退去

 初めての独り暮らしをした能見台M晴荘では、異常な体験を数多くした。

 ここでは主に長い髪の痩せた女、に関連すると思われる出来事を書いてきたけれど、無関係なのかどうなのかはよく分からないが、他にも異常な出来事は多くあった。

 真夜中、象のように鼻の長い何者かが枕元で正座をしてこちらを覗き込んでいる。晴れなのに雨合羽を着込んだ女性にたびたび来訪される。下と隣の部屋では刑事事件が起こった。その頃すでに怪談に興味を持っていたので、心霊スポットなどに行って部屋でも恐ろしい体験をした。これは次章書きます。

 そんな部屋で暮らしていて、何が原因なのか今ではもう分からないが、僕は精神的に疲弊していき、働けなくなり、部屋に引きこもって親に多大な迷惑をかけた。

 これ以上はもう無理だ。

 僕はM晴荘を退去して、実家に帰ることを決めた。

 髪が長い痩せた女の正体は分からない。

 もしかしたら、僕が忘れているだけで、答えに近づく何かがあったかもしれないが、もう、遠い昔だ。

 あの日々の体験が実際にあったことなのか、それとも思い込みか、精神を疲弊させていた僕の心の問題なのか、そこは永遠に分からない。

 ここからは僕の主観。実際の刑事事件が関係しているので、固有名詞は書けないし、答えらしきことも書かない。あくまでも僕が体験したこと。

 心を疲弊させて部屋に閉じこもっていた頃。季節はよく覚えていない。一階でガラスが割れる音がした。

 そして、誰かが走り去る音。

 驚いて部屋から出て、一階に降りてみた。

 僕が棲む二〇一号室の下、一〇一号室の曇りガラスが割られていた。その下には血溜まり。

 誰かが拳で曇りガラスを殴って割ったのだ。

 事件だ。

 一〇一号室の住人は留守のようだ。確か、三十代ぐらいの女性だったはずだ。

 僕が警察に通報した。

 警察がやって来て現場検証をし、僕も事情聴取された。

 何があったのか、後になっても警察からは説明はなかった。

 翌日、夜が明けてからアパートの周りを見てみると、割られた曇りガラスからアパートの前の坂道まで血痕が点々とついていた。

 曇りガラスを割られた住人はその日から部屋には戻らず、退去の準備を進めていた。

 部屋から家財道具を運び出し、一〇一号室は空室になった。

 いったい何があったのかな。

 そんなことを思っていた。あれは、コンビニに行くときだったか。

 部屋から出ると、アパートの前に車が停まっていて、一〇一号室から出てきたと思われる女性が車に近づいていった。

 僕は二階から女性を見下ろしていた。

 車に乗り込もうとしていた女性が、運転手に何か言われたのか、立ち止まり、振り向いた。

 僕の姿を認めると、女性は深々と頭を下げて、車に乗り込んだ。

 女性は、髪が長くて、とても痩せていた。

 どこか、見覚えのある女性だった。


 これは、僕の脳の牢獄から見た怪談、だから脳談。


 M晴荘の怪談はここで終わる。

 あの女性に何があったのか、僕は知らない。

 誰が一〇一号室の曇りガラスを割ったのかも、誰も知らない。

 ここで、あの日々の記録は、終わりだ。

 

 

 次章では、怪談に興味を持ち、自分もそのような文章を書くようになってから体験した脳談を紹介します。

 

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