おんぶ





 一比古いちびこが本当に怖い思いをしたみたいに泣くから、途端に申し訳なくなった。『妖怪と人間』といえば、力のない人間は食べられるか、祟られるかの二択だと思っていたのに、介抱してくれて、こんなに身体を心配してくれるなんて……。



 そんなにも大切なのだろうか?その、『お姫様おひいさま』は。

 そして、そんなに私に似ているのだろうか?




 私は、意識的に深く、大きな呼吸を繰り返すようにして、ゆっくり上体を持ち上げた。地面に座り直し、未だ泣いている一比古の背中を恐る恐るさすった。ふわふわしてるのかと思ったけれど、一比古は着物を着ているから、毛の感触は分からず、人間より高い体温がじんわり伝わってくるだけだった。人の背中の感触とは違う、一比古の背中をゆっくりさすっていると、顔を上げて私を見た。






咲耶さくや様もお優しいのですね」





赤い目を涙でキラキラさせて、そう言った。私が泣かせたのに『優しい』なんて、バツが悪かった。返答に困って、二人地べたに座ったまま、暫くぼんやりしていた。一比古は、私の息が整うのを待っていたし、私は一比古が落ち着くのを待っていた。

 屋敷を飛び出した時には、高かった陽が、今はてっぺんを越えて傾いてきているようだ。






一比古いちびこ、正直に話して欲しいんだけど、帰り方を知ってる?」





一比古が落ち着いてきたのを見計らって、私は極力穏やかに尋ねた。一比古は一度私の顔を見ると、また顔を元に戻して、目の前の空を見つめてる。





「……正直に申し上げますと、私は存じ上げないのです」

「じゃあ……帰れないの? 絶対に?」

「……」




 一比古は、少し考えて、ゆっくり口を開いた。






「帰れる……のかも、しれません」

「!? 本当っ!?」

「はい。時々、人の子がこちらへ迷い込む事があります。妖ものの中には、人の世とこちらを行き来する者もいるとか。咲耶様が仰られた通り、来られたという事は、帰る事も可能なはず。……ただ、私は何処から行き来できるのか、何か制約があるのか、知らないのです」

一比古いちびこは、行き来できないの?」

「はい。それに、桜桃は、少々特殊な場所で、直接人の世と繋がる事は殆どありません」

「え、じゃあ私は……」

「咲耶様は、特別なのです」





そう言うと、一比古は、足元の小石を拾って、地面に図を描き始めた。端が少しだけ重なるように大きな縁が二つ並んで描かれる。片方の円の重なっている部分とは、反対側の円の中により小さい円をまた描いた。




「この二つ大きな円が人の世と、この世です。人の世はこちら。中に何も描いていないほうですね。そして、こちらの円の中の端に描いた小さな円が、桜桃おうとうさとです。この世の中でも特殊な場所で、神の世に近い場所なのです。」

「神の世?」

「山神様達のお住まいの地です」



確かに、山神って言ってたなと思った。確か、名前の話をした時だ。




「その、この世っていうのは、あの世の事なの?」

「あの世?」

「死後の世界ってやつ」

「いいえ! いいえ、違います。ここは生者の国ですよ。死後の世界ではありません」




どうやら、私は死んでしまって、こちらへ来たわけではないらしい。





「じゃあ、やろうと思えば、帰れるんだ……」

咲耶さくや様、帰れるかもと申しましたが、今まで迷い込んだ人の子が帰ったという話は聞いた事がありません。私では力不足ですので、主様ぬしさまとお話しされるのが宜しいかと」

「主様……」




 倒れる前、ぽろぽろと涙を流したイケメンを確か主様と呼んでいたなと思い出した。人の泣いてるところを見てしまったという気まずさが蘇ってくる。それと同時に、私まで寂しいような気がしてきてしまった。




「主様は、とても聡明なお方です。きっと正しい知恵を授けてくださいます」




主様に聞けと言われても、気まずい場面に遭遇した上に、ここの妖怪達の主で、妖怪達曰くお婿さん。そんな人に『ここに居たくねぇ! 帰りてぇ!』は、言いづらい。

 その時、風がびゅっと強く吹いて、すぐに止んだ。



「主様!」



風が止んだ瞬間だったと思う。隣の一比古が素っ頓狂な声を上げると、それに答えるように笑い声が聞こえてきた。声のした方を見れば、あの人が立っていた。




「休憩かい?ずいぶん遠くまで走ったね」




一比古がサッと姿勢を正して深々と頭を下げた。




「主様、申し訳ありません」

「一比古、面をお上げなさい。人の子の世話をお前一人に任せきりにして、申し訳なかった。大変だったろう」

「滅相もございません。一比古の力不足で、お姫様おひいさまの脚に傷が……」

「おや」



主様が目を丸くして、私の脚を見る。私は一比古が怒られやしないかと心配になって慌てて、弁明しようとした。




「ちょっと擦りむいただけだから!痛くないし!すぐ治る!一比古のせいじゃないの。私がふざけてて転んだから」

「咲耶様……」

「一比古の言う事を聞かなかったせいよね。ごめんなさい。だから、一比古は全く謝る必要ないし、何も悪くないから」



主様の目を見返しながら、ハッキリ言うと、主様はキョトンとして、目をパチクリさせた。私の言わんとしてる事が分かったのか、そうじゃないのか分からないが、急に笑み崩れ、声を上げて笑うものだから、今度は私の方がキョトンとしてしまう。





「なんとまぁ、強気な人の子だ」





主様は愉快そうに笑うと、座り込む私の前まで歩いてきて、くるりと背を向けてしゃがんだ。





「え?」

「怪我をしているのだろう?おぶさりなさい」

「…………い……いやいやいやいやいや!」

「はははははは。ほんに元気な人の子だ。それほど大きな声が出るなら大丈夫だろうな」

「いや! おかしいって! おんぶはおかしい! それにさっきから大丈夫って言ってるのに」

「これこれ、私を侮ってはいけないよ。お前の言う通り、身体は大丈夫だろうが歩いて帰るのは辛いのだろう。怪我だけの話じゃない、疲れて動けぬ事くらいお見通しじゃ」

「だからって、なんでおんぶなの」




25歳にもなって恥ずかしい!



「人は動けぬ時、こうしてお互いを運ぶのだろう?」


何とも言えない自信に満ちた顔で、主様は言った。



「それは、子供の時の話で」

「恥ずかしがらずとも良い。お前を知る者がいない土地で、強がっても仕方あるまい」

「……」





『お前を知る者がいない土地』


 何となく避けていた表現をズバリ使われて、続く言葉を見失ってしまった。暫くの沈黙。一比古も、主様も誰も何も言わなかった。急に忘れていた不安が戻ってきたように怖くなって、寂しくなって、悲しくなって……。




“あー、どうしよう。泣いてしまいそう”





 鼻の奥がツーンと痛むのも、目の前が滲んできたのも悔しくて、半分はヤケだったかもしれない。私は大きく息を吸い込んで止めると、主様の背中にタックルをするようにしがみついた。主様は、『おっ!』と驚いたような声を上げたけれど、体幹が強いのか、全くグラつかなかった。主様は、私をキチンと持ち直すと、立ち上がった。






「さぁ、ゆっくり帰ろうか」




言うと、本当にゆっくりと歩き出した。

 



 私が鼻水と涙で、着物を汚しても何も言わなかった。グズグズといつまでも拗ねた振りをしながら、一比古と主様の他愛ない話を聞いていた。






一比古いちびこ、今日は矢筈やはずが久しぶりに白米を炊くと言っていたよ」

「それは、楽しみですね」

「夕餉を皆で囲むのも久しいな」

「はい。……主様」

「ん?」

「楽しゅうございますね、主様」

「ああ、楽しいなぁ」









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