第17話 気づかなかったでしょ?

 今日のところは、その場で伊刈いかりさんとは別れた。まだ僕たちが入部するわけでもないし、悩みの解決方法が見つかったわけでもない。


 帰り道を歩きながら、時鳥ときとりさんが言う。


宿木やどりぎ会長の言っていた伊刈いかりさんの悩みというのは、あの手の震えのことかな……」

「そうみたいだね」

「だとするなら、解決は難しいよ……」


 だろうな。

 僕たちはカウンセラーでもなければ、心理学を学んでいるわけでもない。


 ただの高校生。それだけ。伊刈いかりさんより1年長く生きているけれど、解決方法は見つからない。


「気持ちはわかるんだけどね……私も、似たようなものだし」

「……? 似たようなもの?」

「うん。私の場合、人前で文字を書くと手が震えるの」僕が驚いた顔を見せると、時鳥ときとりさんは笑う。「気づかなかったでしょ? 先生と相談して、黒板に文字を書くのはしなくて良いことになってるからね」


 まったく気がつかなかった。まさか時鳥ときとりさんにもそんな悩みがあるなんて……


「気づいてないだけで、みんな悩みは抱えてるの」なんだか時鳥ときとりさんが大人に見えてきた。「少しずつお互いに譲歩して、お互いに気を使い合って……そうやって生きてるの。人間はできないことがたくさんあって……それを認めあって生きてる」


 人前で演奏ができない。人前で文字が書けない。


 いろいろな悩みや問題を、相談したり助けを借りたりしながら解決していく。それが生きるということ。


「人間にできないことがあるのは当然なの」時鳥ときとりさんは僕より一歩前を歩く。「できないことを認めないと成長できないんだよ。他人のことも……そして、自分のこともね」


 できないことを認める……それこそが成長の一歩だということか。


 ならば……


「なら、伊刈いかりさんは……」

「うん。自分のできないことを、しっかり認められてるから……きっと大丈夫」


 自分の弱みを認めるというのは結構難しいことで、実行できている人は少ない。


 謙遜することは簡単だ。だけれど、正当な自己評価による弱みを見つけるのは難しい。


 自分はできるはずだと思いたい。自分はできないはずだと思いたい。そんな考えがどこかにある。


 有能だと思いたい。同時に無能だと思いたい。そんな相反する矛盾した感情が、どこかにある。


 僕は哲学的な話が好きだ。だから、今の時鳥ときとりさんの話は、なかなか興味深かった。


 とはいえ、哲学的な話だけで解決できないのが現実というもの。


 ……


 なんとかして、伊刈いかりさんの悩みを解決しないとなぁ……


「キミはやっぱり優しいね」


 突然、時鳥ときとりさんがそんな事を言い始めた。


「なにが?」

「初対面の人のために……そこまで真剣になる人は少ないよ」

「……そう?」それは時鳥ときとりさんの交友関係が狭いだけでは……「そんなことないと思うけど」

「……」彼女は笑顔で、「キミは変わらないなぁ……その調子じゃ、覚えてないんだろうね」

「……なにを?」

「私がキミに惚れた理由」それは……お人好しなところ、だったのでは? 「まぁいいや……いつか話すよ。お礼も言わないといけないし」


 お礼と言われても……まったく心当たりがない。


 僕はいったい、彼女に何をしたのだろう。


 傷つけてなければ良いけれど。

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