08.暴走する気持ち 2

「リベリス、離せ……!」


 自分の腕から逃げようと身じろぎする。

 うるさい。

 フェイは少しだけ体を離すと、突然の動作に驚いているグレアムの首筋に唇を落とした。


「リベ……やめ……あっ」


 突然、グレアムが体勢を崩す。足の力が抜けたらしかった。小柄な体を抱き込んで守るようにしながら、二人して床に倒れこむ。

 そういえばエレンの実験室で装置のガラスが割れた時も、こんなふうにグレアムは庇ってくれた。

 もしかしたらグレアムはただ気にかけてくれていただけではなく、何かあったらいつでも手が差し伸べられる場所で、フェイのことを見ていたのではないだろうか。

 でもフェイ自身はまったくそんなことに気付いていなかった。

 気付かれないように、グレアムはそばにいてくれたのではないか。そんな気がする。


 ――私が騎士団の面接に現れた時、あなたはどう思ったの?


 驚いたとは言っていた。それだけだろうか。


 ――私が配属された時は……?


 目を開けると、グレアムの……フェイの小柄な体は自分の真下にあった。覆いかぶさる姿勢になっている。

 今なら、なんでもできる。

 彼女のブラウスに手を伸ばし、乱暴に引っ張る。


「何をする!」


 普段から鍛えている男の力だから、ブラウスのボタンは簡単にはじけ飛んだ。グレアムが叫び声をあげる。


「これはエレンの実験の影響か!? 畜生、この体にはなんで魔力がないんだよ!」


 そんなこと知らない。こっちが知りたいくらいだ。

 わめくグレアムの腕を自分の腕で押さえつけ、あらわになった胸元に顔を寄せる。両手が使えないから歯で紐の結び目を引っ張り、コルセットを緩める。


「やめろ、リベリス!」


 絶叫に近いほどの大声でグレアムが叫ぶ。


「無駄ですよ、副団長。この屋敷にはほかに誰もいないんだから、助けなんて来ない」


 フェイの拘束から逃れようとするグレアムにイライラしながら、胸元の輝くように白い肌に唇を寄せる。


「そう……じゃ、ない……っ! 俺はおまえに言ってるんだよ、リベリス! 負けるな、頼むから! 俺は、こんなふうにおまえを奪いたいわけじゃないんだ!」


 グレアムの叫びに、フェイは動きを止めた。


 今、わかった。

 この狂暴な衝動は、グレアムのもの。


 まるで憑き物が落ちたかのように、頭に冷静さが戻る。


 グレアムの中にはフェイへの強い気持ちがある。それは間違いない。そしてそれは決してきれいなだけではない。でもグレアムはそれを一度もフェイに見せたことはなかった。

 それは彼が自分の気持ちを抑えこんでいたからだ。


「……っ、ごめん、なさい……っ」


 彼はいつもポーカーフェイスだった。

「上司」としての立場を崩さなかった。

 それなのに、自分ときたら肉体の欲望に引きずられて、グレアムが隠してきたものを暴いてしまった。


「……すまない……リベリス。だけど、俺は、おまえをどうこうする気はないから……だから……離れてくれ……」


 グレアムが声を絞り出して懇願する。

 唇を噛みしめ、フェイはゆっくりとグレアムの上からどいた。

 グレアムが体を起こす。

 その体が細かく震えているのがわかった。

 怖がらせてしまった。

 その事実に顔から血の気が引いていく。


 どうしよう。怖がらせてしまった。そんなつもりなんてなかったのに。体格もいい上に戦闘職の自分と、小柄で事務職の彼女。力でかなわないのはわかりきっているから、力を見せつけるようなことはしたくなかったのに。それなのに、自分は……!


「……入れ替わりながら一晩過ごすのは無理そうだな。今すぐエレンのところに行って、超特急で反作用薬を作ってもらう」


 グレアムが、一度もこちらを見ないまま言う。声が震えないように腹に力を入れているのがわかる。


「でも」

「俺が耐えられない。すぐに戻る、留守番を頼むぞ。……上着はどこだ? このかっこうで外には出られないからな」


 グレアムが立ち上がり、ボタンがはじけ飛んだブラウスを見てあたりを見回す。そして買い物袋と一緒に置いていたフェイのジャケットを手にすると、厨房から出ていった。

 フェイが解放してから一度も、グレアムはこちらを見なかった。


 ややあって、ぱたん、と玄関ドアが閉じる音がした。


 グレアムが出ていってからも、フェイはしばらく動けなかった。

 わずかな間にいろんなことがありすぎて、心が追い付かない。


 ――私、なんてことをしてしまったの……。


 わかっていることは、グレアムをひどく傷つけてしまったということだけだ。

 のろのろと体を起こし、床に座り込む。

 なんということをしてしまったのだろう。

 最悪だ。


 ――どうしよう……。


 頭の芯が冷えていくのにあわせ、股間の疼きも収まっていく。

 今、心を占めるのは後悔。

 ふと外を見ると、いつの間にか外が暗くなっている。


 ――副団長、女の子の夜の王都の歩き方を知ってるのかな。


『私』なら危険を避けることができるが、グレアムならどうだろう。

 昼の王都は比較的治安がいいが、夜は別な顔を見せる。日が暮れてから女性が一人で出歩く場合は、コツが必要だ。グレアムがそれを知っているとは思えない。

 自分が追いかけていっても、とは思ったが、やはり、女の子を一人歩きさせるべきではない。そう、グレアムの体がフェイに訴えかける。


 ――この体は、『フェイ』が気になるのね。


 フェイは立ち上がると、部屋の入り口に置いていた剣を手に、玄関に向かった。




 王宮に向かうならこの道だろう、と思う道を歩いていく。

 不思議と、少し前にグレアムが通った道がわかる。グレアムの気配が残っているのだ。あたりを見回すと、行き交う人々が淡い光を放っていて、鱗粉のように光の粒子が少しずつ零れ落ちる。

 昼は太陽が眩しすぎて見えない。夜だから見える光だ。


 ――魔力がある人の視界って、こんな感じなのね……。


 と、その時である。

 誰かがフェイの名を呼んだような気がした。

 はっとなり、フェイは走り出した。


 ――どこ?


 声というよりは、驚きや恐怖の波動が伝わってきたというのに近い。その波動はまっすぐフェイに届いた。だから呼ばれたような気がしたのだ。


 ――どこにいるの? もう一度、呼んで!


 フェイがそう思った刹那、


『助けて!』


 今度はもっとはっきり「声」として聞こえた。

 高く澄んだ声は、フェイ・リベリスのもの。

 この耳が覚えているからわかる。

 間違えるはずがない。


 フェイは駆け出した。

 確かこっちの方角だ。




 そこは大きな通りから少し外れた、人通りの少ない路地だった。暗闇の中に何人かが地面にしゃがみこんでいるのが見える。誰かを押さえつけているようだ。

 フェイの目なら暗闇の中に何人くらい人がいるのか、まったくわからないと思う。だがグレアムの目にはそこに男が三人がかりで一人の娘を地面に押し倒し、自由を奪っているのが見えた。きらきらとこぼれる光は見覚えがある優しい黄色、フェイのまとう色。

 カッと目の前が赤く染まる。


 ――殺してやる……!


 竜が焼き尽くした町には真っ黒な死体ばかりが転がっていた。

 フィルニーからは火山から噴き出す瘴気が増えている、竜が暴れ出すかもしれないという報告がきていた。しかし瘴気が増えたからといって必ず竜が暴れるとは限らない。また、瘴気に触れて狂暴化した竜が人里を襲うとも限らない。

 だから国は、調査のため数人の騎士を派遣するにとどめた。

 たった数人では、狂暴化した大群の竜を相手にできるはずもない。


 その日、フィルニーは、考えられる最悪の事態に直面した。

 

 魔法が使えても、死んだ人間を生き返らせることはできない。

 数人の騎士ではなく、騎士団を派遣していれば。

 そうすれば、先にフィルニーに入った数人の騎士はもちろん、この町の人たちだって死なずに済んだのに。


 フィルニーの人たちを救いにきたのに、やることは死体を運び出しては埋葬することだけ。手をつないで倒れている二人、赤ん坊を抱きかかえたまま倒れている人、苦しかったのだろう、体を折り曲げたまま亡くなっている人々……。

 どの死体も炭化しており性別すらわからない。

 竜の吐く炎が舐めつくした町はまさに地獄だった。

 誰も生きていない。


 当たり前だ、動ける人たちは竜を避けてとっくに町の外に避難してしまっている。救護隊に手当を受けている彼らを見たが、みんなひどい火傷を負っていた。


 そんながれきの下でかろうじて生きていたのがフェイだった。母親が庇ってくれたことで炎の直撃を免れ、建物の隙間に落ちることでがれきにも潰されなかった。

 母親には多少魔力があったのだろう。でなければ炎のど真ん中で生存できるはずがない。母は自分の魔力をすべて我が子を守るために使ったのだ。

 フェイは、息をしなくなった母親の下から小さな声で「助けて」と、グレアムに手を伸ばしてきた。

「必ず助ける」

 その手を取った時に、そう誓った。

 

 一人ぼっちになってしまったフェイが気になって、病院へ、保護施設へ、寄宿学校へ。フェイの居場所が変わるたびに、様子を見に行った。

 忘却魔法の効果か、フェイはどこでも明るく振る舞っていた。


『なんでその娘ばっか気にするの? ちょっと肩入れしすぎなんじゃない?』


 エレンにはそうからかわれた。同じことは団長にも言われた。その理由なんてわかるはずもない。

 ただ、彼女には幸せになってほしいのだ。

 元気になるにつれきらきらとこぼれるようになった黄色い光が、あまりにも優しいから。その色と輝きをいつまでも見ていたいから。

 だから、フェイを傷つけるものは俺がこの手で排除する。彼女の幸せは必ず守る。


 風が吹く。魔力が体からあふれてくると、風が生じるのだ。


「なんだ?」


 男の一人が振り返る。

 フェイは腰に佩いている剣を鞘から抜いた。


「ま……待て、おまえ、誰だよ!」

「答える義理はない」


 フェイは低い声でそう言い放つと剣をひらめかせた。

 剣の扱い方も、魔力の使い方も、この体が覚えている。

 男たちが怯む。

 剣に魔力を込めて振り下ろす。衝撃波でもっとも手前にいた男が悲鳴を上げながら吹き飛んだ。


「やばいぞ、こいつ……!」


 男たちが口々に叫びながら、地面に押し倒したフェイをそのまま残し、こちらに背を向けて駆け出す。


「リベリス、交代しろ!」


 取り残されたグレアムが半身を起こして叫ぶ。ジャケットのボタンがちぎられ、もともとあらわになっていたその下のブラウスもはだけているが、それ以上は服を乱されてはいないようだ。

 フェイがグレアムのそばに跪くや否や、グレアムがフェイに抱きついて唇を合わせてきた。

 柔らかい感触と同時に、強い眩暈が襲う。頭がくらくらする。引っ張られる。


「……これを護身用に預ける。ここにいろよ。あとで迎えにくるから」


 まだ眩暈が残るフェイに、ぐいと手にした剣を押し付けるとグレアムは立ち上がり、男たちを追って暗闇の中へと消えていった。

 体が恐怖でこわばっている。カタカタと震える手でフェイは抜き身の剣を体のそばに引き寄せた。

 知らない男たちに暗がりに引きずり込まれた恐怖を、体が覚えているのだ。

 間に合ってよかった。やはり一人で行かせるのではなかった。

 それにしても、グレアムは剣がなくても大丈夫なのだろうか。


 そう思ってグレアムが消えた方向に顔を向けた刹那、路地の向こう側でまばゆい光が炸裂した。

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