第8話
「初めから話すわ。うちの女子バレー部は部員数が極端に少ない。だから、数名の新一年生が入部してくれたことが嬉しかったらしくて、部員たちが練習着に着替えながら大騒ぎをしていたのよ」
部員数が少ないのなら、新入部員の獲得で大騒ぎをするというのも珍しい話ではないだろう。
「更衣室の外まで騒ぎ声が漏れていたから、私は生徒たちを注意するために更衣室へ入った。私が入って来たことに驚いたようで、ほとんどの生徒は此方に視線を向けていたわ」
不自然な点はない。更衣室という一種のプライベートスペースに突然教諭が現れたとしたら、生徒なら誰だって驚くだろう。そして、反射的に視線をそちらへ向けるだろう。
末広先生は、途中で八重樫先輩の方を一瞥する。
「ただ、着替え中だった八重樫さんだけは私に背を向けていて、更衣室の入り口とは反対側にある窓を見ていた。焦った口調で『カーテンの隙間から赤いネクタイの誰かが覗いていました』、『スマートフォンで盗撮していました』、『校庭の方へ逃げて行ったから追いかけて下さい』と叫んだのよ」
つまり、他の生徒たちは入り口付近に立つ末広先生に視線を向けていたから、入り口とは反対側に位置する窓なんて見ていなかった。当然、その窓の向こう側にいたという盗撮犯にも気付かなかったと――。
微小な違和感はあるけれど、それが何かの手掛かりになるとは思えないから、わざわざ言及する意味もないだろう。その後の状況についても尋ねると、先生から愚問とでも言いたげな答えが返って来た。
「私はすぐに盗撮犯を追ったわ。大急ぎで廊下に出て、更衣室の隣にある進路相談室に入った。そしてその部屋の窓を開けて、窓枠を乗り越えて校舎裏に出た」
窓枠を乗り越えて犯人を追ったなんて、なんともアグレッシブな先生だ。その行動力には脱帽する。
更衣室の窓からではなく隣の進路相談室の窓から外へ出たのは、着替え途中の女子バレー部員たちに配慮してのことだと思う。盗撮犯が目撃された直後だということもあり、更衣室の窓を無防備に開け放つ訳にはいかなかったのだろう。
「盗撮犯が目撃されてから遅くても十秒後には、私は進路相談室の窓から校舎裏に出ていたはずよ」
「それなら、盗撮犯を捕まえるのも簡単だったんじゃ――」
流石は体育科教師。たった十秒で隣の部屋まで行き、その部屋の窓枠を乗り越えて外へ出たとは恐るべき身体能力だ。徒競走もお手のものだろう。
ただ、先生は残念そうに首を振っている。
「いえ、盗撮犯には逃げられてしまったわ。この学校の敷地は高い塀で囲まれているから、それを登って校外へ逃げたとは考えにくい。つまり、盗撮犯は更衣室や進路相談室とは別の部屋の窓枠を乗り越えて、校舎裏から特別棟内へ逃げ込んだことになるわね」
先生の発言を鵜呑みにするなら、盗撮犯は特別棟の内部という予想外な場所への逃亡を図ったらしい。逃走経路として、予め近くの部屋の窓でも開けておいたのだろうか。
ただ、『逃げ込んだことになる』という不自然な言い方が引っかかる。先生が盗撮犯を追ってその後ろ姿を捉えていたのなら、盗撮犯が窓から特別棟へ入る瞬間を目撃しているはずなのだ。そうであるならば、『ことになる』なんて可能性を含むような言葉は使わないだろう。
だから、念のために聞いておいた。
「先生は盗撮犯の姿を見ていないんですか?」
「ええ。見ていないわ」
「それなら特別棟の中ではなく、普通に校舎裏を走り抜けて校庭の方へ逃げて行った可能性もありますよね?」
「それはなんだ無いわね。特別棟の外周に沿って逃げていたとしたら、それこそ私には盗撮犯の後ろ姿が見えていたはずだから」
「……どういうことですか?」
「八重樫さんの証言では、盗撮犯は校庭の方へ逃げて行った。でも、バレー部の更衣室は特別棟一階の角部屋にあるのよ。そこから校庭の方へ逃げるとしたら、特別棟校舎の長辺を外壁に沿って真っ直ぐ走り切ることになるわ。校舎裏は見晴らしの良い直線通路になっているから、もしも盗撮犯が走って逃げていたのなら、私にはその後ろ姿が見えていたはずなのよ」
この高校の建築物は不必要に大きい。特別棟についても、長辺が百メートルほどある長方形の校舎だ。その角部屋に位置する更衣室を覗いていた盗撮犯が校庭の方へ逃げたのなら、校舎の長辺を外壁に沿って端から端まで走り切ることになる。また、その周辺はコンクリートで綺麗に整備されていて見晴らしが良く、身を隠せるような遮蔽物もない。だから、すぐに後を追ったはずの末広先生が逃げて行く盗撮犯の姿を見ていないとなると、その盗撮犯は窓から特別棟内に逃げ込んだとしか考えられない。そういう話らしい。
盗撮犯が発見され、それを追いかけた先生が進路相談室の窓を乗り越えて外に出るまでの十秒弱で、約百メートルの距離を走り切るのは不可能だ。盗撮犯がオリンピックで金メダルを獲得できるレベルの陸上選手であれば話は別なのかもしれないけれど、流石にそれは無いと考えていいだろう。
ただ、他にも逃走ルートは考えられる。
「盗撮犯は特別棟内へ逃げ込んだ後、また別の窓から特別棟の外へ逃げて行ったとも考えられますよね?」
「それもあり得ないわね。状況が落ち着いた後に数人で確認して回ったけど、特別棟一階の窓は全て施錠されていたわ。それに、職員用の昇降口にいた警備員さんも怪しい生徒は見ていないと証言した」
これは有益な情報だ。
校内の窓に取り付けられているのはクレセント錠だから、外部から施錠するのは不可能なのだ。特別棟内に逃げ込んだ盗撮犯が別の窓から出たとするなら、その窓は開錠された状態になっているはずだ。校舎内へ逃げ込んだ際に窓を内側から施錠することはできても、校舎外へ出た後に外側から窓を施錠することはできない。つまり、全ての窓が施錠されているからには、盗撮犯は特別棟の窓から逃げた訳ではない。
窓以外で特別棟一階から脱出するルートとなれば、階段か職員及び来賓用の昇降口くらいのものだけれど、昇降口の方にはセキュリティとして警備員が常駐しているらしい。その監視を掻い潜って外に逃げたと考えるのは無理がある。
「盗撮犯を見失った時点で、私はもう追いかけようがないと思ったわ。だから、再び窓枠を乗り越えて校舎内に戻った。でも、そのタイミングで三年生の
三年生ならネクタイの色は緑色。八重樫先輩の証言と矛盾するから、容疑者からは外れる。
「土生君は職員室へ行く途中で八重樫さんの大声を聞いて、何事かと駆け付けてくれたらしいわ。彼に事情を話したら、すぐに特別棟内の階段を確認するべきだと言われた。後から窓の鍵を見て回ったのも彼の提案よ」
その
「特別棟には北階段と南階段があるわ。でも、北階段は放課のタイミングからワックスがけをしていて全面通行禁止。もし誰かがそこを通ったなら、乾燥前のワックスに足跡が残ったはず。でも、そんな足跡は無かったわ。その場でワックスがけをしていた用務員さんに聞いた話でも、放課後になって北階段を通った人物はいなかったそうよ」
「それなら、北階段の方は無視して良さそうですね」
「ええ、そうね。そして幸いにも、南階段では二人の先生が掲示物の張り替えを行っていたわ」
おっと。これはもしかして――。
「掲示物の張り替えを行っていた先生――、美術科の佐伯先生に話を聞いたところ、その時間帯に見かけた一年生は月島陽太君だけだと証言されたのよ」
ようやく佐伯先生の名前が出てきた。そして、ここまで聞けば佐伯先生の正体も分かる。
特別棟の南階段で掲示物の貼り替えを行っていた佐伯先生。それは間違いなく、音楽室への道中で僕が出会したオールバックの先生だ。彼にはクラスと名前を聞かれた上でお説教をいただいたのだから、僕の名前が知られていることも頷ける。つまるところ、僕に盗撮の容疑がかけられているのは、あの入部テストを解いて音楽室に行ってしまったせいではないか!
やっぱり、謎解きなんてするべきではなかった。案の定、碌なことにならなかった。
「私と土生君で階段を押さえた後、他の先生方に協力を仰いで特別棟の一階を捜索してもらったわ。十人以上で手分けして、人が入れそうなスペースは隅々まで探した。窓の鍵を確認して回ったのもこの時ね。結果としては、特別棟の一階から怪しい生徒は一人も見つからなかったわ」
特別棟の二階には一般棟に繋がる渡り廊下があるのだから、それを通って一般棟の方へ逃げられていたら探しようがない。だから、探しても無駄。そういう意味で二階は調べなかったのだろうか。
でも、佐伯先生がいたのは特別棟の二階から三階へ上がる階段の踊り場だ。一階から二階へ上がる階段ではない。要するに、佐伯先生の証言だけで僕を疑うのは間違っている。
「盗撮犯は二階のどこかに隠れていたんじゃないですか? もしくは、南階段を使って特別棟の一階から二階へ上がった後、渡り廊下を通って一般棟の方へ逃げて行ったんじゃないですか? その二パターンなら、佐伯先生が盗撮犯を見ていなくても不自然ではありませんよね?」
「そうね。だから、それを含めて尋ねたいのだけれど、月島君は渡り廊下や特別棟の南階段で盗撮犯らしき生徒を見かけたのかしら?」
渡り廊下でも階段でも、僕は他の生徒なんて見かけていない。それらしい足跡すら聞いていない。
そして僕は無実なのだから、嘘を吐くメリットなんてありはしない。
「誰も見かけていません」
「それなら、盗撮犯は一般棟の方には逃げていない。併せて、あの時間帯に一階から二階へ階段を上った生徒は君以外にはいなかったと断言できる。それが土生君の考えよ」
また土生先輩の入れ知恵だ。
でも、それは話が飛躍しすぎているのではなかろうか。僕が盗撮犯を目撃していないだけで、どうして僕以外に階段を上った生徒はいなかったなんていう無茶な結論に至るのだろう。そもそも、僕は特別棟の階段を一階から二階へは上っていない。
「ちょっと待って下さい。僕以外に階段を上った生徒がいなかったなんて、どうして分かるんですか?」
「特別棟の一階と二階を繋ぐ南階段には、物理科の遠藤先生がいたからよ。彼も佐伯先生を手伝って掲示物の整理をしていたんだけれど、すれ違った一年生の他には階段を上った生徒はいないと言っていたわ。すれ違った一年生というのは月島君のことでしょう」
三度、遠藤先生というのは僕の知らない教諭だ。
でも、話の流れから推測するに――。
「遠藤先生というのは、大きめの黒縁眼鏡を掛けた若い男性でしょうか?」
「ええ。そうよ」
僕が特別棟の階段で出会した二人。それは、オールバックの方が美術科の佐伯先生。黒縁眼鏡を掛けていた方が物理科の遠藤先生だったらしい。
ただ、それが判明したところで状況は合わない。
「僕が遠藤先生とすれ違ったのも、二階から三階へ上がる階段です。一階から二階へ上がる方の階段ではありません」
「それも聞いているわ。佐伯先生が掲示するはずのポスターが遠藤先生の手元に紛れ込んでいたから、彼はそのポスターを佐伯先生に手渡そうと階段を上ったそうなのよ」
「つまり、そんな遠藤先生を数秒遅れて追う形で、僕が階段を上って来たと?」
「まさにそうね。遠藤先生が持ち場から離れたのは、その数秒間だけだそうよ。その数秒間に一階から二階へ上った生徒がいたのなら、遠藤先生がその生徒に気が付かなくても仕方ない。けれど、その数秒間というのは月島君が二階から三階へ階段を上ろうとしていたタイミング。もし一階から二階へ上ってきた生徒がいたのなら、月島君自身がその生徒を目撃しているはずだけど……」
――僕は、それらしい生徒を見かけていない。つまり、その時間帯に特別棟の南階段を使って一階から二階へ上がった生徒はいない。
僕が数秒早く、もしくは数秒遅く階段を上っていたのなら、遠藤先生が僕の無実を証言してくれていたことだろう。でも、そうはならなかった。
第三者からすれば、僕が一般棟から渡り廊下を通って特別棟の二階・三階へ行ったのか、特別棟の一階から階段を順に上って三階へ行ったのか、その辺りの判断が付かないのだ。他の容疑者が見当たらない以上、これでは僕が盗撮犯になってしまう。
それは最悪のタイミングだ。僕は最悪のタイミングで階段を上ってしまったのだ。
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