67. 竜也の変化(2)
竜也は、再び考え始めたのだ。
キリスト教は「愛」の宗教であり、そのことにこだわり過ぎるのはイケナイこと。
「愛」の前に必要なものは「知恵」なのである!
「知恵」の無い「愛」は上手くいかない。
そうなのだ、怖いのは「溺愛」なのである。
「ハッキリ言います!」
「知恵」の宗教とはなんだ?
「仏教」に違いないのである。
「仏教」こそが、人類の知恵の集約なのである!
では「日本神道」とは?
「祀って当たり前」の日本の創生の古代からの「神」である。
話しは変わるが、「戦い」では、常に「明るい」方が勝つのである!
「日本神道」はどこまでも明るい!
あと、必要なものは「自信力」だけなのである!
そこまで考えると竜也は、静子に話しかける。
「日本の中心は、確かに天皇陛下の精神であること」
「全ては心の展開であること」
静子と自分は「会うべくして会った」ということ。
偶然は無いということ。
そして「日本村」の大切さ。
良い意味でも悪い意味でも日本は「村社会」なのである。
その「村社会」を「フォースの戦士たち」は壊しかねないのだ。
いやもう壊れ始めているのだ!
ヨーロッパやアメリカの「個人思想」は確かに素晴らしい!
しかし、日本は「和」の国であり「チームワーク」が大事とされてきた。
未だに、スポーツでは「チームプレイ」は、得意だが「個人技」では今一つなのだ!
このことでも、日本の「事無かれ主義」がうかがえる。
チームの勝利のために、全力を尽くす。
「自己」を捨て、「仲間の勝利」に貢献するのだ。
助け合うという精神の素晴らしさ。
この素晴らしい「村社会」は、実は「天皇制」が背景にあるのだ。
「日本国を一つにまとめあげる存在なのだ」
もう「存在の愛」なのである。
しかし、「村八分」という言葉がある。
つまり、「火事」と「葬式」の時しか助けないという意味だ。
やられるとかなり、厳しいし苦しい。
そうならないように、最大限の注意を払う。
そこから「対人関係」の厳しさが生まれてしまう。
「対人恐怖症」が日本人に多いのはこのことが原因だ!
そこまで話すと竜也は黙り込んだ。
実は竜也は普通な頭脳の持ち主なのだ。
なぜ、竜也がジャンクマンになるのか?
そうなのだ!
「祭り」の必要制なのだ!
竜也にとって「村社会」は完全に破壊されていた。
大酒飲みの父による日々の蛮行、家に居場所が無い思い……。
アルコールと父親に対する憎しみの塊となって行った。
「狂う」条件が揃っているのだ。
「祭り」というストレス解消が必要なのだ!
ようするに竜也にとっての「村祭り」だったのだ。
その父親を「許した」のである。
と言うより、「自分を許した」のである。
そうなのだ、自分で自分を許すことから始めなくてならない。
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