逃亡
「お
「小野といいます。
「ほぉ、小野咲耶様。サクヤとは……美しい山神様と同じ名前ですね」
「山神……?」
「はい。ここは、豊穣の山『
「豊穣の……」
“いやいや! それどころじゃない!”
喋る白うさぎも、ビックリすぎる設定も、うっかり受け入れかけていたが、それどころではなかった。何かを言いかけたまま、固まった私を見て、一比古は首を傾げた。
「咲耶様? どうされました?」
「帰らなくちゃ……」
「え?」
一比古の『え?』は無視して、布団から飛び起きると、頭がクラクラした。一日寝ていたと言っていたから、そのせいだろう。
「さ、咲耶様、どちらに?」
「とにかく、私の家へ……家族のもとに帰りま……いたっ!」
激しい頭痛だ。あまりの痛みに、思わず頭を手で押さえた。
“家へ帰るって……どこだっけ? どんなだっけ?”
自分の事なのに、ここへ来るまでの事がどうにも思い出せない。家族の顔も、家の場所も、何をしていたかも、全く思い出せなかった。自分の状況に不安になって、呼吸が苦しくなる気がした。気持ちばかりが焦る。
「咲耶様? 大丈夫ですか?」
「帰りたいんです」
私を心配して出された一比古の手を避けるように身を引きながら、食い気味に言った。
「ここが何処だか分からないけれど、帰りたいんです」
一比古は、手を引っ込めると、少しだけ考えるように黙ってから、ゆっくり口を開いた。
「申し上げにくいのですが、……人の世へ、お返しする事は出来ませぬ」
「え……」
「咲耶様は、主様の元へ嫁がれた身ゆえ、此方の一存でお帰り頂くわけには行きませぬ。天が決められた事です」
一比古の言う事が上手く飲み込めない。嫁がれた?天が決めた?
その間も頭は痛いし、不安感は増していく。なんとか意識を保とうと、私は自分に言い聞かせるように、ゆっくりはっきり宣言した。
「私、帰るよ」
「しかし、大切な
「私は! 私は、誰と結婚した覚えもないし、人間だし……」
「咲耶様、落ち着いてください」
頭痛は相変わらずだけど、少しずつ慣れてきたので、ゆっくり立ち上がる。
「咲耶様?」
「人は、人の世に帰ります。嫁取りは、同じ世界の住人から選んで下さい」
一比古の赤い木の実のような目がこちらを見上げている。その視線を振り払うように、さっき白湯を取りに行ってくれた障子を開けて、縁側へ出た。どっちへ行けば出入り口に着くのか、見当もつかない。とにかく帰らなければと思っていた私は、縁側からそのまま庭へ降りた。
「ええー!? 咲耶様!」
後ろで一比古が叫んだが、無視して庭を突っ切る。幸い庭には芝が生えていたので、裸足で走ってもチクチクとくすぐったいだけで、痛くはなかった。建物がコの字になった庭を横切り、建物沿いに走る。建物自体は垣根で覆われていたけれど、建物沿いに走っていれば、外へ出られるだろう。
この予想は当たっていて、垣根の途切れた所から外へ出た。後ろから一比古の声が聞こえる。
「咲耶様! せ、せめて履き物を!!」
何処に行けば良いかなんて、分からないけれど、漠然と帰り道を探して走った。
◇◇◇
「ん?」
「主様、どうされました?」
「母屋の方が賑やかい」
「お姫様が目を覚ましたのでしょう」
「そうか」
そう言うと主様は、目を閉じた。そして『ふふっ』と笑みを溢された。主様は、聡明で優しい方ゆえ、微笑んでいる事はよくある事だが、声を出して笑っているのを見るのは、久しぶりの事だ。
「一比古は、もう随分と振り回されているようだ。元気な人の子だ」
主様は楽しそうなお顔で母屋の方を向いている。私は、主様のように聴覚が優れていない為、賑やかな声は聞こえないが、楽しそうな主様のお顔を見ると、自然と口元が緩んでいく。
「様子を伺いに参りますか?」
「この文を書き終えたらな」
「主様ー!」
その時、廊下からバタバタと乱れた足音と共に、
「千萱! 主様の返事も待たずに何事か!!」
「
「主様、お姫様が! 『帰る』と言って、屋敷を飛び出しました! 脱走です!」
「ほぉ!」
「なに!? 大切な奥方様であるぞ! 一比古は何をしてあるのだ!」
「あはははははは」
主様は、腹を抱えて笑った。あまりに愉快そうに笑うので、千萱も私も驚いて主様を見る。
「はー、人の子とは面白いなぁ。後で、私が迎えに行こう。好きにさせておあげなさい。ただ、怪我だけ気をつけてやってくれ。人の子は身体が弱いからな」
そう言うと、主様はまた筆を取って、文の続きを書き始めた。
◇◇◇
屋敷から飛び出して、随分走ったような気がする。気管が熱い。ついさっきまで寝込んでいたのが原因か。
“ああ、どうしよう。倒れるかも……”
そんな私の意識を何とか繋ぐものが二つ。後ろから追ってくる、一比古の声と裸足で小石を踏んづけた時の痛みだ。おかげで意識は保っていられるけれど、いまいちスピードが出ないのも、この小石のせいなのだ。
「咲耶様ー! 足を痛めてしまいますから、止まって下さい!」
一比古が追って来なければ、とうの昔にペースを落として、ゆっくり帰り道を探している。
「咲耶様! 一人で出歩かれては、危険です! 良からぬ妖にでも見つかったら……!」
妖?いや、分かってはいたけどね。それでもハッキリ言われてしまうと、ショックが大きかったようだ。
妖怪に囲まれて、知らない世界で一人ぼっち。記憶は曖昧で帰り方も場所も分からない。このダメージは、私の気力にも影響した。ただでさえ限界ギリギリだった脚が遂に縺れて、私は情けないくらい派手に転んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
転んでしまっては、もう一歩も動けない。
「咲耶様、大丈夫ですか! お怪我は!」
転んだ時に膝を擦りむいたようだし、足の裏がじんじんする。息が上がって、肺が痛い。追いついた一比古は、息が整わない私を見て、顔色を変えた。ワタワタと焦っている様子だ。
「ああ……ああ……! どうすれば……脚から血が……!」
「い、……いち、びこ……」
「人は、身体が弱いのに、お身体を傷つけてしまった……主様に、何と言えば……」
「い、……一比古! 大丈夫だから……! 落ち着いて」
「さ、咲耶様……」
「疲れただけだから、はぁはぁ……休めば大丈夫。はぁ、はぁ、脚も…平気。休めば歩ける」
それを聞いた一比古は、へなへなとその場にへたり込み、さめざめと泣き始めてしまった。
「良かった……良かった……お姫様……」
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