第21話 後編

 自分は今、何をやっているんだろう。


 鼻孔いっぱいに広がる牛脂と醤油、そして酒と砂糖が焼き焦げる匂い。


 真希子は複雑な気持ちのまま、好物であるすき焼きを食べながらそう思っていた。


「はい、焼けたよ。どんどん食べていいからね」


 レイが笑顔で差し出した肉を受け取り、溶き卵に絡めて食べる。旨さに顔がほころびそうになるが、複雑な心境と自分だけがいい思いをしていいのかという罪悪感から、無表情のままに食べる。


「よかった、真希ちゃんすき焼き大好きなんだね」


「え?」


 心臓を握られたかのように驚くと、真希子は小鉢を落としそうになった。


「だって、美味しそうに食べてるもん。よかった、すき焼き嫌いだったらどうしようって思ったから」


 レイが屈託のない優しい笑顔でそう言うと、真希子は再び罪悪感が芽生えてくる。確かに彼女に殺されそうになったが、今は自分を一人の被害者として心配し、面倒まで見てくれている。


 久しぶりに、父親以外に与えられた優しさが乾いて傷ついた心に沁み込んでいた。


 それが、嬉しさと罪悪感が合わさり真希子は複雑な思いが渦巻いている。


「はい、どんどん焼けるからね。ご飯もあるから、いっぱいお替りしていいからね」


 レイの裏表のない純粋に自分を気遣ってくれる優しさに、戸惑いながらもまずは空腹を満たすために真希子はすき焼きを食べることに決めた。


「ちょっとレイちゃん、俺も肉食べたい」


「年齢順! まずは若い子から先に食べるの! 荘龍我慢できるでしょ!」


「いや、我慢は出来るけど俺だってすき焼き大好きなんだよ! 俺も食べたいの!」


 荘龍は自分が食べられないことに抗議するが、レイは意に介さず、真希子へと肉を提供し続ける。


「それに真希ちゃんあんなに怖い思いしたんだよ。だから、まずは真希ちゃんがお腹いっぱいになるのが優先だからね」


「いや、怖い思いさせたのは絶対レイちゃんでしょ」


 そう呟くと、レイは荘龍を怒りの表情で睨みつける。


「荘龍も怖い思いしたいんだったら、素直にそう言ってくれていいんだからね。私は一向に構わないんだから」


 真希子は初めてレイと対峙した時の殺気に当てられ、思わず肉が喉に引っかかった。


「もちろんそんなつもりは毛頭も……って、レイちゃん!」


「あ、真希ちゃん大丈夫!」


 慌ててレイは喉につっかえた真希子に水を飲ませる。


「ごめんね、いきなり殺気なんか出しちゃって」


「平気です」


 こんなに優しいはずなのに、レイの殺気は心臓によろしくない。猛獣ですら服従させるどころか、自害させかねないほどの殺気は心臓を素手で掴まれるようであった。


「全然大丈夫じゃないじゃん、めっちゃ腕ふるえてるじゃんか」


 表情こそ表に出していないが、真希子の腕は振るえていた。間違いなくレイの殺気に当てられて怯えてる。


「ごめんね、私そんなつもりなかったんだから! ごめんね! ごめんね!」


 レイは慌てて真希子に抱き着いて必死に宥め始めた。


「レイちゃん、パイ殺させようとするのやめようね」


「え?」


 勢い余って、自分の巨乳で真希子の顔面を圧迫させていることに気づくと、レイは素早く真希子の頭から手を離した。


「本当にごめんね真希ちゃん! 私、昔から勢いでなんでもやっちゃうから!」


 土下座して詫びるレイだが、真希子は顔を真っ赤にしながらぽーっとしている。想像以上に柔らかく弾力があるレイのHカップに圧迫されたからだろう。


 その心地よさを誰よりも分かっている荘龍はニヤニヤしながら眺めつつ、こっそりと自分の肉を焼いて食べていた。


 自分で作るすき焼きは世界で二番目に旨い。


「ちょっと荘龍! なんでフォローしてくれないの!」


 世界で一番おいしくすき焼きを作ってくれる奥さんの声に、荘龍は仕方なく箸を置く。


「だってそれぐらいはレイちゃんが何とかしてくれるかと」


「私また真希ちゃんに迷惑かけそうになったじゃん! っていうかもう迷惑かけちゃったじゃん! そういう時にさりげなくフォローしてくれるのが優しい旦那様じゃないの?」


「いや、最後のはご褒美でしょ」


 ねえ、と言うと真希子は顔を真っ赤にしたまま荘龍から目を逸らす。


 どうやら図星だったらしい。自分ですら気持ちいいと思ってしまうのだ。不快になるとすればせいぜい窒息の心配ぐらいだろうが、ほんの数秒なのだから問題ない。


「優しくない旦那様嫌い! 荘龍もうすき焼き食べちゃだめ!」


「ええ!」


 とんでもないワガママが飛んでくるが、それもご愛敬だ。


 そう思えてしまう時点で自分は完全にレイの虜になっていると、荘龍は自覚させられてしまうが、できればほんの少しだけ優しくしてほしいと思った。


「今日のすき焼きはね、真希ちゃんに食べさせるために用意したんだから、荘龍はついでだってこと認識しなきゃダメだよ!」


「あはは、僕ついでなんだ」


「そうだよ! 年長者なんだからちゃんとしてよね!」


 それは弁えているつもりではあるが、普段は自分を愛してくれているという気持ちしか伝わってこない奥さんに、ここまで袖にされていると何とも言えない侘しさを感じてしまう。


 子供ができたらレイは優しい母親になるだろう。


 だが、優しい奥さんではなくなってしまうのではないだろうか?


 今も真希子相手にレイは丁寧に肉を焼き、野菜を食べさせ、ご飯をお替りさせている。


 普段は自分が丸ごと受けている恩恵を、そっくりそのまま他人が感受しているのを見ると複雑な感情を持ってしまう。


 嫉妬こそしないが、荘龍はほんの少し子供を持つことが不安になってきた。


「だけど、子供は欲しいんだよな」


 ぽつりとつぶやきながら、自分が作ったがごめ昆布とめかぶの醤油漬けを口すると、懐に入れていた業務端末が鳴り響く。


「ちょっと出てくるわ」


 いたたまれない空間から抜け出し、荘龍はベランダに出た。


「お休みのところすいません」


 レイが可愛がっている土岐百枝の声に、荘龍は思わずニヤッとしながら口直しの葉巻を口にする。


「いいや、いいタイミングだったわ。ところで、この時間帯で電話するってことは結果出たってことだろ?」


「はい」


 荘龍は密かに、モモに対して一つの頼み事を行っていた。モモが心を読めない黒崎真希子という少女について、ある調査をお願いしていたのであった。


「結果は?」


「残念ながら黒です」


「あらら、あの子の名前通りじゃん」


 モモが呟いた答えは荘龍がある程度予想していた答えでもある。それだけに荘龍はあまり驚かなかった。


「隊長、もしかして予想してました?」


「一応な。あんな時間帯に中学生の女の子が出歩いているの、ちょっと不自然だと思った。後、お前さんが心読めない時点で結構ヤバい奴よ」


 念動力系の能力者であるモモは、相手の心を読むテレパスとしての力に長けている。


 その彼女が心を読めないのは、念動力者や元素系能力者、そして霊能者であるが、それは極めて力の強い者となる。


 それだけに、モモの力が通用しないというのは下手に心を読むよりも相手の情報を引き出すことが出来た。


「このこと、レイさんに伝えますか?」


「いいや、俺から伝えるわ。とりあえず御苦労さん。今度なんか奢ってやるよ」


 簡潔に連絡を終えると、荘龍は葉巻を一気に吸い上げ、盛大に煙を吐き出す。


 紫煙が夜空に浮かんでいく光景を眺めながら、予想していた悪い結果をどうやってレイに伝えるか、荘龍は悩んでいる。


 黒崎真希子、彼女が吸血鬼であるという事実を。

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