが最初に気付いたことで、いつもの発作とは違う何かが起こったのではないかと思って、急に不安になったのよね」
とリーダーは言った。
――なるほど、これだけ冷静だったリーダーが、最初どうしていいのか分からないという表情をしたのは、そういうことだったのか?
と敦子は分かった気がした。
しかし、それにしてもすぐに我に返ったのはさすがだった。あれにはさすがにビックリさせられたのも事実だった。
「私はいつもの発作だって思ったんだけど、リーダーの表情を見て、急に怖くなったの。いつものリーダーとは明らかに違っていたからね。私もどうしていいのか分からなくなったのよ」
ともう一人の彼女も言った。
――えっ、何? じゃあ、私が最初に気付いたことで、二人の初動のリズムを崩してしまったということ?
と、遠回しに自分が気付いてしまったことで迷惑をかけてしまったと言われているようで、ちょっとショックを覚えた。
すぐにネガティブに考えようとする敦子の悪い癖であった。
「大丈夫よ。とにかく、これで落ち着いたのは間違いない」
と言って、リーダーは勝手に話を終わらせた。
それだけ精神的に疲れているということだろう。あれだけの手際を見せたのだから、それも当然のことである。事なきを得たことで、とりあえずはよかったと言えるだろう。
そのうちに、遠くから聞き覚えのあるサイレンが聞こえた。救急車が近づいてきているのが分かったのだ。それにしても、いつ聞いてもあまり気分のいい音ではない。リズム正しく鳴らされているはずのサイレンの音が、距離のよるものなのか、角度によるものなのか、その音が歪に変わってしまう瞬間があった。
――ドップラー効果というのよね――
と独り言ちた敦子だったが、救急車が近づいてきていることに間違いはなかった。
救急車のサイレンの音が最高潮に達したかと思うと、急に音が鳴りやんだ。目的地に到着し、音が止まったのである。しかし、パトランプはまわりながら真っ赤に点滅している。音のないパトランプを見ると、どこか気持ち悪いのは、そこから感じる違和感のせいであろうか。
運転していた人が、後ろの観音開きの扉を開けると、中から白衣を着て、ヘルメットをかぶった救命士と呼ばれる人が担架を持って飛び出してきた。
「大丈夫ですか?」
と、まず倒れている彼に声を掛ける。
ここまでくると、痙攣はある程度収まっていて、顔色も少しよくなっているようだった。その証拠が唇の色で、さっきまで紫に染まっていた唇が、男性とは思えないほどのピンクに染まったいつもの唇の色に戻りつつあったからだ。
彼は自分で身体を少しくらいであれば動かすことができるようになっていた。意志表示くらいはしっかりできる。救命士は電話を掛けた彼女に話を再度聞いて、無線でどこかに電話していた。
「どこか、行きつけの病院とかありますか?」
と聞かれると、リーダーが彼のカバンを開けて、そこから手帳を取り出した。
「ここに書いています」
と救命士に手渡したが、どうやらこの行動も彼との間で暗黙の了解になっていたようで、
「僕が発作を起こした時は頼みます」
と頼んでいたに違いない。
それは本人からだけではなく、親からも頼まれていたのだろう。さっきもう一人の彼女が救急車を呼んで電話を切ってから、もう一か所電話をしていた。それが彼の親元であったことは、電話の内容から察しがついた。
「分かりました。では、こちらの指定病院に連絡してみますね
と言って、少し救命士は無線で連絡を取ったようだが、手配はすぐに終わった。
「分かりました。指定病院に向かいます」
と言って、彼を載せて、救急車は走り去った。
一緒に乗っていったのは、もう一人の女の子の方で、連絡を入れた本人だということと、こういうことには彼女も慣れているということが分かったからだった。てっきりリーダーが乗っていくものだと思った敦子は少し拍子抜けしたが、彼女に乗っていかれて、残ったのがもう一人の彼女だということを考えれば、この方がよかったような気がした。
救急車はスピードを上げて走り去った。それを見えなくなるまで二人は見送ったが、リーダーはまったく視線を逸らすこともなくじっと救急車を見ている。その様子は、
――本当に中学生?
と思わせるほどだった。
自分の友達にこれほどの人がいたんだということにいまさらながらに驚かされた敦子だったが、二人きりになったことで、少し空気が微妙になってきたことも感じた。
――どう話をすればいいんだろう?
彼女の救急車を見送る様子を見ていると、リーダーの方から声を掛けてくれるような気はしなかった。
リーダーの横替えを覗き込むようにして、彼女にこちらの気持ちを気付かせたいという一縷の望みを持ったが、そんなものは必要なかった。
「ビックリしたでしょう?」
と少ししてリーダーが話しかけてくれた。
「え、ええ」
と曖昧イな返事しかすることができなかった敦子だったが、リーダーもすぐに話しかけてくれなかったのは、自分の気持ちを落ち着かせる必要があったからではないかと思った。
確かに彼女は、救急車を見送るまで冷静さで動いていた。冷静さだけだったと言っても過言ではない。そんな自分だから、人と話ができるようになるまで、自分のテンションを高める必要があったのだろう。普通であれば、そこまでの必要はないのだろうが、人命にかかわる緊急事態だったことを思えば、それも致し方のないことのように思えた。
敦子は一人でいる時、そして四人グループの中にいる時には、ネガティブに考えてしまうことが多かったが、数は少ないが、リーダーと一緒にいる時というのは、そのほとんどがポジティブな発想になっていることに気付いた。
――これが彼女のリーダーとしてのオーラなのかも知れないわ――
と感じた。
――私にはできない――
いきなり否定形から考えてしまったのは、いつもの敦子であり、これもネガティブな発想であろう。
だが、それも相手がリーダーであれば仕方のないことで、そう思うと、自分にはできないという考え方も、裏を返せばポジティブなのかも知れないという、不思議な感覚に駆られていた。
「リーダーは、彼がこういう発作を持っていることを知っていたんですか?」
と敦子は聞いた。
「ええ、知らなかったのは、敦子さんだけなんだけどね。ただこれは彼からの要望でもあったの」
「どういうこと?」
「なるべく知っているのは、限られた人間であってほしいってね。でも、もっと親しくなれば自分の方から言いたくなると思う。そんな友達を増やしていきたいんだって」
「そうなんだ。私はまだその域に達していたわけではないのね」
と少し寂しい気分になったが、何となく分かる気がした。
あくまでも何となくであり、それもリーダーの口から聞かされたから分かった気がしているだけで、これが本人や家族以外の他の人から聞かされた話であれば、分かったという気分はなかっただろう。
むしろ、怒りがこみあげてきたかも知れない。今でも怒りがないと言えばウソになる。
――一緒に行動しているのに、水臭いじゃないの――
という気持ちだが、もし敦子が彼の立場だったらと思うと、その怒りの意味が失われていくような気がした。
「でも、彼はそのうちにあなたにも話していたと思うの。今回はタイミングが悪く、症状の方が先に出てしまったようなんだけどね」
「彼は治らないの?」
「そんなことはないわ。元々小児の時の障害が今の状況を生んでいるようで、大人になればこの症状が消えるという可能性もあると言われているわ」
「そうなんだ」
とまたしても曖昧な返事しかできなかった。
――リーダーはまだ何か隠しているような気がする――
と思ったが、それ以上言及する気はその日はしなかった。
その日にしなくて時間が経ってしまうと、もう言及する気にもならなくなった。時間が解決するとよく言われるが、これも解決の一つなのかと思った敦子だった。
ただ、その時からグループ内で少し不協和音が響いたのも確かで、その音は誰が気付くことになったのか、敦子は分からなかった。少なくとも、この四人は、
「永遠の親友」
というわけではなかったということだ。
それだけお互いの距離が微妙だったということであろう。
敦子は彼のことを知らなかったのがグループの中で自分だけだったということが気になってしまった。
――どうして私に教えてくれなかったんだろう?
それを聞く勇気もなければ、聞いたことに対して最悪だった場合は、その重圧に耐える自信もなかった。
このまま、何もなかったかのように自然消滅した方がいいのではないかとさえ思ったほどだった。
彼は翌日何事もなかったかのように学校にやってきた。
「昨日はありがとう」
と一言皆に声を掛けただけで、昨日の話は終わりだった。
――私に何もないのかしら?
昨日のことに言及してほしいとは思わなかったが、せめて病気のことくらいは話してくれてもいいかもと思ったが、考えてみれば自分の口から話すというのも少し違う気がした。
かなり勇気のいることだし、自分のことなのでどのように話していいのか迷うはずだ。
――私が彼の立場なら、何も言えないかも知れないわ――
とも感じた。
しかし、何ともモヤモヤした気持ちが支配していた。自分だけが知らなかったという事実がグループの中での自分の立ち位置が決定したかのような気がしたからだ。
元々の立ち位置が明確になっただけのことのはずなのに、これほどのショックを受けるということは、敦子は少なからず自分が一番端ではないということを自覚していたのだろうか。それよりも野心めいたものがあり、いずれはリーダーになどと大それたことを思っていたのだろうか。少なくとも後者ではなかっただろうと思いたい。
一度響いた不協和音は、そう簡単に切れるものではない。
――本当はこのグループにどまっていたい――
という気持ちと、
――こんなグループ、私の居場所ではないわ――
という気持ちが交差した。
後者は完全に意地によるものだろう。どちらかというと意地を張ると意地つ貫き通すところがある敦子は、一度意地を張ってしまうと、引き返せないところまでいくであろうことは容易に想像がついた。前者は言わずと知れた「未練」だったに違いない。
だが、最初のうちは、意地と未練が交互に頭打ちを行いながら、どちらともつかない結論を模索していたようだ。迷っているうちは、ハッキリと脱退するという意思を決して表に出すことはない。出してしまえば、引っ込みがつかなくなることも分かっていた。
不慮の事故のような形で表に出てしまっても同じことだ。だから気持ちはひた隠しに隠す必要があった。下手に表に出てしまうと、自分の意志に関係のないところで事態が変化していく恐れがあるからだった。
「一進一退の揺れ動く気持ち」
というのが、正直なところであっただろう。
敦子は、ゆっくりであるが、グループから離れて行っていることに気付いていた。それは団体としてのグループというよりも、個人間での感覚であった。グループには確かに所属はしているが、個人個人との付き合いとなると、皆それぞれにぎこちなくなっていったのである。
まずはリーダーであるが、リーダーは彼のあの発作時以来、敦子は余計なことを気にしていることに気遣っていた。しかし、敦子の方が一歩離れたところから近づこうとしないのを見ていると、リーダーもさすがに切れてくるようだった。敦子が徐々に気持ちが離れて行ったのとは対照的に、リーダーの方はギリギリまで我慢していたようだ。それでも我慢できなくなり堪忍袋を緒が切れてしまった状態に至ってしまっては、もう敦子を擁護することも、敦子に気を遣うこともなくなった。
「そんなに嫌なら、どうぞ離れてください」
と言わんばかりの威圧感で迫ってくる。
――こんなリーダー初めて見た――
その威圧感に、さすがの敦子もビビッてしまい、許しを請う気持ちもあったが、時すでに遅しだった。
リーダーの視線は完全に上からの目線で、高圧感が半端なかった。怒らせてはいけない人を怒らせてしまったことを悟り、今まで心のよりどころのようにも思っていた相手が、一番近づきがたい相手と化してしまった。それだけ敦子が彼女に甘えていたということであろうし、彼女も甘えられることを嫌がってもいなかった。だが、それも限度というものがある、切れてしまった堪忍袋の緒を修復することは不可能だった。
――こんなにオンナだったとは――
敦子は、ちょうどその頃、何かの本で読んだのだが、恋愛小説の一場面のことだった。
「これは自分だけの意見で、皆がそうだとは言えないよ」
と前置きを言ったうえで、
「オンナは男と違って、ある程度までは我慢するけど、それを超えるともう取り返しがつかなくなる。しかも、オンナは我慢しているところを決して相手の男性に気付かれないようにしているのよ。鈍感な男性はそんなこととはつゆ知らず、今まで通りの付き合いをしていると、女性は彼が甘えてくることをハッキリと自覚できるようになる。そのうちに、自分がいるから彼が甘えるんだという結論に至ってしまうと、今度は使命感と我慢とで、嫌悪が最高潮に達してしまうのよ。相手がそのことを知った時は、すでに彼女の腹は決まっている。すべてが後の祭りということね」
というと、それを聞いた人は、
「じゃあ、男性は?」
と聞きなおした。
「男性の場合は、ヤバいと思った時には、まず楽しかった時のことを思い出すものなの。だから相手の女性も楽しかった時のことを思い出せば、思いとどまってくれると思うみたいなのよ。男は必至で楽しかった時のことを思い出すように説得する。でも腹が決まった女性側からすれば、相手の言葉は未練でしかない。聞くに堪えないと言ってもいいくらいになってしまうのよ」
というのだ。
「そこですれ違ってしまうのね」
「そういうことね。男と女が距離を一番感じる時と言ってもいいかも知れないわね」
「ついこの間までは、この世で一番近しい相手だと思っていたのに、気がついたら、一番遠い相手だったということになるのね」
「その通りですね。だから男女の関係というのは、近くて遠い、遠くて近いともいわれると思うの。ちょっとしたすれ違いが致命的になってしまうことはよくあることですからね」
敦子はこの話を思い出しながら、男女の中ではないので、いきなりこんなこともないと思っていた。だから徐々に進行していくグループ内の不協和音への違和感も、いつかは収束するものだろうと考えていたのだ。
だが、一度動き始めた歯車を止めることは思ったよりも難しかった。柱時計の振り子がゆっくりと、しかし着実に時を刻むように、まるでそれが当たり前だと思っている自分を無意識のうちに暗示に掛けてしまうのだった。
「そういえば、昔おばあちゃんの家に、柱時計があったわね」
ということを、その時の敦子は思い出した。
まだ中学生だった敦子は、最近までおばあちゃんの家に一年に一度は遊びに行っていた。ほとんどは夏休みだったが、半分は避暑の感覚に近かった。おばあちゃんの家は、近くには入り江になった漁港があり、裏には山が聳えていた。それほど高い山ではなかったが、時々急勾配の場所があったりと、なるべくは近づきたくない場所でもあった。
ただ、田舎としては新鮮で、海や山の自然を満喫できるのは、敦子にも花親にもいい気分転換になった。
おばあちゃんはすでに八十歳近かった。普段は漁港に出ていたが、家にいる時は一人なので、かなり寂しかったに違いない。敦子がくるのを今か今かと待ち構えていて、娘である母親よりも敦子が来るのを楽しいにしていた。
「やっぱりおばあちゃんは、孫なのよね」
と母親も複雑な気持ちだったようだが、それでもおばあちゃんが喜んでくれるのは嬉しいようで、夏休みのこのひと時を当事者皆が楽しみにしていたのは事実だった。
おばあちゃんの家で聞く柱時計の音は、ボーンという時報の音よりも、振り子の触れる音が印象的だった。一定のリズムで刻む音は静かな部屋に反響し、心地よい睡魔を誘ってくるようだった。
デジタルしか経験のない敦子には、柱時計などテレビでしか見たことがなかったが、実際に見て、生で振り子の音を聞くと、これほど新鮮な感じはないと思った。振り子の音こそおばあちゃんの家であり、おばあちゃんの家というと、振り子の音だったのだ。
リーダーとの関係が一気に冷めてしまったのとは対照的に、他の二人とは、それまでになかった絆が生まれているような気がした。しかし、他の二人ともリーダーに気を遣っているようで、敦子に興味を持つことはリーダーを裏切ることになると思って疑わなかったようだ。
リーダーだけが孤立しているようなおかしな雰囲気になってくると、敦子だけが離れて行くというだけでは済まないような気がしてきた。
これに気付いていたのは、他ならぬリーダーだけで、他の二人はそこまで考えていなかった。
リーダーは、
「このままではまずい」
と思ったのだろう。
敦子と話がしたいと言ってきた。
しかし、あれだけ冷徹な視線を浴びせられて、敦子も後には引けない気分だった。もしリーダーが、
「グループのために、また仲良くしてほしい」
などということを言ってきたならば、今度は敦子の方が冷めてしまうに違いなかった。
だが、さすがに彼女は、
「グループのために」
とは言わなかった。
その言葉を言わなかったのは、グループのために和を乱したくないという思いからなのか、それとも額面通り、グループに関係なく、人間関係修復のために戻ってきてほしいという気持ちなのか、敦子には計り知ることはできなかった。
敦子は少なくともリーダーが何らかの修復を目論んでいることだけは分かった。だがその真意が分からないだけに、安易に自分の方から歩み寄ることはできなかった。
そこで考えたのが、少し時間を置くことだった。
ちょっと考えれば分かることなのであろうが、時間を置くという考えをその時の当事者として判断の中に含めるのは容易なことではなかった。
敦子は置いていく時間をどのようにすればいいのかというおかしなことも考え始めた。時間を置くということは、考えながら時間をやり過ごすということであった。考えているということだから、少しは進展したり、後退したりするものであろう。時間が経つということはそういうことである。
しかし、時間を置くということは、時間だけが通り過ぎることであって、その間に考えが変わってしまっては元も子もないことになる。まるでタイムマシンのように、時間だけが過ぎ去ってしまわないと意味がないのだ。
――じゃあ、時間を消せばいいのかな?
と考えたが、時間を消すということがどういうことを意味しているのかよく分かっていなかった。
時間を消すということは、案外無意識のうちに普段からできていることなのかも知れない。
「記憶がなくなる」
というのも時間を消したからではないかと思ったこともあったが、柱時計の振り子の音のように規則正しい時間を消すなど、そう簡単にできることではない。
そう思うと、
――無理に消そうとするのではなく、時間が消えていく状況に身を置けばいいだけなんじゃないかな?
と思うようになった。
時間というのは、放っておいても流れ行く中で消えていくものである。未来が現在になり、現在が過去になる。その間に現在が一瞬だけ存在しているというわけだ。
だが、実際に存在しているのは、その一瞬である現在だけである。時間の流れとまったく同じスピードで進行しているから、人間はすべてを現在として考えることができるのであって、現在以外は別世界のようにしか思えなくなってしまう。
その流れに逆らうことが、
「時間を消す」
ということであろう。
その時に「消えていく時間」という小説を思い出した。
「ある一定の場所で人それぞれで流れる時間が違う」
というテーマだったが、それが喫茶店という閉鎖的だか開放的な場所での話というところが微妙だった。
あの小説が、
「消された時間」
ではなく、
「消えていく時間」
というタイトルだというのも、実に微妙な気がする。
人によって消されたわけではなく、消えていくのだ。それは作為的なものではないように思わせるが、敦子にはどうしてもそこに何らかの作為が働いているように思えてならなかった。小説のタイトルに込められた思い、それは敦子が最終的にグループを抜けることになった最大の理由だったのだ……。
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