主様
「
誰かがそう言った。
これが、さっきから話に出ている
そう心の中で悪態を吐いた。主様と呼ばれた男は、私を見ると息を呑み込むように固まった。ほんの少しだけ開かれた事で、瞳の色が綺麗な薄紫色なのが分かった。
「菊……なのか?」
ようやく開けた口から息が漏れると一緒に小さな呟きが、静まり返った空間に響く。涼やかな声だった。
皆固唾を呑むように私達の様子を伺っているのが分かる。
だがね、しかしね、私はその“菊”でも“お
黙ったままの私に主様と呼ばれた男が、一歩、二歩とゆっくり近づいてくる。気まずさに思わず目を逸らしたけれど、不思議と怖いとは思わなかった。逸らした視界の端に男の足元が映る。そして綺麗な薄紫色の瞳と目が合った。男は、私の顔を覗き込むように、前屈みに視線を合わせてくる。何とも甘やかで整った顔だ。こんな素敵な顔に見つめられたら照れてしまう。普段通りに出会っていたなら、普通にときめいて、好きになってる。混乱中といえど、私もお年頃なのでと、自分に言い訳しながら、呑気な事を考えていた。
「あの……どなたかと人違いをされているかと……」
「……菊……」
私の言葉など耳に入っていないのか、まだ言うかと呆れて、伏せた目を上げ、男を見返すと男の目からガラス玉が零れ落ちた。ポロンと丸い雫が一粒。
「声まで……かように似ているとは……」
今度は、反対の目から。あまりに綺麗に溢れるから、涙だと理解するのに時間が掛かってしまった。そうして、男は顔を片手で隠すように覆って、その場に静かに膝をついた。
男の人が泣くのを初めて見た。
私は、びっくりしてしまって、どうすれば良いか分からず、少し前の男のように固まった。けれど、主様と呼ばれた男が余りにも静かに泣くものだから、その姿がとても健気に思えて、胸が締め付けられるように苦しくなった。
“どうか、悲しまないで”
そんな気持ちでいっぱいになる。胸の前で、自分を守るように構えていた腕が、無意識に前へと伸びる。私まで悲しくて、苦しくて、目の前の彼を抱き寄せようと頭の後ろへ手を回した時…
ーー…ブツン
糸が切れたように目の前が真っ暗になった。
「お姫様!」
「主様!」
遠くで時々、話し声を聞いた。
ーー……
「人の子は、身体が弱いですから。お疲れなのでしょう」
「心配せずともじきに目覚めましょう」
「今はゆっくりおやすみください」
「なに!? お姫様ではない!?」
「し! 大声を出すでない。起きてしまうぞ」
「ま、真か? 主様が、そう申されたのか?」
「あれ以来、主様はお部屋に籠もられた。後ほど、改めて確認するが……」
「どうするのだ。お姫様ではない人の子など」
「しかし、八咫烏が書状と共に
「そもそも、帰してどうするのだ? 天に逆らうのか?」
「主様とて、姿ばかり似た人の子など、側に置きたくはないだろう……」
「おいたわしや……」
「おいたわしや……主様……」
「主様はなんと……?」
「……『分からぬ』と……」
「では、お姫様では……」
「主様は、お姫様であるように大切にとも仰られた。真実は分からぬが、きっとお姫様なのだろうと」
「……承知」
ーー……目が覚めた時、一番に視界に入ったのは、知らない天井だった。
はて、ここはどこか……。働かない頭を無理に動かそうと、瞬きをくりかえしてみるが、全く効果は無いようだった。
「お目覚めですか?」
ひょこりと視界に入った白いうさぎに驚いて飛び起きる。けれど、長く寝ていたのか、起き上がった勢いで頭に痛みが走り、思うように動けない。唸るように溢れた声は、とても掠れていて、空気に触れた喉が引き攣り、咽せてしまう。
「急に動くのは、良くない。丸一日寝たらしたんだ。今、白湯を持って来ますので、そのままお待ちください」
うさぎは言うと立ち上がって、そそくさと部屋の外へと出ていった。十畳ばかりの和室に私が一人。掛軸なんかの装飾もなく、古い。天井を見れば照明もなく、障子から漏れてる外の光で部屋の中は薄明るいという感じだった。
うさぎは、すぐに白湯の入った湯呑みを持って帰ってきた。熱すぎず、温くなりすぎず、飲める温かさのちょうどいい白湯を淹れてくれた。水分を身体がぐんぐん吸収していくのが分かる。さっき、うさぎは私が丸一日寝ていたと言っていた。久しぶりの水分は随分美味しく感じた。
うさぎは、
「イチビコ……さん?」
「
「そう言われても……逆にやりづらいと言いますか……」
「きっとじきに慣れます。口馴染みしやすい名前ですから」
いや、少し言い辛い名前だと思う。わざわざ口にしたりはしないけど……。
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