釣り針
あべせい
釣り針
古びた床屋。40前後のぼさぼさ髪の男が椅子に腰かけるなり、
「親爺、いつもの感じでやってくれ」
大きな鏡のなかで、お客の顔をにらみつけるように見ていた店主、ハッと我に返る。
「へエ、いつもの、ですね。お任せください」
ハサミの音が客の耳に快く響く……。
30分後。客の男、目を覚まし、鏡を見て顔色を変える。
「オイ、なんだ、この頭は!」
客の男は目の前の大きな鏡に映った自分の頭を見て、うなっている。
「おれはいつもの感じでやってくれ、って言ったンだ。これじゃ、トッちゃん坊やじゃないか!」
客の頭は、裾をバリカンで刈り、髪は七三にきれいに分けられ、油で撫でつけられている。
「言われた通りにやったンですが……」
客の男、鏡に体半分だけ映っている職人に向かって、
「あんた、だれだ!」
「家内です」
30前後の割烹着姿の女性が、客の背後でハサミを握っている。
客の男、尚も鏡に向かって、
「家内!? オヤジは!」
「出かけています」
客の男、怒りがこみ上げ、
「なんだ!……」
が、後ろを振り仰ぎ、そばにすまなさそうに立っている女性の美しい顔を直に見て、衝撃を受ける。
「いや、奥さん。おれ、いや、ぼくは、こんな形にして欲しい、とは言ってないンですよ」
「そうでしたか。申し訳ありません」
「きょう、ぼくはこれから大事な人と会うンです。この髪型じゃ、相手にされません」
「亭主が、『いつもの感じで』って言うものですから」
「これが『いつもの感じ』ですか?」
「わたし、ふだん、こどもの頭をやっているものですから、『いつもの感じ』といわれて、つい……」
「そういうことだったンですか……」
客の男、自分の髪型をいじりながら、
「これでいけるかなァ……」
床屋の女房、俯き加減に、
「どんなご用事なンですか?」
「どんな、って……み、見合いなンです。来年40になるのに、まだ独り身で……」
床屋の女房、つられたように、
「わたし、来年30になるのに、まだ赤ちゃんができなくて……」
鏡の中で、2人、顔を見合す。
互いに慌てて視線をそらすが、客の男、腰かけたまま夫人に向き直る。
「ぼく、河岸潔(かしきよし)39才、消防署に勤務しています。趣味は、ジョギングにウォーキング、年に一度のマラソン出場です。で、奥さんは?」
「わたしは、楓(かえで)29才。趣味は……待ってください。これ、なんですか?」
「見合いの予行演習です。すいません」
「それなら、頭のお詫びにおつきあいします。わたしの趣味はドライブと焼き物です」
「楓さんは、お休みの日、どんなことをしておられますか?」
「お休み? ですか。休みはないンです」
「ない? ないってどういうことですか!」
「店は月曜日がお休みですが、亭主は釣り、わたしはパート勤めで……」
「楓さん、月曜日以外はどうしておられるンですか!」
「ですから、午前中はパートに出ています」
「午後は?」
「ですから、きょうのように亭主は出かけますから……」
「きょうはまだ午前の11時を少し過ぎた時刻です」
「きょうは、パート先がたまたま臨時休業のため、亭主はそれを知っていて出かけました」
潔、激昂する。
「なん、なんですか! これが結婚生活ですか。楓さん、おかしいと思いませんか!」
「おきゃ……潔さんですね。潔さん、わたし、亭主が初めてで、これが結婚生活だと思ってきました」
「ぼくが、ぼくが、ご主人に言ってあげます。楓さんは、働くために生きているンですか! そうじゃない、人間は生きるために働くだけです」
楓、ハッとして、
「そうですね……わたし、間違っていたのですか?」
「楓さんは間違っている。ご主人はきょうまであなたをうまく言いくるめて、あなたを働かせてきたンです。これは正さないといけない」
楓、空に浮かぶ雲を見つめるような目で、
「できますか?」
「できます。ぼくがお手伝いします」
「どうすれば?……」
「いますぐに、ドアにかかっている『営業中』の札を裏返して、出かけるのです」
「どこへ?」
潔、両手で楓の肩をつかみ、
「楓さん、ぼくに任していただけませんか」
「はい……、よろしくお願いします。わたし、着替えてきます」
楓、割烹着の結び紐を後ろ手でほどきながら、奥に消える。
というわけで、妙な展開になった。
おれは、女房に逃げられ、することもなく、行く当てもなく、おんぼろ車をとろとろ走らせていた。築30年以上の冴えない小さなアパートがあり、その1階で営業するこじんまりした床屋が目に入った。
小学校の目の前だ。アパートの隣に、床屋用の駐車スペースが1台分だけあり、「無断駐車は百万円いただきます」と板に赤ペンキで手書きしてあったのがおもしろくて、車を駐めた。
ところが、10分たっても20分たっても、だれも苦情を言いに来ない。おれははぐらかされたような気になって、根負けしたように床屋の中に入った。
見合いなンて、もちろんウソっぱちだ。床屋の女房の器量に魂を奪われ、つい口から出てしまった。
掃き溜めにツルというが、どうして、50過ぎのあんな古ぼけた亭主のところに、あんなイイ女がいるンだ。世の中、わからない。もうすぐ大型連休。気候は最高。いいドライブになるゾー。
しかし、どうしてこんなところに来ちまったンだ。
おれは競艇場に向けて車を走らせていた。ところが……、
「ねェ、潔さん。もっと、西の方に行きましょうよ」
と言うから、
「西、って?」
「山、山の方よ」
「山ですか、山でいいンですか?」
「いいの……」
と言って、楓さんは恥ずかしそうに下を向く。
おれは、バカなことを想像して、
「じゃ、行きますッ!」
力強く言い、郊外に向けてハンドルを切った。
すると、楓さんが、
「私が案内します」
あとは楓さんのいいなりに走ってきた。
しかし、この山道は尋常じゃない。アスファルト道路から、いつの間にか車が1台やっと通れるだけの未舗装の細い道路になり、山の斜面を這うように進んでいる。
ガードレールはなく、運転を少しでも誤れば、谷側にまっ逆さまだ。
「楓さん、これでいいンですか」
おれはすっかり臆病になり、ブレーキから足が離せない。
「いいのよ。細い道はここだけ。すぐに広いところに出るから」
彼女がそう言ったのは、30分以上も前だ。
「ほらッ、あそこ」
彼女の指差した杉の木に、板切れが打ち付けてあり、赤ペンキで右向きの矢印が描かれている。
赤いペンキ……見たようなペンキの色だ。
「そこに止めてください」
見ると、車の退避所のようなスペースがあり、オフロード用のバイクが1台留まっている。
おれは幅寄せし、バイクに接触するギリギリに車を止めた。
「行きましょう」
彼女はおれの返事を待たずに車から降りると、赤い矢印が示している方角に向かって、木々の間を進んでいく。
そうだ。あのペンキの赤は床屋の駐車場に、「無断駐車は……」と書いてあったのと同じだ。
驚いたことに、彼女は編み上げのトレッキングシューズを履いている。気がつかなかった。
服装もパンツに防風ヤッケを着ている。おれの靴はスニーカーだが、かなりくたびれているから、こういう山道はきつい。
「こっち、こっち! 早く、来てー」
姿の見えなくなり彼女の声だけが聞こえる。
おれは声がした方に急いだ。
突然、林が開け、広い沢に出た。
楓さんがこちらを見て、手招きしている。
楓さんがいる沢岸には、こちらに背中を向けて、立ったまま釣り竿を握っている人物が見える。
止めてあったバイクのライダーだろう。
おれは警戒しながら、楓さんのほうに近付いた。
人がいては、なにもできやしない。人のいないところに行かなくちゃ……。
そのとき、楓さんが、釣り人に近寄って話しかけた。
「連れてきたわよ」
釣り人が振り返った。
「アッ……」
床屋の店主だ。
楓さんの亭主……。話がうますぎると思ったが、亭主がいるンじゃ、適当に話を合わせて早く引き上げたほうがいい。
「ここでは、なにが釣れるンですか?」
おれは、店主が腰にぶらさげているビクに目をやりながら言った。
店主は、不思議そうな顔付きで、
「釣れる? もう、釣れたよ。なァ、楓」
「そうよ。大物よ」
「エッ?」
この2人は何を言っているンだ。
「大物って、マスですか、サケってことはないでしょう……」
おれがそう言うか言わないうちに、楓さんが、無表情で、
「きょうは何を使うの、あなた?」
店主がおれの背後を促し、
「そこに用意しておいた」
おれはハッとして振り返った。
レジャーシートが広げてあり、その上には、スプレー缶にハンマー、ノコギリ、ロープ、ペンチ……、全部見ないうちに、楓さんがスプレー缶とロープを持って、おれに向かってきた。
「なにをするンですか!」
これがおれのこの世での最後のことばになるのだろうか。
2人の声だけが聞こえている。
走らせているのは、おれのぼろ車だ。
「こんなものに値が付くのか?」
「勿論よ。世の中には、いろんな仕事や趣味があって、それぞれ必要としている人たちがいる……」
「楓、……」
「なァに?」
「……やっぱり、こういうことはよくないよ」
「あなた、いつから真人間になったの!」
「いや、おれは……」
「親の遺産を食いつぶして、たった一つ残ったぼろアパートの家賃で、なんとかしのいでいる。床屋に、1日何人お客が来る?」
「3人は来るよ」
「それも小学生ね」
「千円カットの店ができてから、おかしくなったンだ」
「そんな言い訳聞きたくない」
「だから、いま商売替えを考えている」
「学校の前だから、文房具屋?」
「いや……」
「古本屋?」
「いや……」
「わかっているわよ。釣りの店でしょ」
「知っていたのか」
「いつも言っているじゃない。『おれは床屋より、釣りをやらせたほうが力が出せる男だ。もう、釣り針を3本飲み込んでいるが、いまだに出てきやしない。よほど、おれの腹の中の居心地がいいらしい』って」
「そんなこと、言ったか……」
「でもね、あんな6坪ほどしかないスペースで、お客が来るのを待つだけの店なンか、いまどきダメ。なんど言ったらわかるの」
「そうだが、アパートの家賃だけでやれないこともないだろう」
「あなた、あのアパートだって建て替えないと。いつまで借り手があると思ってンの。雨漏りはする、排水は詰まる、その都度業者を呼んで、修理代ばかりとられている」
「おれだって、自分で修理することもある」
「ガラス窓ね、ヒビの入った窓ガラスをガムテープで補修して。みっともない、たらありゃしない。あなたには経営の才覚がないの。全く無い。ゼロよ!」
「オイ、そんなに言うことはないだろう!」
「怒ったの? 怒る元気があるンだったら、いまのうち、トランクの男の始末を考えなさい」
始末!? おれをどうしようと言うンだ。
「待ってくれ。炭焼き小屋に行って、燻製にして、残りは粉砕機にかけろ、って言うンだろ。おれには、出来ない。そんなことは、出来っこない!」
燻製、粉砕機、ダ!?
「難しいのは最初だけよ。すぐに慣れるわ」
「楓、よォく考えてみよう。始まりは、おまえの復讐じゃないか。おまえの母親をもてあそび、食い物にした男に対する復讐じゃないか。そう言っただろう?」
「そうよ。あの男だけは許せない。母はあの男に殺されたようなものよ。でも、3年前に大酒がもとで、男は死んでいた。私の知らないうちにね」
「だからって、そいつに似た男を見つけて、仕返しする。ムチャな話だ」
「いまごろ、なに言ってンの。2年前、スーパーのチラシのモデルをやっていた私を口説くとき、あなた、私のためだったらなんでもやる、と言った。忘れたの」
「あれは、おまえが、モデルの合間にやっていたキャバクラのホステスだったから、言ったンだ。男だったら、だれでも言う」
「あなたはほかの男とは違った。なんでもするから、結婚したいと言った。死んだ女房に似ているから、二十歳も年下の女に惚れたンだ、って。天涯孤独で、身内はだれもいないって言うのも、私の夫の条件にぴったりだった」
「おれはタカをくくっていた。似た人間なんか、そんないるものじゃない。おまえが恨みを晴らしたい男に似た男なんて、見つからないほうが当たり前だ。恐らく一生ダメだろうと思っていた。それが、おまえに持っていた男の写真に瓜二つ……」
「私も驚いた。七三分けにしたら、もう、あの男そのものになった。生き返ったンじゃないかとさえ思った。そうしたら、怒りが沸々とこみ上げてきて、もう実行するッきゃない、って決心したわ」
どういうことだ。おれはなんて間の悪いヤツなンだ。
「トランクの男のポケットから免許証を抜いたから、住所と名前はばっちり。これで、あの男の戸籍が売れる。あとは始末するだけ……炭焼き小屋はもうすぐね」
こんなところでグズグスしちゃいられない。燻製になっちまう。このトランクは、幸いガタが来ている。中から開けられないか。やってみるしかない。どっかに、工具が転がっているはずなんだが、暗くて、どこに何があるのか、わかりゃしない……アッ!
深夜、床屋の2階。
布団の中で、男女が絡み合っている。
「これですっきりしたわ」
「楓さん、これで本当によかったンですか?」
「いつまで、そんな他人行儀にしているの。あなたは私の夫よ……」
「そう言われても、昨日までは全くの赤の他人だったでしょ。顔が似ていたからというだけで……」
「あの写真はでたらめ、ウソ」
「ウソ、ですって!」
「あの男に見せていた写真は、私が中学のとき憧れていた担任の先生の顔写真よ。あなたは担任に似ていたわけ」
「ということは……」
「そうよ。あの男が、私が復讐を誓った男に似ていたの。いいえ、似ていたンじゃない。本当を言うと、あの男がそのもの、当人よ。あの男は、私の母と再婚して、私と弟を虐待して、弟を死なせたDV夫。だから、私は大きくなって知恵と力がついたら、あの男に復讐してやると誓って、あの男に近付いた」
「昔つきあった女の娘だってことが、よくバレませんでしたね」
「あなた、女の化粧の力を知らないのね。きれいに見える女は、みんな、化粧のおかげ」
「楓さんも、ですか」
「そんなことどうでもいいわ。わたしは去年、あの男の女房になって、きょうのような機会を待っていた。女房といっても、勿論籍は入っていないわ。あの男の暴力を止めなかった母親も憎いけれど、実の母は殺せない。母はいま遠くのホームに入っていて、自分がどこにいるのかさえわからない。つまらない話よ」
「おれはこれからどうすれば?……」
「あの男の身代わりに、ここにいればいいの。いやなら、出ていっていいわ」
「おれに床屋がやれますか」
「やれるわ。ダメなら、燻製屋でもやる?」
「ゲッ。そいつだけは、勘弁してください……」
ある高級レストラン。
テーブルで食事しているお客がウエイターを呼びつける。
「キミ、これは何だ?」
皿の中を指差す。小さな針金のようなものが……。
ウエイター、手に皿を持って、目に近づける。
首を傾げながら、
「釣り針のようですが……」
「この店は猟師が獲った獣肉の燻製を食わせると聞いている。銃弾ならわかるが、釣り針とは、どういうわけだ?」
「さァ?……」
(了)
釣り針 あべせい @abesei
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