おまえは誰だ
あるとき、内鍵をしてしまって部屋から締め出された。不動産屋に電話をすると二〇四号室に住む女性が管理人をしているから、そこを訪ねてくれと言われた。
二〇四号室に行くと、人の良さそうな年配の女性が対応してくれた。仮に河野さんとしておく。
内鍵のことを告げると、よくあることなのよ、部屋の合鍵を預かってますから大丈夫ですよ、と言われ安心した。
「せっかく来たんだから冷たいものでも飲んで行きなさい」
河野さんはよく冷えた麦茶と餡ドーナッツを出してくれた。
世間話をひととおりしていて、あの部屋のことを訊いてみることにした。
「僕が住んでいる二〇一号室なんですけど、過去に何かありました?」
すると河野さんは驚いた顔をして、あら聞いてないの、と当たり前のように言った。
不安は当たった。やはり何かあったのだ。
「家賃もあの部屋だけ安いのよ、ほら、他は五万五千円、あそこは四万五千円でしょ。書類には書かれていたはずだけどねぇ。そうか、言わなかったのか。不親切ねぇ」
やはり安すぎたのだ。築年数が古いとはいえ、駅から歩いて五分で四万五千円は安すぎる。
「何があったのですか?」
「あなたが入るまえに住んでいたジュリア(仮名)さんが自殺をしちゃって。明るくていい方だったんだけど、息子さんが母国で亡くなられてから鬱ぎ込んじゃって」
ほぼ予想していた通りの展開。ただ、母国というのが気になった。
「ジュリアさん、日系ブラジル人でね、親戚のつてを頼って日本に出稼ぎに来ていたの。頑張ってたんだけどね、ブラジルで息子さんがね。よく知らないけど向こうは治安が良くないらしくて」
僕の中でイメージが結び合わせられる。
小麦色の肌、痩せた姿に長い髪。
遠く離れた地で息子の最期に立ち会えず、無念のまま自ら命を断った。
「ちょっと待ててね」
河野さんは言って立ち上がると小物入れから何かを出してきた。
写真の現像を頼んだときにサービスで貰える紙製のアルバムだ。
「仲良くさせて貰っていてね、ほら、これは観音崎に行ったとき。ジュリアさんの車に乗せてもらって。楽しかったなぁ」
河野さんがアルバムを差し出してきた。
見るまでもなく、僕には想像が出来た。
笑顔の河野さんの隣に立つ、長い髪の痩せた女性。
引き戸を叩き、足を引っ張り、部屋から僕を見下ろし、新聞の集金を手招きした者。
恐る恐るアルバムを受け取り、写真に目を落とした。
そこには、河野さんの隣で楽しそうに缶のコーラを掲げる、ふくよかでショートヘアの中年女性が写っていた。
「ジュリアさん、睡眠薬とお酒をたくさん飲んでね、眠るように畳部屋に横たわってた。安らかな顔をしてたのが救いですよ」
違う、まるで違う。
では、あれは誰だ。
あの髪が長い痩せた女は誰だ。
こちらを見下ろしていた影が思い出された。
おまえは誰だ。
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