空手男子とストーカー女子

石動 橋

空手男子とストーカー女子

 俺が中学生だった時のことだ。

「あ、あの! 谷口君!」

 少女の緊張した呼び声が俺、谷口和麿の耳に響く。

 紺色のセーラー服に身を包んだ、ウェーブのかかった黒髪の女性。

 前髪でまともに目が見えない彼女に浮かんだ第一印象は、幽霊みたいな人だった。

 色白の肌と線の細い外見が、ますますそのイメージを強くしているんだろうか。

 スカーフの色からして先輩なんだろう彼女は、目を合わせられないくらいの慌てようだ。

 そんな人が、俺に何のようだろうか。

 この、初対面の先輩が。

「わ、私、影井幸子って言います! た、誕生日は5月8日!」

 影井と名乗ったこの人は、聞いてもいない誕生日を人気のない校舎裏で叫んでいる。

 そして、この次に彼女が発した言葉を、俺は一生忘れないだろう。


「わ、私と! 付き合ってください!」


 ファーストコンタクトの先輩からの、唐突な告白。

 大胆にも告げられた好意の言葉に対して俺は反射的に答えた。

「すみませんけど、今は空手に専念したいです。ごめんなさい」

 それはそうだ。

 青春ドラマじゃないんだから、初対面の人から告白されても怖いだけだ。

 はっきりと断りを入れた瞬間、彼女は急に静かになって俯く。

 あれ、もしかして泣く流れだろうか。

 断った段になって、ようやくもっと言い方を考えればよかったと後悔さえ覚える。

 だが、

「あはっ!」

 この女の、人の変わったような笑顔が、俺の脳を強襲した。

「あははははははははははははははははっははははははははははははははは!」

 笑い声が響く。

 さっきまでの緊張して不安げだった彼女の姿は、もういない。

 今目の前で大笑いを上げている影井さんの姿をしているのは、本当に数秒前に告白してきた人と同じ人なのか。

 全くわからない。

 目の前の人型の女が、わからない。

「フラれた! 完全にフラれた! 完膚なきまでにフラれた! もうダメ! 無理! 哀しすぎ!」

 笑う。笑う。笑う。

 感情を吐き出す彼女の顔は、歓喜を超えて狂気を纏っているようだ。

 流石に、ここまでくると怖い。

「でも、大丈夫」

 そんな彼女と、目が合った。

 まるで、ホラー映画のワンシーンだ。

 見開かれた彼女の眼光に、思わず身構える。

「絶対にあきらめないから!」 

 そう言って、彼女が飛び掛かってくる。

 嗚呼、怖い。

 怖い。怖い。怖い。

 あまりの怖さに、俺は―――――。

 

 彼女の顔面に、握り込んだ正拳を思わず叩き込んだのだ。




「―――――い、おい!」

「……ん?」

「おい! 起きろって寝坊助野郎!」

 教室で気持ちよく寝ていた所を、前から聞こえる太い声で起こされる。

 声の主は友人の基山誠一だ。

 この高校に入学してから初めての友人であり、同じ空手部のメンバーでもある彼は、自分の話を聞いてほしいがために毎回休み時間に寝ている俺を叩き起こす。

 本当に、俺の周りにはなんでこうも人の都合を考えていない連中ばっかりなんだろう。

「……なんだよ、ったく」

「そんな顔すんなよ! おまえと俺の仲じゃねえか!」

 いやどんな仲だよ。

 迷惑な間柄もあったもんだ。

 一人テンションの高い男の相手にうんざりしていると、視界の影からもう一人が話しかけてくる。

「あ、もう起きてたんだね!」

「……おまえまで俺を寝坊助扱いかよ、水野」

「そんなことない、かも……」

「なんでそこでつっかかるんだよ」

 彼女は水野和美。

 クラスメイトであり、この学校の空手部のマネージャーだ。

 とはいえ、彼女もテコンドーを昔やっていたらしく、将来は父親の経営するジムを継ぎたいらしい。

 いろんな意味で強かな奴だ。

「あ、そうだ! 頼まれてたもの売ってるお店、探してきたよ!」

 そう言って彼女は俺のスマホにメッセージを送った。

 特徴的な電子音が鳴り、俺はその内容に目を落とす。

「ありがとう。」

「いいのいいの! 気にしないで!」

 その代わり、と言って耳打ちしてくる。

「今度さ、パパのジムの生徒に教えてあげてくれない? もうすぐ試合控えてる子もいるしさ」

 そういう魂胆かよ。

 まったく、本当に強かな奴だ。

「……わかったよ」

「ありがと! そろそろお昼終わっちゃうし、あたし行くね!」

 それじゃ、と手を振って去っていく水野を見送る。

 やれやれ、嵐のような人だ。

「い~ね~。青春してんね~」

 ニヤニヤと眺めていた谷山が話しかけてくる。

 こいつ、こうなると思ってわざと黙ってたな。

「何言ってんだ。おまえ、わかってて黙ってたくせに」

「まあね~。しかしおまえも隅に置けないな~」

「? なにがだ?」

「だってよ、何教えてもらったか知らねえけど、気にならない奴のために動いてくれるなんてないぜ。我が空手部のエース様は周りに女っ気がなくて不安に思ってたが、そうか~、水野か~」

 肘でつついてくるこの男が、とても鬱陶しい。

 だいたい、こいつは何様なんだよ。俺の親か何かか。

「そもそも、あいつとはそんな関係じゃねえよ」

「んなこと言って、満更でもねえんだろう? 今の心境を言ってみ? ん?」

 マイクを突き付けるように手を伸ばす基山にため息が漏れる。

 とはいえ、何も言わなかったらこいつが下がらない性格なのはわかってるから、何かいわないとな。

「……この後のことが、心配かな」

「ん? 何だって?」

 聞き返すこいつを無視して、窓の外に目を向ける。

 俺の心配事は、ただ一つ。

 おそらくこのことをどこかで見聞きしているだろうあいつのことだけだった。




 学校帰りに寄り道を済ませ、家路を歩く。

 辺りが暗くなり始めているいつもの通学を通り、マンションの階段を上がる。

 ここまでは、何の異常もない。

 何の視線も感じないし、気配も感じない。

 いつも通りの光景だ。

 僅かにホッとするが、まだ油断できない。

 相変わらず、この帰宅途中が一番緊張する。

 階段を上がり切った先の部屋が、俺の家だ。

 何とか無事に帰ってきたことに安堵し、ゆっくりとドアノブに触れた。

「―――――っ!」

 それだけで感じた。

 鍵が、開いている。

 朝にしっかり鍵をかけて家を出た記憶が脳裏に残っている。

 ということは、だ。

 そうか。今日は、家に入るパターンか。

「……」

 深呼吸を一つしてから、ドアノブを回す。

 ドアを開くと、

「あはっ! 帰ってきた!」

 案の定の声が返ってきた。

 あの時、突然の告白から変わらぬウェーブのかかった黒髪。

 目元にもかかる髪を上げれば美人に見えるだろうくらいの整った顔立ち。

 そして何より、返ってきた狂気も混じったような高い声。

 間違いなかった。

 俺がずっと警戒していた、目的の人物。

「……また勝手に鍵開けたな、影井さん」

「ごめんなさい! 待ちきれなくて来ちゃった! ご飯出来てるよ! 早く上がって!」

 影井幸子はあの時と同じ、狂気の混じったような笑顔で俺を出迎えた。




「どうぞ! 今日も自信作ですよ!」

 笑顔の彼女は俺の部屋のちゃぶ台に、湯気を立てた料理を並べてくれた。

 俺の分と、彼女の分。

 家の事情で一人暮らしをしている俺には、本来ありがたいものだ。

 そう、本来なら。

「影井さん」

「はい! なんですか?」

「俺の分の料理、影井さんが食べてみてくれない?」

 失礼なことだというのはわかっている。

 だが、俺の本能が、第六感が、こいつを食べるなと言っている。

 これまでも、彼女の料理に変なものが混ぜられていたことがあった。

 爪や髪の毛だけではなく、彼女の血液が混入していた時は吐き気がしたものだ。

「……」

 影井さんは笑顔のまま何も答えない。

 やっぱり、何か混ぜたのか。

「どうしたの? 食べられない理由でも――――」

「そんなに、嫌?」

 彼女の口が動く。

「そんなに、あたしのこと、嫌なの?」

 彼女の声が、微かに震える。

 女性特有の高い声質もあって、まるでホラー映画のワンシーンだ。

「今日もさ、クラスメイトのあの娘と、話してたでしょ? 楽しそうにさ」

「? ああ、もしかして水野さ――――」

「その名前を言うな!!」

 叫んだと同時に、銀色が輝く。

 それが影井さんの握っていた包丁だとわかった瞬間には、俺の身体は動いていた。

 自分の体の軸をずらし、俺を貫かんとする刃を躱す。

 背中側に回り込んで取り押さえれば、刺されないはずだ。

 俺は彼女の背後から、腕と肩を抑える。

 瞬間だった。

 ゴキッと、音が響く。

「―――――っ!!」

 彼女の肩を押さえた腕がガクッと下がるとほぼ同時に、拘束していた俺の手から脱出した。

 相対した影井さんの表情が、痛みからか歪んでいる。

 だがすぐに、彼女の口角が上がった。

「……あはっ! いいね、この痛み。癖になりそう」

 だらりと垂らした腕を掴んだ彼女は、無理矢理外れた関節をはめなおす。

 初めて会った時以上に、ますます妖怪染みてきたな。もはや同じ人間とは思えない。

 テレビから出てくるあの幽霊とも、互角以上にやり合えるんじゃないか?

「もうやめよう。俺はこんなことがしたいんじゃない」

「うん。いいよ。でも約束して。もう、あの女と話さないって。浮気しないって」

 嗚呼、ダメだこれは。

 会話の余地がない。

 そもそも浮気ってなんだよ。俺達付き合ってすらいないだろう。

「カズ君が悪いんだよ? 学校が離れてることをいいことに、あんな雌犬にデレデレしちゃって……」

 やっぱりだ。

 また俺の持ち物に盗聴器仕込んでたな。

 っていうか、あんなもの?

「? あんなもの?」

「プレゼント」

 影井さんが絞り出すように言う。

「あの女のために何かかってきたんでしょう? 帰りが遅かったのはお昼のお返しでも買ってきた?」

「……」

「何か言ってよ。言って! 言えよ!!」

 怒気を放つ彼女から、再び銀の刃が突き出される。

 仕方ないけど、この人相手では手加減もできないな。

 喉目掛けて伸びる包丁を持つ手を、上段に受けた。

 そしてそのままガラ空きの腹に、正拳突きを叩き込まんと踏み込んだ。

 拳は真っ直ぐ影井さんの腹部に突き進み、彼女の人体の弱点を確実に捉える。

「……?」

 だが、どうも変だ。

 人間を殴ったにしては、感触が固い。

「あはっ!」

 彼女の嗤い声が響く。

「やっぱり来ると思ってた! そろそろ殴ってくると思ってた! やっぱりあたし達、相思相愛だね!」

 嬉々として話す影井さんの腹から、どさりと何かが落ちた。

 それは、何かのマンガの単行本。

 なるほど、それを腹に仕込んで防具にしていたのか。

 彼女の言った通りになったのが、何だか無性に腹が立つな。

 そんな思考を巡らせている内に、彼女の手が包丁を捨てる。

 それと同時に上段に受けた俺の手を掴んだ。

 そして空いていたもう片方の手が彼女のポケットに滑り込んだ。

「――――っ!?」

 延ばした手を引こうとしたが、遅かった。

 かしゃん、という音が響く。

 その音の正体は、彼女がポケットに忍ばせていた手錠。

 金属製の固い鉄の腕輪が、俺の腕を捕えていた。

「ほら、これでずっと一緒だよ」

 もう片方の手錠を彼女自身の片腕に付ける。

 離れて距離を取るが、鎖の長さ以上離れることができない。

「さあ、これでずっと一緒! あの雌犬のことなんかすぐに忘れさせてあげる!」

 喜色満面の影井さんが、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

 迂闊だったな。

 もっと彼女を警戒しておくべきだった。

「でも、まずはあの女への贈り物なんて捨てて、痕跡から消してしまうことから始めないと」

 さらに一歩、影井さんは近づく。

「さあ、出して」

 ついに目の前まで迫った彼女が、目を見開いて手を差し出す。

「あの雌犬に渡す予定だったプレゼント。あるんでしょ?」

「……」

「さあ、早く。 それとも、私が漁らないとダメ?」

「……わかったよ」

 これ以上は、どうやらダメらしい。

 警戒しつつも自分のカバンを開け、手を入れて目的のものを探す。

 丁寧に包装された、リボン付きのプレゼントボックス。

 カバンから取り出したそれを、目の前の狂気の少女に見せる。

「へえ、それかぁ。綺麗にラッピングまでしちゃって……」

 じっと俺の手元を見つめる彼女は、忌々しそうに言葉を吐き出す。

「じゃあ、それ、ちょうだい」

「嫌、ダメだ」

 断った瞬間、彼女の目が俺を睨む。

「……なんで?」

「渡したら、影井さんはこれ捨てるだろう?」

「当然よ」

「だから、ダメだ」


「これは、影井さんへのプレゼントだから」


「……へ?」

 不意を打たれたように、彼女の負のオーラが霧散する。

 呆気にとられたような、ポカンとした彼女の顔。

 一気に凄い顔になったな。初めて見た。

「今、ナンテ?」

「これは、影井さんへのプレゼントだ。だから、捨てられたら困る」

 心から出た言葉だった。

 こんな奇妙で化け物染みた人だけど、家でこうしてご飯を作ってくれていた。

 時には待ち伏せ、時には隙を伺い、時には俺の後ろを付き纏う。

 はっきり言って迷惑な行動ばかりだが、その真意は変わっていない。

 あの日、俺が彼女から告げられた、あの言葉。

 俺のことを好きだと言ったあの言葉を、彼女なりに実行しているだけなのだ。

「……あ、あの」

 先程までとは人が変わったように、影井さんが急にしおらしい雰囲気で声をかけてくる。

「も、もう捨てたりしないから、その、プレゼント、開けても、いい?」

「あ、おう」

 俺も俺で、変な感じで返事してしまった。

 いつもの狂気に満ちた彼女が大人しくなると、何だか調子狂うな。

 プレゼントの箱が、俺の手を離れて彼女の手へ。

 緊張からか、震える手つきで包装が解かれる。

 中身は、髪留めだ。

 三日月のエンブレムがあしらわれた、シンプルなデザイン。

 だがこれを見た時、真っ先に彼女に似合うだろうとイメージが湧いたから選んだ。

 この店を探すのを水野に頼んだんだが、まさかあんな依頼をされるとは。あっちもまた考えておかないとな。

「今、違う女のこと考えた?」

「いやまさか」

 こういう感覚は鋭いよな。

 実はやっぱり物の怪の類だとカミングアウトされても驚かないぞ。

「まったく、浮気者だね、谷口君は」

 ため息が彼女の口から漏れる。

 でも、いつにも増してその口調は優し気なものだった。

「――――本当に、あなたを好きになって、よかった」

 嗚呼、これだ。

 俺が見たかった、彼女の優しい笑顔。

 日頃狂気に満ちた表情の彼女が見せる、柔らかくも優しい笑顔。

 そんな滅多に見せない感情が、俺の先程までの苦労の甲斐がある。

 まったく、彼女はイカれてるが、俺も人のことは言えないな。

 こんな俺をストーキングしてる女に、心許している自分も、まともな部類じゃないんだろう。

 でも、それでいい。

 こんなイカれた彼女の笑顔が見られるなら。

「さて、それじゃ、ご飯再開しよっか!」

 早いな。

 もういつもの影井さんに戻ってしまった。

「……ご飯よそいなおすよ」

「ええ!? いいよ、私がやるよ!?」

 今日はいいから座っといてくれ、と彼女を宥める。

 ないとは思うが、もう何か仕込まれるのは勘弁だ。

「……むう、じゃあ、お願いね」

 ちょっとむくれながらも、大人しく部屋に引き返す影井さん。

 はあ、まったく。

「……いつもあんななら、本当にいい女なんだけどな」

「ん? 何か言った?」

「いやなんにも」

 おっといけない。

 まさか口に出てたとはな。

 さて、深呼吸を一つしてから料理を温めなおそう。

 せめて今日だけは、この温かい気持ちのままいたいしな。

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空手男子とストーカー女子 石動 橋 @isurugi

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