第3話

「俺は集合場所に行ってくる。ヨタも行くか?」


 僕が左手首のデジタル腕時計に目をやると、午後三時五十五分二十秒と表示されていた。六限目の授業まで乗り越えて帰りのホームルームを終えた直後、興奮気味の瑛人が僕に声を掛けてきたのだ。

 僕は、よっこいしょと学生鞄を背負いながら答える。    


「校庭には行かないよ」

「もったいねえな。せっかく美人な先輩と仲良くなれるチャンスなのに!」


 僕は結局、昼休みに導き出した入部テストの集合場所を瑛人に伝えなかった。授業合間の休憩時間をはじめとして、それを伝えられるチャンスはいくらでもあったと思う。でも、僕が考え過ぎているだけで、瑛人の出した答えの方が正しいという可能性もある。自分の発言に責任が持てない以上、彼を惑わすような情報を口にするべきではない。なにか行動を起こすなら、自らの考えに従うべきだ。そう思った。

 そう思ったからこそ、勇み足で教室から出ていく瑛人の背中を見送ってから、僕は入部テストの答えを確認するべく歩き出したのだ。


 この学校――私立枢木高校は、県内でも上位の偏差値を誇る進学校である。しかし、近年では定員割れギリギリの合格倍率を叩き出しており、『自称進学校』と揶揄されることも少なくはない。他校にも自慢できるような美点と言えば、校舎が綺麗で小洒落ている点くらいのものだろう。

 有名な建築家による設計という付加価値も含めて名物扱いされているその校舎は、体育館を除いて大きなものが三棟も聳え立っている。

 各クラスの教室が下層から学年の若い順に並ぶ一般棟、職員室や美術室などの特別教室が設置された特別棟、文化系部活動の部室が集められた部室棟。それらは特別棟、一般棟、部室棟の順に二階の渡り廊下で繋がっているため、各校舎を行き来するには一般棟や渡り廊下を必ず経由しなければならない。

 吹き抜けと天窓が多用された構造により、陽当たりの良さと開放感には定評がある。ただ、不要と思えるほどに広い敷地も相まって、校舎内の移動は些か不便に感じられる。

 現に、僕が一般棟一階の教室から階段を上って渡り廊下へ移動しただけで、ゆうに一分三十秒が経過していた。途中ですれ違った同級生たちと挨拶を交わしたことによるタイムロスも含まれているのだけれど、それでも一つ上の階に移動しただけとは思えないほどの時間が掛かっている。広すぎるのも考えものだ。

 辿り着いた渡り廊下から校庭を見下ろせば、十数名の一年生が国旗掲揚台の近くに集まっている様子が見てとれた。担任教師の匙加減でホームルームが早めに終わるクラスもあるそうだから、既に校庭へ出ているのは僕とは違うクラスの同期生たちなのだろう。彼らが紙を片手に彷徨っていることから考えても、新聞部の入部希望者とみて間違いない。あの入部テストには具体的な位置までは記されていないから、運動部の邪魔にならない場所で固まっているらしい。瑛人は見当たらない。どこかで油でも売っているのだろうか。

 そんな諸々を確認した後、僕は再び歩を進めた。

 例の集合時間まで、残り時間は六分強。いくら校舎が大きいとは言っても、時間的には少し余裕があるはずだ。ただ、僕は目的とする部屋が特別棟の三階にあるらしいと曖昧に覚えているくらいで、詳細な場所までは把握していない。要するに、そう悠長にもしていられない。だから、小走りで渡り廊下を通過して特別棟へ足を踏み入れ、その二階から三階へと続く階段へ――。

 そうして踊り場に差し掛かったところで、運の悪いことに教諭と思しき男性二人と出会でくわしてしまった。大きめの黒縁眼鏡を掛けた若い男性と、髪型をオールバックで決めたスマートな中年男性だ。

 黒縁眼鏡の若い先生は僕と入れ替わるようなタイミングで階段を下りて行ったのだけれど、問題なのはオールバックの方。


「君、クラスと名前は?」

「一年一組の月島陽太です。すみませんでした」


 階段を走っていたことを注意され、入学早々にクラスと名前を控えられる大失態。控えめに言って最悪だ。

 去り際、そのオールバックから「どうして走っていたんだ」と尋ねられたので素直に答えると、「君が目指している部屋なら三階の突き当たりだ」という有益な情報をいただけた。ただ、怒られたことを踏まえるのなら、差し引きはマイナスと言わざるを得ないだろう。走っていた僕が全面的に悪いのだけれど、できることならお説教なんて受けたくはなかった。

 そうこうしている内に、残り時間は数十秒。

 僕は三階の奥へと進んで頭上の室名札を確認してから扉を開け、その部屋へと滑り込む。

 同時に響くは美しい声――。


「よかった! 誰も来てくれないのかと思ったよ!」


 僕の視界に飛び込んできたのは、窓際に佇む小柄な女子生徒の姿だった。その容姿としては、日本人には珍しい程に鮮やかなライトブラウンの瞳が印象的。窓から射し込む淡い陽に照らされて、尚更そう見えているのかもしれない。胸の高さまで伸びた栗色の髪はふわりと波打ち、彼女の可憐さを引き立てている。清楚や美少女という在り来たりな言葉を使わなければ、彼女を上手く表現することができない。そう考えてしまうくらい、それらの言葉がピタリと似合う人だった。

 制服の胸元に映えるリボンの色は青。女子生徒のリボンや男子生徒のネクタイについて、三年生は緑、二年生は青、一年生は赤という学年色が定められているこの高校では、彼女が二年生であることが表されている。


「――あれ? そこの新入生くん? 聞こえてる?」


 不覚にも見惚れかけていた僕は彼女の声で我に返り、平静を取り繕って声を返した。


「すみません。聞こえてます。新聞部の部員さんですよね?」

「そうだよっ! 新聞部副部長、二年四組の日野美月ひの みづきです。よろしくねっ!」


 瑛人曰く、枢木高校一の美人。凄腕の名探偵。それ即ち、まず間違いなく僕の眼前に御座おわす彼女のことだ。そこには有力な証拠も根拠もない。僕の感想から派生しただけの決め付け。それでも、この人以上に美人と呼ぶに相応しい人が存在するなんて、僕には一縷の想像もできなかった。

 僕が返事を途切らせたせいで不自然な間が空いたからか、その名探偵は大きな目をぱちくりさせて不思議そうに首を傾げている。

 だから、僕は再び何でもないふうを装って言ったのだ。

 

「一年一組の月島陽太です。初めまして、日野先輩」

「そんなに畏まらなくても大丈夫だよっ! 堅苦しいのは苦手だから、私のことは気軽に『みーちゃん』って呼んで!」


 いっぱいの可愛らしい笑顔を溢す名探偵。

 何か返事をしなければと、僕は反射のように首を横へ振っていた。


「いえ。そんな馴れ馴れしい呼び方はできません」

「えー……。それなら、せめて下の名前で呼んでもらえないかなっ? 敬称は君には任せるから!」

「まあ、それなら――」

「はい、決まりね!」


 そして、彼女は咳払いをしてから僕の肩を人差し指でちょんと弾き、潤んだ唇をゆったりと動かすのだ。


「改めて、新聞部員として話をさせてもらうね。君がここに来た理由を教えてもらえるかな?」


 彼女から手渡されたのは、見覚えのある文章が印刷された紙。瑛人が持っていた物と同じ内容が記された入部テストの問題用紙だ。


「これの解説をしろってことですか?」

「そうっ! 理由まで答えられてこそ、謎を解いたって言えるからね!」


 僕は少し息を吐いた。


「すみませんが、一つだけ訂正をさせて下さい。僕は謎なんて解いたつもりはありません。友人のためにヒントを探していたら気になる点があって、それを確かめに来ただけです」

「ふふっ。答えに辿り着いたのなら、それは立派な謎解きだと思うけどね!」


 彼女の嬉しそうな言葉に反論できず、そそくさと目を逸らし、僕は逃げるような形で入部テスト用紙を指さした。

 そして、ゆっくりと解説のような行為を始めた。


「最初に注目したのは、『頭を使うことを推奨する』という文章でした。本文の頭文字を使うという意味で捉えると、四文字の単語が出てきます。横読みってやつですね」


 一行目の『これは入部テストである』の頭文字は『こ』、二行目の『うら寂しい』は『う』、三行目の『呈してくれる』は『て』、四行目の『いくらかでも』は『い』。順に読むと――。


「こうてい。四行の頭文字を横読みするなら、集合場所は校庭って意味になるね」


 美月先輩は僕の台詞を取り上げるように言ってから、更に言葉を続けた。


「でも、陽太くんは校庭じゃなくて、この教室に来た。どうしてかな?」

「答えが校庭だとしたら、四月一日という日付が不自然です。一見すると文書を作成した日付のようにも思えますけど、この文書が作成されたのは四月一日ではありません」

「ほうほう。どうしてそう思ったの?」


 彼女は左手を軽く握ってマイクの形を作り、インタビュアーのように差し出てきた。僕は少し身を引いて、その強引なインタビューに答える。


「日付の隣に、部長さんが所属するクラスが書かれていたからです」

「クラス? それが日付とどう関係するのかな?」

「四月一日は始業式よりも前の日付。つまり、新二年生にとっては春休みです。その時点では新学期の新しいクラスを知っているはずがありません」


 入部テストにもあった通り、今日の日付が四月十四日。瑛人によると、上級生の新しいクラス分けが発表されたのは八日前。つまりは四月六日。四月一日では日付が合わないのだ。

 マイク代わりの拳を僕と自身との間で忙しなく動かす美月先輩は、然も初めて気付いたかのように声をあげる。


「ほんとだぁっ! そう言われると、この日付は少し不自然かもしれないね!」

「はい。そこで考えました。四月一日が文章を作成した日付ではないなら、本当は何を意味しているのか」

「おおっ! なにを意味しているのかな?」

「四月一日はエイプリルフール。嘘をついても許させれる日。つまり、『頭を使うことを推奨する』というヒント自体が嘘だという意味です」


 大切なのは、隅付き括弧の位置。頭を使うことを推奨するというフレーズは、四月一日という日付と同じ括弧内に存在していた。明らかに括弧の位置が不自然だ。格好を付けるための装飾として、無意味な括弧を付けている訳ではないだろう。何の理由も無しに括弧を使うはずもない。これは、括弧内の文章が嘘であるという意味に違いない。本当の集合場所を隠すためのミスリードに違いない。


「そして、もう一つ。『もとい』という言葉の使い方も気になりました」


 僕が言うと、美月先輩はわざとらしく素っ頓狂な顔を見せてきた。面白いくらいにコロコロと表情の変わる人だ。


「どう気になったの?」

「『もとい』というのは、話している内容をその場で訂正する際に使用する言葉です。要するに、文章中に使われているのは不自然です」

「うーん。それくらいなら、ただの誤用っていう可能性もあるんじゃないかなぁ?」

「勿論、その可能性も少しはあります。でも、日本語をシビアに扱うはずの新聞部が、謎解きと銘打った文章でここまであからさまな誤用や誤植をしたとは考えにくい」


 美月先輩は口元を押さえてふふっと笑う。


「そうだね。その誤用のせいで、偶発的に他の答えが生まれちゃうと困るもんね」


 僕は頷いた。

 仮に『温言』を『苦言』に訂正したいだけなら、『温言もとい苦言を呈してくれる』なんて書かず、『苦言を呈してくれる』とだけ書けば良かったはずだ。パソコンという修正が容易なツールで作成した文書なら尚更のことだろう。

 つまり、『もとい』は不自然さを演出するための目印として敢えて使用されている。それならば、温言を苦言に訂正すること自体が謎解きのメインだと考えられる。


「『もとい』という言葉が意図的に使われていると気付いたら、新たな集合場所が見えてきました。温言おんげん苦言くげんに訂正――」

「その言い方だと、ちょっと違うんじゃないかな?」


 彼女から笑顔で指摘され、僕は咳払いを返した。

 入部テストにも追伸として書かれていたのだ。『女子には我が必要』だと。『』には『』が必要だと――。


「そうですね。少しだけ言い回しを変えます。温言おんげん苦言くげんに訂正されているんですよね」

「へへ。そうだね」

「要するに、『温』『苦』に訂正されている。集合場所が校庭というのは嘘で、温が苦音楽に訂正されている」


 笑顔で拍手をした美月先輩は、思い出したかのように口を尖らせる。


「でもさでもさ、音楽だけなら音楽室とか音楽準備室とか、複数の場所が考えられるよね? 限定が取れてないと思うけど?」

「いいえ。音楽室だと明言されていました」

「えー? どこに?」


 彼女は顎に指を置いて考える素振りを披露したつもりなのかもしれないけれど、ニマニマと笑みが溢れてしまっている。これでは正解と言われているようなものだ。


「追伸の『必要なのは質のみである』という文章です。これは、音楽以外には『しつ』だけが必要という意味ですよね」

「と、おっしゃいますと?」

「必要なのは『しつ』のみ。『準備』という余計な言葉は要らない。だから僕は、この音楽室に来たんです」


 言い切って、僕はぐるりと周囲を見渡した。

 光沢を放つピアノ。楽譜に用いられる五線が刻まれた黒板。ギター等の楽器が収納された巨大な棚。眼光鋭い偉人たちの肖像画。先ほど出会ったオールバックの先生に尋ねた場所。

 僕が集合場所として辿り着いたのは、この音楽室なのだ。

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