第7話

 それはたった一日ぶりのことであった。


 群馬からの帰路にしても、彼女は不機嫌な顔のまま外を眺めており、一言もしゃべらずにいた。


 声をかけたくても、火に油を注ぐ結果になると思うと怖くてできず、結局家に帰るまで顔、特に目を合わせることが出来ずにいた。


 昨晩は仕事で遅くまで働かされ、寝室は別々。おまけに顔を合わせるのがものすごく気まずいということで、彼は早朝に仕事に向かったほどである。


 つまり、上杉荘龍は昨日から愛妻である天城レイ、本名上杉レイと昨日から一回もまともに目と目を合わせることすらなかった。


 そして、まともに体を抱きしめることすらもなかったのだが、今、荘龍はふらっと立ち寄った喫茶室でレイに抱きしめられ、潤んだ瞳を向けられていた。


 上質の翡翠の如く一切の濁りもない瞳は、いつ見ても心を吸い込まれそうな気持ちになり、アプリコットブロンドのウェーブがかかったロングヘアが絡んでくると、体と心まで鷲掴みにされているようになる。


 自分から抱き着いてくるのを見ると、とりあえず嫌われてはいないようだ。

 

「ど、どうしたのレイちゃん?」


「奥さんが旦那様に抱き着いちゃだめ?」


 声まで潤んでいると、どうやら怒ってはいないらしい。


「ダメじゃないし、むしろスゴイ嬉しいんだけど、とりあえず外行くか?」


 夫婦別姓にしているのは、いちいち結婚していることを職場で突っこまれるのが面倒だからであるが、それを行動で示してしまえば本末転倒になる。


 それを危惧して二人は保安局を出て、近くの公園に向かい、ベンチに腰掛けた。


 数少ない喫煙エリアでもあるため、荘龍は気持ちを落ち着かせるために葉巻を取り出す。


「荘龍、私にもちょうだい」


「いいよ」


 荘龍はレイにヘッドをカットして、ロメオ・イ・ジュリエッタを渡すと、レイが口に咥えると火を付けてやった。


 レイは深く吸い込むと、大量の煙を吐き出して表情が緩んでいく。どうやらリラックスはできたことを確認すると、荘龍も同じくジュリエッタを咥えこみ、紫煙を吐き出す。


「葉巻っていいね」


「だね、リラックスできるわ」


 どうやら奥さんが怒ってはいないことを知った荘龍も、落ち着きを取り戻すことが出来た。


「荘龍、もしかして私の事嫌いになった?」


 レイのとんでも発言に、荘龍は煙が思わず気管に入って盛大にむせ込んだ。


「な、なんでそんなこと言うわけ?」


「だって、昨日から目も合わせてくれないじゃない。ベッドも別々だし、朝もチューしないで一人でそそくさとさ、出勤しちゃったじゃん」


 気づけばレイの目は完全に潤んでいた。庇護欲を求める愛玩動物のような姿に荘龍は思わず抱き着きたくなるが、あえてそれを我慢した。


「それは、その、ものすごく気まずいというか、むしろレイちゃんの方が怒ってるんじゃないかと」


「怒ってないよ!」


 怒りを否定しつつも、怒っているという矛盾した態度を取るが、感情のぶれが大きいレイにとってはある意味当たり前のような行動である。


「でもさ、草津から帰る時に一言もしゃべらなかったじゃん。車の中でも、ずっと窓の外見てたし」


「だって、だって、荘龍が用意してくれた旅行パーにされたんだよ。しかも、お風呂から出た後でラブラブするはずだったのに。あのクソ親父と陰険サングラスのせいで、東京まで戻る羽目になったんだよ! そんな状況なのに、荘龍の顔みたら言いたくないけど文句言っちゃうかもしれないから、必死に我慢してたの!」


「ああ、そういうことですか」


 自分に八つ当たりしたくないから、顔を合わせないように気遣ってくれていたらしい。レイは感情の浮き沈みが激しく、優しい時はとことん優しいが、怒る時とはとことんまで怒るし怖い。


 自分でもそれを自覚しているからこそ、あえて荘龍に怒りを爆発させたくなかったのだろう。


「はあ……」


 荘龍は深くため息をついた。


「え、どうしたの?」


「こんな優しい、奥さんの気持ちに気づけなかった自分の未熟さに呆れてる」


 彼女を好きになったのは5歳の頃にまでさかのぼる。16歳の頃に男女の仲になり、紆余曲折を経て、四年前に結婚して今に至る。


 結婚期間は四年だが、出会ってからはすでに二十年も経過している中で、自分の未熟さに荘龍は穴があったら入りたい心境になった。


「俺は未熟だ!!!!」


「そんなことないよ」


 再びレイが抱き着いてきた。しかも今度はさりげなくバストまで押し付けてきている。傍から見られるとセクハラしているようにも見えるが、夫婦なのだからセクハラには当たらない。


「荘龍はいつだって一生懸命でさ、誰かのために戦える立派な人で、私の自慢の旦那様だよ。私のことも、ものすごく大切にしてくれるし」


「レイちゃん……」


 抱きしめたくなったが、荘龍はギリギリ理性で耐える。すると、レイが睨んできた。


「やっぱり私のこと嫌いなの?」


「え?」


「なんでハグしてくれないの!」


 やってしまった。レイは文字通り天使にも悪魔にもなれる。しかも一瞬でだ。そこが可愛いのだが、ちょっと悪手だったかもしれない。


「レイちゃん、俺たち最後にラブラブしたのっていつだっけ?」


「えーと、五日前」


「そうだよね。つまり、俺たち五日もしていないんだよ」


 その言葉にレイの全身に電流が走る。五日間も荘龍としていないという現実にショックを受け、葉巻を落としそうになった。


「今ここで、レイちゃんのこと全力で抱きしめたら俺、理性完全に吹っ飛んでここで青姦しちゃうかもしれないよ。それは流石にマズイでしょ」


「それはマズイ」


 五日間もしていないというのは、四年間の結婚生活の中で最長記録である。それだけに、荘龍は自分の中の欲望と必死に戦っていた。


「だからさ、お楽しみは今日の夜にしようよ。俺、午後から半休取ってるからさ。掃除とか洗濯とか全部終わらせて、ご飯も作るから」


「え、荘龍半休取ってるの?」


「まあ、いろいろな手段使ってな。だからさ、レイちゃんも取ってそのまま家でラブラブするっていうのはどうよ?」


 荘龍の提案にレイも理性が吹っ飛びそうになった。五日間していないこと。今から明日の朝までエンドレスで楽しめること。


 何より、愛しの旦那様が提案してくれたことにレイは葛藤する。


「……ごめん、ちょっと半休は無理」


「なんで?」


「対吸血鬼用の装備の準備しなきゃいけないから。調整だけすれば、後は私以外でもできるけど、調整は私しか適任者がいないの」


 荘龍は思わず頭を抱える。対吸血鬼用の装備の調整は、レイ以外でもできるが、レイ以上に完璧な調整をできる者はいないのである。


 そのことを荘龍は完全に失念していた。


「ホントの事言うとね、私も今すぐお家帰りたいし、荘龍とラブラブしたいよ。でもね、私にも私の仕事があるからさ、それをやってからでないと」


「だよな……」


 レイは仕事に対しては生真面目だ。だから、荘龍はこの時点で奥さんを説得して無理やり家に連れ込むという選択肢を捨てていた。


 その代わり、荘龍は第二の選択肢を実行に移すことにした。


「しゃーない、んじゃ俺だけ先に帰るけど、掃除とか洗濯とかは全部済ませておくね」


「え?」


「ついでにご飯も作っておく。やること全部やって、済ませた後に、レイちゃんとラブラブするっていうのはどう?」


 一緒に帰れない場合、先に自分だけが帰宅して家事を済ませ、レイと一緒と一緒に食事をした後にラブラブする。


 これが荘龍が考えていた第二の選択肢だ。これならば全く問題がないはずである。実際、レイは目を輝かせていた。


「旦那様好き! 最高! 私のことそんなに大切に考えてくれたの!」


「そうだよ。奥さんのこと真面目に考えなきゃダメでしょ。特にさ、世界一愛している奥さんなんだからさ」


「えへへ」


 葉巻を持ったままレイはキスしようとしてきたが、荘龍は回避し、強引にレイの両肩を掴む。


「レイ、それはお家で楽しもうぜ」


 荘龍は甘く、とろけるような口調で耳元で囁く。普通にしゃべってもとろけるレイの心は、今完全に溶け切っていた。


「ふぁ、ふぁあい」


「その代わり……」


 荘龍はレイの吸っている葉巻と、自分が吸っていた葉巻を交換する。


「これで我慢してね」


「う、うん」


「んじゃ、俺は先に帰るわ」


 荘龍はそのまま本部へと戻る。


「やばいな、レイちゃんのフレーバーがするわ。最後のキスはたばこのフレーバーがしたとかいうけど、来るねこれは」


 葉巻についたレイのフレーバーだけで、荘龍は欲情しそうになる。キスを夜まで取っておいたのは賢明な判断だったと痛感した。


 ちなみに荘龍の奥さんであるレイだが。


「そ、荘龍の葉巻すごいよ! 荘龍の唾液の味がする。美味しいよ!!!」


 荘龍の葉巻で完全にトリップしていたのであった。

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