第16話 ナイフで

「終わりました」しばらくして、教室の扉が開いた。「どうぞ」


 彼女に招かれて、僕たちは再び音楽愛好会の教室に入った。


 僕たちの通っている教室より、少し古いだろうか。窓の1つにヒビが入っていて年季が伝わってくる。


 その中に、ピアノが1つ置いてあった。グランドピアノではない……少し小さめのピアノ。アップライトピアノ、というやつだろう。


「改めまして」彼女な軽く礼をして、「音楽愛好会部長の、伊刈いかり春見かすみです。1年生です」


 名乗られてしまったので、僕たちも軽く自己紹介を済ませた。


 それにしても……伊刈いかり……伊刈いかり春見かすみ


 なんだかどこかで聞いたことがある名前だった。


 ……


 ああ、思い出した。


 入学式で一部の男子に話題になっていた子だ。噂を聞いたことがある。


 今のところこの学校のアイドルは時鳥ときとり子規しき宿木やどりぎ黒百合くろゆりの2人だった。その2人が二大巨頭だったのだ。


 もしかしたら三大巨頭になるかもしれない、との噂だった。


 メガネで小柄で巨乳で……さらになかなか強烈なキャラクター。すでに一部の男子たちの間で、人気が出始めている。それが伊刈いかり春見かすみという少女。


 そんな彼女が部を作ると言い出したら、誰かが寄ってきそうなものだが……なぜ部員が彼女1人なのだろう。


「もしよかったら……」彼女――伊刈いかりさんはカバンの中からプリントを取り出して、「入部しませんか? 部員が足りなくて部になれない状態でして……」

「そうなんだ……」一応……彼女のことは知らない前提で話そう。「でも、僕は楽器とか弾けないんだけど……」

「それでも良いですよ。というより、そういう人のために作った部活なので」


 楽器が弾けない人のための、音楽愛好会?


「名前の通りです。音楽を愛していれば、それで良いんです。楽器を弾けなくても良い。ただ音楽が好きならそれで良いんです」

「ふぅん……」僕はプリントを読みながら、「アニメソングが好きとか……その程度でも?」

「もちろんです。好きに序列なんてありませんから」好きに序列はない……なんだか名言な気がする。「詳しくなくても良いんです。得意じゃなくても良い。好きなことと詳しいこと、得意なことは違いますから」


 好きだからといって得意とも限らないし、詳しいとも限らない。


 なるほど……だから音楽愛好会なのか。本当に……音楽が好きというだけで入部できる部活なのか。


 なんだか納得しそうになったのだが……


「というのが、建前の理由です」建前なのかよ。「本当は……私が楽器が弾けないから作ったんです。ここで、練習したくて」

「……楽器が弾けない……?」なんともおかしなことを言う人だ。「でも……」


 さっきの見事な演奏はどうなのだろう。あれは、彼女が演奏したものじゃないのだろうか。


「人が目の前にいると、手が震えるんです」そこで、彼女は悲しそうに笑う。「視界の中に人がいなければ、なんてことはないんですけどね……」


 それから、伊刈いかりさんは語り始めた。


「昔の話です。小学生の時に、ちょっとしたコンクールに出て……自分ではうまく弾けたつもりだったんですけど……」


 伊刈いかりさんは深呼吸をする。手が震えるほどのトラウマを話すのだから、かなりの勇気がいるのだろう。


「審査員の人が……『ヘタクソのくせに、うまいつもりなのが鼻につく』って言ってました。『まるで人をナイフで滅多刺しにしてるみたいな、激情に任せた演奏』とも言われました」


 そんなこと、小学生に言うことじゃないだろうに。


 コンクールで全力を尽くした子供相手にそんなことを言うなんて……人の心がないのだろうか。


「それ以降……人前で演奏しようと思うと手が震えます」言って、伊刈いかりさんは鍵盤に手を置く。「こうやってピアノを前にするだけで、心臓がドキドキして……」


 静かに鍵盤が1度だけ鳴らされた。それだけで彼女の手は震えていて、伊刈いかりさんの話が嘘じゃないことを告げていた。


「いつか治る。いつかまた前のように演奏できるようになる……そう思い続けて、高校生になっちゃいました。それでリハビリを兼ねて、音楽愛好会を作ったんですけど……なかなかうまくいかないものです」


 ……


 なるほど。これが彼女の悩みか。宿木やどりぎ会長の言っていた伊刈いかりさんの悩みというのは、この手の震えのことらしい。


 ……


 なんとも無理難題を、押し付けてくれたものだ。

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