第10話
「陽太くんが気付いてくれた些細な違和感を軸にして、事件を順番に紐解いていきましょうか」
生徒指導室内をぐるりと闊歩した美月先輩は、八重樫先輩の背後で立ち止まっていた。そのまま虚空を見つめながら言う。
「末広先生が部室に入った時、八重樫先輩は先生に背中を向けて窓の方を見ていた。でも、それって少し不自然ですよねっ?」
笑顔で意見が求められたのだけれど、八重樫先輩からの返答は無い。末広先生も同様だ。質問の答えが分からないというより、唐突すぎてリアクションが取れないというふうに見える。ある種の無視とも呼べる状況に陥ったことで、美月先生は悲しそうに口をへの字に曲げていた。
二人の代わりに声を返したのは、拍手を早々に切り上げた火之上先輩だ。
「窓から覗かれていると分かったなら、反射的に自分の体を隠そうとするだろうな。着替えの途中なら尚更だ」
美月先輩が安心したように笑みを溢す。
「その通りっ! 八重樫先輩が先生に背中を向けていたこと。詳しく言えば、盗撮犯がいたはずの窓の方に体を向けていたこと。それは少しだけ不自然なんです!」
そして、得意げに胸を張った彼女は唇をペロリと舐め、その栗色の髪を耳に掛けてから、八重樫先輩の耳元で囁いた。
こういう表現は適切か分からないけれど、それは艶っぽくて素敵な所作だった。
「八重樫先輩には、先生の方に体を向けられないような事情があったと考えられます」
「……じ、事情なんてありません!」
逃げるように椅子から立ち上がる八重樫先輩。それは焦燥によるものだろうか。
美月先輩が言及した違和感については、僕もいくらか考えていた。盗撮されていると気付いたのなら、普通は反射的に悲鳴を上げて自らの体を隠そうとするはずだ。ただ、それはあくまでも一般論だから、八重樫先輩には当てはまらなかっただけとも考えられる。だから、その行動自体が盗撮犯の正体や真相に繋がるものとは思えなくて、僕は敢えて口に出そうとは思わななかった。正直なところ、たったそれだけのことが盗撮犯の正体や僕の無実にどう関係してくるのか、と懐疑を伴って首を傾げてしまう。
ただ、美月先輩は八重樫先輩や僕のリアクションを意に介さず、僕のネクタイを軽く摘んでから話を続けていた。
「ところで、盗撮犯が赤いネクタイを締めていたという目撃証言ですけど――。こちらも不自然ですよねっ」
赤いネクタイを目撃したこと。それのどこが不自然だと言うのだろう。
赤が一年生の学年色であるからには、ネクタイが赤いこと自体が不自然という意味ではないはずだ。末広先生曰く、更衣室の床から窓の下端までの高さは百センチ程度。窓越しにネクタイの一部が見えていても不自然ではない。
そんな意味のことを言ってみると、美月先輩は当然というふうに頷いていた。
「そうだね。男子生徒が窓の向こうに立っていたとしたら、その身長と窓の位置を考慮してもネクタイが見えるのは不自然じゃないよ」
「だったら、何が不自然なんですか?」
「ケースバイケースってことっ。今回の場合、窓の向こう側にいたのは盗撮犯なんだよ」
「それが何か?」
「考えてみてっ。窓の外から室内を覗く時、陽太くんならどんなふうに覗くかな?」
あたかも僕にその経験があるような尋ね方をしないでほしい。
室内を覗く体勢となれば、腰を下ろして窓枠から顔を出すというのがベーシックなのではなかろうか。盗撮なんて未経験だから詳しくは知らないけれど、それが一般的なイメージではあるはずだ。
僕は体を縮め、思い浮かべた体勢を示してみせる。
「相手にバレないように、こうやって中腰に……。そうか――」
簡単なことだったのだ。これが違和感だったのだ。
美月先輩も、『そうそうっ!』といった具合に人差し指をピョコピョコさせながら肯定を示してくれている。
「窓から室内を覗き込むような時には、中腰になって目から上だけを窓枠から出すはずだよね。まして盗撮なら、カメラさえ窓枠から出せば良いはずだよねっ。つまり、胸元のネクタイが更衣室内から見えるはずないよねっ」
犯人が最も恐れるのは、自分の罪が明るみに出ること。言い換えれば、盗撮が見つかってしまうこと。室内からネクタイが見えるほど身を乗り出していたとは考えにくい。そんなことをしていれば、どうやったって室内からはバレバレだ。僕が覚えた正体不明の違和感は、ネクタイを目撃したという八重樫先輩の発言に対するものだったのだ。
しかし、それでは八重樫先輩の証言が誤りだったことになる。否、誤りならまだ良い方で、真実はきっと更に悪い。
それから美月先輩は八重樫先輩と向き合い直し、諭すように言ってのけたのだ。
「――盗撮犯なんて最初から存在しなかった。そう考えたら、全ての謎が解決しますね」
突き刺すほどに鋭利な声。それに続けられるはオブラートの片鱗すら無い残酷な台詞。
「全ては八重樫先輩の嘘。違いますか?」
「……ち、違います! 言い掛かりはやめて下さい!」
盗撮犯が存在しなかったのなら、全てが解決するのは事実だ。すぐに後を追ったはずの末広先生が盗撮犯の姿を目撃していないことも、特別棟の窓が全て施錠されていたことも、僕に盗撮の容疑が掛けられていることも、僕以外に容疑者がいないことも、その全てが取るに足りない事象へと成り下がる。盗撮犯の存在自体が嘘だったのなら、怪しい人物なんて見つからなくて当然だ。
八重樫先輩は強い口調で否定しているけれど、その体はガタガタと震えていた。彼女が手を置いているテーブルも、それに合わせてガタガタと揺らされている。
「……本当に盗撮犯を見たんです! そもそも私には、そんな嘘をつく理由がありません!」
「理由ならあるじゃないですかっ。八重樫先輩が末広先生に体を向けられなかったこと。それこそが嘘をついた理由に繋がりますよね?」
嘘という言葉に反応して向けられるのは、末広先生の冷たい視線だ。
「どういうことかしら?」
「先生が更衣室に入ったタイミングで八重樫先輩が盗撮犯を目撃した、というのは間違いです。先生が前触れもなく更衣室に入って来たから、八重樫先輩は盗撮犯を見たという嘘の証言をするしかなかったんですっ」
「なぜ?」
「スマートフォンですよ」
八重樫先輩の両肩が、ビクンと跳ねた気がした。
「八重樫先輩がスマートフォンの通知音に怯えていた、と聞いてピンと来ました。八重樫先輩は自分のスマホを校内に持ち込んでいたんだと思います。彼女が先生に背を向けていたのは、自分の体でスマホを隠すため。そう考えれば、盗撮犯を見たと言う嘘の証言をしたことにも筋が通ります」
途中、美月先輩は僕の方に顔を向けて、『よく気が付いたね』とでも言うふうにウインクをしてくれた。
僕の半端な観察力も、少しは役に立っていたらしい。
「スマホを隠し持っているからこそ、末広先生のスマホが鳴った時、自分のスマホが鳴ったのではないか、自分がスマホを持っていることがバレるのではないかと反射的に怯えていたんですよね」
「……違います。私は本当に――!」
千切れてしまうそうな勢いで首を横に振る八重樫先輩。長い髪が乱れ、バサバサと微かな音がする。
「では、私の推理を否定して下さいっ。どこがどう間違ってますか?」
「……違うものは違います!」
「論理的に否定できないなら、それは認めているのと同じことですよっ」
八重樫先輩の存在自体を否定するかの如く、その息の根を止めるかのように、この一件の全てを口にする美月先輩。
その顔は神々しいくらいに美しかった。
「八重樫先輩は、校内に自分のスマートフォンを持ち込んでいました。さらに、更衣室で着替えながらスマホを操作していましたっ。その時、困ったことに末広先生が更衣室に入って来てしまったんです。それは最悪のタイミングと言うべきですねっ。当然、先輩は焦ったでしょう。スマホが先生に見つかれば没収される上に、内申点にも影響が出るかもしれません」
彼女は言葉に合わせて先生に背中を向けている。当時の状況を再現しているつもりなのだろうか。
「スマホを隠すような動きを見せれば、先生に怪しまれてしまいます。着替えの途中だったそうなので制服を着ておらず、ポケット等に隠すこともできなかったのでしょう。スマホを隠し通すためには、自然な流れで先生を更衣室から遠ざける必要があった。だから、八重樫先輩は盗撮犯がいたと叫んだんですっ。末広先生なら盗撮犯を追いかけて更衣室から出て行くだろうと考えたから――」
実際、先生は窓から校舎外へ出て盗撮犯を探している。思惑通りの結果となっている。
つまりところ、八重樫先輩は僕の顔を見て盗撮犯だと証言した訳ではない。盗撮犯を目撃したという嘘に真実味を持たせるために、赤いネクタイを見たと証言した。そして、偶然にも僕の名前が容疑者として挙がってきたから、盗撮犯だと言い張った。そんなふうに考えられる。
八重樫先輩にとって、僕の顔なんてどうでも良かったのだ。一年生であれば誰でも良かったのだ。偶然にでも怪しい一年生が見つかれば、無条件でその一年生を盗撮犯だと言い張る心積りだったのだろう。何とも理不尽なトラブルに巻き込まれてしまったものだ。
「……それも言い掛かりです」
「それでは、身体検査をさせて下さいっ。鞄の中も見せて頂けると助かります」
八重樫の表情が固まる。
「盗撮事件が起きたとなれば、先生たちが更衣室やその周囲を見て回るはずです。隠しカメラの類いが設置されていないか、隅々まで調べて回るはずですっ。それは八重樫先輩にも分かっていたはずなので、スマホを更衣室の周辺に隠したり置いてきたりすることはできなかったはずです。通知音に対する反応から考えても、今も肌身離さずスマホ持っていますよねっ?」
スマートフォンが見つかれば、ある程度は有力な証拠になり得る。八重樫先輩の度量によるところも大きいけれど、言い逃れる術が無いわけではない。ただ、美月先輩の推理が現実味を帯びる。それだけの話だ。
「八重樫さん。どうなのかしら?」
当然の流れで、末広先生が睨みを効かせた。
数秒に渡る沈黙の後、八重樫先輩が嗚咽に近い声で言った。
「……っ。……日野さんが言ったことは、全て正しいです。嘘を吐いてすみませんでした――」
彼女は制服の内ポケットから桜色のスマホを取り出して先生に差し出した後、深々と頭を下げていた。
言い逃れる道が見つからなかったのだろうか。それとも、スマホがバレた時点で言い逃れる意味は無いと判断したのだろうか。どちらにしても、自白が勇気を消費する行為であることに変わりはない。クオリティの低い言い訳を無意味に続けなかったことに関しては賢明だと思う。
眉間に皺を寄せた末広先生は溜め息を吐きなから、指先で長机の天板をトントンと叩いている。それは怒っているのだろうけれど、声を荒げないところが逆に怖い。
「謝って許されるような嘘じゃないわね。スマートフォンの持ち込みが禁止されていることだって、もちろん理解していたはずよね?」
「……理解していました。でも――」
「でも?」
「……っ」
噛み締める様に空気を飲み込んだ後、八重樫先輩は言ったのだ。
「……イジメの証拠を撮りたかったんです」
予想外の言葉だった。
教員である末広先生にとっても、おそらくは衝撃的かつセンシティブな単語だったのだろう。『イジメ』と聞いた途端、彼女の指の動きがぴたりと止まった。
「――どういうことかしら?」
立場上、冷静を装ってはいるようだけれど、先生の顔には焦りの色が見えている。
先生は窓枠を飛び越えて盗撮犯を追いかけるくらいに正義感の強い人だから、イジメを黙認する類いの腐った教諭ではないと思う。だから、彼女がイジメについて聞かされるのは、これが初めてなのだと思う。
「……先生はご存知無いと思いますが、バレー部にはイジメがあります。私は……、それを辞めさせたくて……。でも、誰にも相談できなくて……。こっそり証拠の動画を撮って加害者たちと交渉すれば、イジメなんて辞めてくれるんじゃないかと思って――。だから、やっと撮れたその動画が入ったスマホを没収されたくなくて……。そう思ったら、咄嗟に嘘を吐いてしまって……。それが
八重樫先輩の瞳から溢れるのは大粒の涙。
直後、火之上先輩からは舌打ちが飛び出していた。それは、イジメという行為や加害者たちへの不快感から生まれたものだと思う。美月先輩に至っては、手で口元を押さえながら床にへたり込んでしまった。多少の違和感を覚えるくらいには過度なリアクションに見えたから、彼女には何かしら思うところでもあるのだろうか。
正直、イジメについての真偽は分からない。八重樫先輩に嘘の前科がある以上、彼女の言葉を簡単に信じることはできない。でも、僕には八重樫先輩の涙が嘘だとは思えなかった。それはきっと、末広先生も同じなのだ。
先生は八重樫先輩を落ち着けるように背中を摩りながら、火之上先輩に視線を送っていた。
「私は八重樫さんから詳しい話を聞くわ。貴方たちには感謝してる。でも、貴方たちはもう帰りなさい。盗撮の件については、私から学校の方にちゃんと報告しておくから」
「ふざけないで下さいよ。八重樫先輩の言葉が本当なら、俺がイジメの件を校内新聞に書いてやりますよ。そうすれば、その加害者たちだって大人しくなる。一番簡単な解決方法です」
「ダメよ。そんなことできないわ」
「どうして――」
「八重樫さんを守るためよ」
流石の火之上先輩もお手上げなのだろうか。
小さく「分かりました」とだけ答えると、美月先輩の腕を引っ張って立ち上がらせた。そのまま出入り口の方へつま先を向けている。だから、僕もその後ろに続いた。
「月島くん。疑って悪かったわね。本当に申し訳ないわ」
「いえ。僕は別に――」
背後から追いかけて来たのは、そんな末広先生の声。八重樫先輩も泣きじゃくりながら、何度も何度も頭を下げてくれている。
基本的には年上が嫌いな僕だけれど、後輩である僕らにも敬語を使ってくれる八重樫先輩のような人なら、そこまで嫌いだとは思わない。僕は生徒指導室に呼び出されただけで、大きな迷惑を被った訳ではない。
唯一、新聞部という面倒に巻き込まれてしまったのだけれど、それは八重樫先輩の責任とは言い難い。僕が新聞部の二人に絡まれてしまったことが原因だ。結果だけ見ると、八重樫先輩に対して僕が怒るべき不利益なんて何一つとして生じていない。
八重樫先輩は、僕を盗撮犯だと断言しなかった。そして、八重樫先輩の最優先事項はスマホを隠すことだった。だから、スマホさえ安全な場所に移したなら、彼女は明日にでも盗撮は勘違いだったと証言してくれるつもりだったのではなかろうか。僕の願望も混ざった推測なのだけれど、僕はそう思いたい。
僕の無実の証明してくれたのは美月先輩の推理だ。それは間違いない。でも、八重樫先輩の言うイジメに関しては、何の解決もしていない。推理なんて無力だ。観察なんて無意味だ。
やっぱり、僕は謎解きが【嫌い】だ。
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