曇りガラスを叩くもの
初めて独り暮らしを始めた能見台のM晴荘はY高校の近く、産婦人科のまえにあった。もうすでに取り壊されていて、そこには新しいアパートが建っている。
僕が入居したのは二十年以上前のこと。平成十三年九月だった。
最初の夜から何かが変だった。
クーラーもない畳部屋。
窓を開け放ち、台所の間にある曇りガラスの引き戸も開けていた。
テレビを六畳間の奥に置いていたから、台所に背中を向けた状態で過ごしていた。
六畳間にいるあいだ、終始、背後が気になった。
誰かがいる、誰かに見られている、そんな気がずっとする。
初めての独り暮らしで過敏になっているのかな。
そんな風に最初は呑気に思っていた。
ただ、シャワーを浴びたとき、シャワールームの壁に血がついていたのは気になった。
前の住人が退去したときちゃんと清掃をしなかったのかな。いい加減だ。
そう思ってシャワーで洗い流した。
それはまさに血で、お湯で溶かされた血は筋を作って流れ落ちた。
だから、背後からの気配には嫌な感覚があった。
台所が、何か気持ちが悪い。
そんな気配に終始苛まれながらしばらく過ごした。
九月に入居したから暑い日が続き、しばらく引き戸は閉めて過ごしていた。
そのあいだも様々な怪異があったが、それはまた別のお話だ。
異変があったのは初めて引き戸を閉めて寝た十一月だった。
古いアパートだから建て付けが良くない。寒くなると隙間風が体を冷やした。だから、その夜は引き戸を閉めて寝ることにした。
閉めたときから、曇りガラスが異常なほど気になった。曇りガラスの向こうから何かが現れるのではないか。そんな思いばかりが頭に浮かんだ。
それでも寝ることは避けられない。
僕は曇りガラスの引き戸に足を向けて床に就いた。
眠りについてしばらくしてからだ。
足元で、ガラス戸を叩く強烈な音がした。
バァン! バァン! バァン!
引き戸自体が衝撃で揺れる音さえした。
まさに魂消て上半身を起こして足元の引き戸を見た。
曇りガラスにはっきりと、二つの黒い手形が透けて見えた。ぴたりと曇りガラスに手のひらをつけている。
茫然と眺めていると、二つの手形のあいだに、長い髪の毛の細い顔が出現した。
顔は六畳間の様子をうかがうように右から左にゆっくりと動くと、引き下がるように消えていった。
それに合わせて二つの手形も消えた。
布団から身を起こして、しばらく放心していたが、恐ろしさに飛び起きて引き戸を開けた。
ガラガラッ!
引き戸が開けられた台所はもちろん無人だった。
そんな部屋で続けられた僕の三年間の生活が、平成物怪録だ。
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