07.暴走する気持ち 1

 レストランを出たあと、フェイの部屋に寄って着替えを持ち出し、その足で市場にて夕食の食材の買い物をする。

 二人とも制服姿では目立つというのでジャケットを脱いではいるが、脱いだところでやっぱり目立つことには変わりなく、市場の人たちに「夫婦で買い物かい? 仲いいね!」などと声をかけられてしまった。

 変に否定するのもなんだか違うし、グレアムは何も言わないし、というので適当に受け流していたのだが、この対応でよかったのだろうか。


 グレアムの家は予想していたよりも小ぢんまりしていた。


「意外にきれいですね」


 玄関には観葉植物の鉢植えまでおいてある。


「通いの家政婦が毎日掃除してくれているからな。突然人が来ても問題ない程度には整えてある」

「なのに食事は外なんですね」


 まあ、でも、市場でぱっと食べられるものを購入して出勤するほうが、時間の節約にはなると思う。一人暮らしなんだから。……一人暮らしといえば。


「あ、もしかして、私の寝るところがなかったりしますか」


 グレアムはハンスティーン伯爵の次男だ。貴族は王都に立派なタウンハウスを所有している。「正式に客人を招くなら」、普段はここで一人暮らしのグレアムであっても、タウンハウスに人を招くはずだ。


「そうだなあ。ベッドはひとつしかないから、どっちかがソファで寝ることにはなるな。リベリスの体を案じるなら俺がベッドを使うほうがいいんだろうが、おまえ自身の寝心地を考えたらおまえがベッドを使ったほうがいい」

「この体ならどこでも眠れる気がします! 『私の体』は繊細なのでベッドで寝てください! どうせ今晩だけですし!」

「……繊細……?」


 フェイの言葉にグレアムが首をひねったが無視して、食材を厨房に運び入れる。

 男の一人暮らし、ということで調理道具はどうだろうと思ったが、最低限のものはそろっていたのでなんとか料理はできそうだ。通いの家政婦が念のためにと用意してくれたらしい。ただ、自分で使ったことはないとのこと。


 まずはかまどに火を入れる。買ってきた塊肉を解体して骨の部分を取り除き、スパイスを振りかけてオーブンに放り込む。骨は刻んだ野菜と一緒に鍋にかける。


「慣れているなあ」


 その様子を後ろで見ていたグレアムが感心したように言う。


「さっきも言いましたけど、寄宿学校では厨房の手伝いをしていましたから。今もできるだけ自炊をするようにはしているんですよ。あんまりできてないけど」


 調理台に向かったまま答えると、


「……火は、怖くないのか?」


 ぽつり、とグレアムが聞いてくる。


「フィルニーのことですか?」


 過去のことは正直あまり話したくない。

 どんな顔をしたらいいのかわからないため、フェイは作業がすべて済んでいるにもかかわらず、意味もなく包丁を握り調理台を向いたまま答えることにした。


「薄情かもしれませんが、フィルニーのことはあんまり覚えていないんです。記憶はあるんですけど実感がないというか」


 家族のことも覚えているし、火に焼かれたことも覚えている。

 崩れてきた建物から母が庇ってくれたことも。

 でもそのことを思い出しても、特に心が揺さぶられることがないのだ。他人事のように感じる。

 そしてフェイはそれをあまり人に知られたくない。

 自分でもおかしいと思うのだ、他人ならよけいに思うだろう。おまえはなんて薄情なんだ、と。


 だからといって、フィルニーのことを何もかも忘れているわけでもないのだとは気付いている。心につきまとうかすかな欠落感、何かが足りないと思う気持ちは、きっと、フィルニーへの思いなんだろう。


「そうか。それで困ったことは?」

「特には。……たぶん私には、忘却魔法をかけられているんですよね。心に大きな傷を負った人にはかけられることがあると聞いています。そしてそれは、かけられた本人には告知されないとも」


 忘却魔法は人生を狂わせてしまうほどの威力を持つ魔法ゆえに、使える人も場面も限られている。そして忘却魔法がかけられた本人に、その事実は伝えられない。なぜなら、心の傷を軽減するためのものだからだ。


「その通りだ。フィルニーの出来事はあまりにも悲惨だったから、陛下から子どもに対して忘却魔法の使用許可が出たんだ。……エレンが該当者に忘却魔法を施した。俺も立ち会った。おまえは魔力耐性が高いから効きが悪くて、大量に魔法石を使用した。おまえは覚えていないだろうが、俺は覚えている」


 グレアムの答えにフェイは振り向いた。

 グレアムがじっとこちらを見つめている。


「解きたいか? 原則的には禁止だが、解こうと思えば解ける。ただし解けた魔法をもう一度かけることはできない。フィルニーの記憶を取り戻せば、その記憶を一生抱えて生きていくことになる。……おまえが常に感じている欠落感は、それでなくなると思う」

「……体の記憶ですか」


 フェイの問いかけに、グレアムが頷く。

 知られたくないと思っていたけれど、とっくに知られていたというわけか。


「今はいいです。今は、自分のことで手一杯だから。まずは私が幸せになって、魔法を解くのは家族に幸せ自慢する時でいいかな」


 もしかしてぼんやりとでもフィルニーのことを覚えているのは、エレンの忘却魔法をもってしてもすべて消すことができなかったからかもしれない。なんとなく、そんな気がする。 


「おまえは強いな」


 そう言ってグレアムがふわりと笑みを浮かべた。

 その優しい笑顔に心臓が撃ち抜かれる。

 文字通り、心臓に大きな衝撃が走ったのだ。


 ――なっ、ななな、なになに……?


「これは、言うつもりはなかったんだが。実は、おまえを助け出したのは俺だったんだ。大けがをしながらも懸命に生きようとしている姿が忘れられなくて、治療班に渡したあとも気になって時々、様子を見に行っていた」

「え……ええっ!?」


 今までに感じたことがないほどの特大級のドキドキをなんとか知られないように必死にポーカーフェイスを作り出そうとしているところへ、グレアムが追加の爆弾発言を投下する。


「そのあとのことは、割愛するが」

「えっ、割愛?」

「おまえが騎士団の面接に来た時は本当に驚いた。しかも志望理由がフィルニーを助けに来た第三騎士団に憧れて、というのがまた」


 割愛されたのは寄宿学校時代のことのようだが、それよりもなぜか顔を赤くしながら教えてくれるグレアムの姿に心臓のバクバクが加速して本気で破裂しそうだ。


「……っ」


 どういうこと。なぜ今そんな話をするの。


「リベリスは飄々としているからな。本当のところはどう思っているんだろうと気になっていた。忘却魔法で困っていないのならよかったよ。……頑張って幸せになってくれ。それがおまえのご両親への何よりの親孝行だろう」

「……副団長、ずっと私のことを気にかけてくださっていたんですか……?」


 どうもグレアムが自分のことを知っているらしいことは、エレンの言葉から察してはいたが、本人からも聞くと。

 どうしよう、たまらなく嬉しい。

 嬉しくて嬉しくて、どうしよう……抱きしめたい。


 ――え、待って。どうして。嬉しいって何? うれし……そりゃ、気にかけてくれる人がいたことは嬉しいけど、でも……。


 心臓のドキドキといい、抱きつきたい衝動といい、これは何だ。「気にかけてくれて嬉しい」反応にしては大きすぎる。おかしい。これは、あれだ。男性特有の、異性が気にしてくれていると嬉しくなっちゃう反応に違いない。

 じゃないとおかしい。

 だって、今までグレアムに対して特別な気持ちを抱いたことなんてなかった。なかったと思う。でも。


 不意に脳裏に、フェイの姿が浮かんだ。

 配属前日、緊張しながら団長とグレアムに挨拶に来たフェイ。仕事にダメ出しをするたびに態度が横柄になっていくフェイ。ムッとしながら言い返してくるフェイ。同僚と談笑しているフェイ。エレンに呼び出されてプリプリ怒っているフェイ。

 それだけではない。

 寄宿学校時代のいくつかの場面、さらには、包帯でぐるぐる巻きになって真っ白なベッドで眠っている幼い姿までが脳裏に浮かんでは消えていった。


 ――どうして……。


 それが、この「グレアム・ハンスティーン」の体に刻まれた記憶だということはわかった。わかったけれど……。


『いつまでふざけているつもりだ、エレン・シルベスター』

『リベリスを危険な目には遭わせない、それが約束だったはずだ』


 エレンの実験室でのやり取りを思い出す。あの時、グレアムは自分のことではなくフェイのことを真っ先に心配してくれた。

 グレアムはずっとフェイのことを見ていてくれた。

 フェイには知られないように。

 グレアムの体にならなければ知ることはなかっただろう事実だ。


 ――わ、私……!


 急に、それまでなんとも思っていなかった「ただの上司」のグレアムが、強烈な存在感を放ち始める。

 気になり始めると、どうして今までなんとも思わずにいられたのかわからなくなる。

 あの悪夢の中から助け出してくれた人が、こんなにも近くにいたなんて。ずっと自分を気にかけてくれていたなんて。

 一気にいろんなことがわかって、頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 それに加えて心臓や感情がフェイの心とは関係なく暴走する。自分を心配してくれるグレアムがたまらなくかわいい。かわいくて愛しくて抱きしめて、それから、それから……っ。


 ――こんなの絶対おかしいよ!


 グレアムのことを意識したのはたった今だ。今まではなんとも思っていなかった。うるさい上司としてしか見ていなかった。かわいいなんて。愛しいなんて。どういうことなんだ。今まで誰かに恋愛感情を抱いたことはない。だいたい、恋愛そのものに興味がなかった。

 そのはずだった。

 それなのにどうして。

 しかも自分には目の前の小柄な体を好き勝手できる力があることを知っている。

 抱きしめて、キスをして、それから、それから……。

 だめだ、そんなことをしたら絶対にだめ!!


 フェイは自分がおそろしくなって口元を押さえると後ずさった。こんな狂暴な欲望が自分の中にあるなんて。

 後ろの調理台にドンと体が当たる。


「どうした? リベリス。様子が変だぞ……?」


 そんなフェイの様子を、フェイの姿をしたグレアムが本気で心配そうに見つめる。


「こ……来ないで……」

「もしかして、エレンの魔法事故の影響か? 俺も少しは治癒魔法の心得がある」


 グレアムが手を伸ばしてくる。


「大丈夫ですから! それに私の体には魔力がほとんどないんです、治癒なんて……っ」


 フェイの顔に触れる寸前で、グレアムが手を止める。


「……そうだったな」


 フェイに指摘され、グレアムはようやく気が付いたようだ。生まれつき強い魔力を持っている人間にとって、魔力が使えない状態というのはきっとピンとこないに違いない。申し訳なさそうに手を引き上げようとするグレアムの細い腕を、気が付いたらつかんでいた。


「……リベリス?」


 有無を言わさずその腕を引っ張ると、あっけなくグレアムの――フェイの小柄な体はすっぽりと腕の中に納まった。

 両腕で抱きしめ、ちょうど顔の真下にくる茶色の髪の毛に顔をうずめる。

 甘い匂いがする。

 なんの匂いだっけ。ああそうだ、髪の毛を整えるために使っている香油の匂いだ。


 その甘い匂いを胸いっぱいに吸い込む。頭がくらくらする一方で、心が満たされていく。ずっと遠くから見つめることしかできなかった。本当はこうしたかった。

 そんなわけがない。そんなわけないじゃない、自分に対して抱きしめたいなんて思うわけがない。


「どうした、リベリス? 何か、思い出したのか? 俺が昔の話なんてしたから……」


 抱きしめられているせいだろう、くぐもった声でグレアムが聞いてくる。驚いているだろうに穏やかな声で話かけてくるのは、フェイの様子がおかしいからだろう。証拠に、抱きしめているグレアムの体からはドクドクと心臓の音が聞こえる。

 自分を抑えてくれているのだ。フェイを気遣って。

 そのことがたまらなく嬉しい。今、この瞬間、この人の心の中には自分しかいない。


「リベリス? 苦しいのか?」


 柔らかな声が耳に心地いい。こんなに優しい声音で声をかけられたことなんて一度もなかったと思いながら、フェイは首を振った。苦しいわけではない。

 腕を緩めてその背中をたどる。背中から腰へかけて何度も。自分にはない華奢で丸みを帯びた体の輪郭をたどるうちに、じわりと体の奥に熱が灯る。

 ズクリ、と下半身の中心が疼いた。


「リベっ……待て、何を……っ」


 フェイの変化を察したらしいグレアムが、慌てた声を出す。

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