呼ぶ首 さかのぼり 雨合羽の女
以前の冬虫脳談でも書いたが、僕は二十代の頃に金沢区能見台で独り暮らしをはじめた。
駅の近くなのに家賃は四万五千円と格安。M晴荘という築年数四十年以上の木造アパートだった。
そこでは毎日のように奇妙な体験をした。
怪談でも書いているが、髪の長い痩せた女にまつわる奇妙な体験だった。
それ以外にも不思議な体験は沢山あり、それは冬虫脳談『M晴荘の日常』で軽く触れているが、そのなかに雨合羽の女の話がある。
始まりは確か夏だった。
今ほど酷暑はひどくなかったが、それでも八月となればかなりの暑さだったと記憶している。
そんな真夏のさなか、彼女からメールが届いた。
その日は二人とも仕事が休みで、部屋で約束をしていた。僕は料理の材料を買い出しに出ていて、合鍵を持っている彼女が僕が不在の部屋に到着したのだ。
しかし、文面が異常だった。
『部屋のまえに変なひとがいて入れないよ』
アパート近くのスーパーで買い物をしているときに着信したメール。奇妙な体験にはすでに慣れていた頃だったが、いわゆる人怖の類いはなかった。
どういうことだろうと訊ねるとすぐに返信があった。
『あっくんの部屋のまえにね、ドアに顔をつけるように女のひとが立っているの』
まさか頻繁に現れる髪の長い痩せた女だろうか。ついに彼女にも見えるようになったのか。
『どんな女のひと?』
恐る恐るメールを送った。
またすぐに返信。
『晴れてるのに雨合羽を着た女のひと』
メールを読んでも想像が出来なかった。
真夏の昼間に、雨でもないのに雨合羽を着込んだ女が部屋のまえに、ドアに顔をつけるようにして立っている。
とりあえず彼女の身の安全を案じて、スーパーに来るようにメールを送った。
スーパーで合流すると彼女はかなり怯えていた。
ただ、この世のものではないものを見たような感じはなかった。
怖い人に遭遇してしまった。そんな印象だった。
二人で買い物を済ませ、緊張しながらアパートに戻ったが、そこには誰もいなかった。彼女は心の底から安心しているようだった。
『たまたま変なひとが来ちゃったのかもね』
彼女は自分を納得させるように言った。
その日は二人とも気が乗らず、盛り上がらない休日になってしまった。
ただ、僕も彼女が言っていた『たまたま変なひとが来てしまった』のだと思っていたから、それほど気にはしていなかった。
それなのに、それは、また、やって来た。
彼女が雨合羽の女を目撃してから数週間が経った頃だと思う。休みの日に外出から帰るとアパートの敷地で鉢植えに水をやっている管理人の河野さん(仮名)と顔を合わせた。
『こんにちは』
会釈をして部屋に入ろうとしたら河野さんに呼び止められた。
『カタオカさんは見かけてないと思うんだけど、最近ね、この辺りをちょっと変わったひとが徘徊していてね。カタオカさんには知らせないといけないと思ってね』
ドキリとした。嫌な予感が膨れあがる。
『変なひとですか…』
『そうなの。あまり見かけない人だから、この辺りに住んでいる人じゃないと思うんだけどねぇ。女のひとでね、昼間にアパートのまわりをフラフラ歩いてね、それで必ずカタオカさんの部屋の前に行くのよ』
血の気が引いた。言葉が出てこない。
『カタオカさんの彼女さんかとも思ったけど全然様子が違うし、勝手に入ってこられたら困るから、このまえ声をかけたのよ。カタオカさんに用事でもあるんですかって。そうしたらその女のひと、何も言わずに会釈していなくなっちゃって。それからは見かけてないけど、カタオカさんには知らせておこうと思って。知り合いじゃないんでしょ?』
僕は無言で頷いた。
確かめたい気持ちと、聞きたくない気持ちが心の中で渦巻いていた。そんな僕の思いなど知るよしもない河野さんが、首を捻りながら言った。
『それにしても変なのよね。いつもいつも、雨も降ってないのに黄色い雨合羽を着て。ちょっとおかしくなっちゃった人なのかしらねぇ』
僕が知らないところで、雨合羽の女は、何度も何度も部屋の前に来ていたらしい。不審者か、いわゆるストーカーの類いなんだろうか。しかし、誰かに付きまとわれる心当たりがない。
たまたま様子がおかしい人が、僕の部屋に執着したのだろうか。
いつか、僕もその女と遭遇してしまうのではないか。部屋で起きる怪異とともに、心の負担がひとつ増えた。
そしてその瞬間は訪れた。
有休を取って平日に休んでいる日だった。
外出しようと部屋を出ると、階段をのぼってこちらに向かってくる雨合羽の女がいた。
体が硬直した。
雨でもないのに黄色い雨合羽を着た女だ。
女は部屋から出てきた僕に気がつかず、ゆっくりと、しかし当たり前のように階段をのぼってくる。
鉢合わせになってしまう。
部屋に戻ろうか。
そう思ってドアノブを握り直したとき、女が僕に気がついた。
階段の途中で立ち止まり、そして、顔をあげた。
どこにでもいるような、平凡な顔つきの中年女性だった。間違いなく生身の人間、に見えた。
女と目が合う。
はずだったが、こちらに向けられた女の目は虚空を彷徨い、落ち着かず、宙ぶらりんのまま固まってしまった。
ダメだ。
関わったらダメだ。
僕はなりふり構わず部屋に戻り、鍵をかけて息を殺した。
ドアの向こうで階段を降りていく、乾いた金属音がした。
その後、二度と雨合羽の女を見ることはなかった。
それなのに、場所も何もかも違うのに、自宅に雨合羽の女が現れた。
何が、どこと繋がっているのか。
女の子が二階で雨合羽の女の出会った翌日、家族が凍りつくような体験をしてしまった。
怪異は過去から現代に戻る。
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