箱根の怪

 中学生の頃、自転車で遠方まで行くことが休日の楽しみだった。

 地図帳を広げ、行き先を決めて、道路を調べる。

 横浜市旭区中希望が丘から多摩川、海老名、藤沢まで。様々なところに行った。その中で一番の遠方が箱根だった。

 中原街道を使って長後、寒川町まで行き、相模川沿いを南下して相模湾に出たらひたすら西に向かう。箱根の麓まで片道で五十キロ以上、三時間はかかった。そこまでの時間をかけてから、箱根の山道を登るのだ。

 今では考えられない過酷な自転車の旅だが、中学生の僕は何度か挑戦した。

 箱根湯本に着いたら、そこから宮ノ下を目指してひたすら坂を登っていく。

 どこまで行けるのか、という挑戦だった。

 通行量が多かった記憶はない。たまに大人がまたがったロードサイクルに追い越された。もちろん、歩いている人なんていない。

 はずなのだが、木々に囲まれた坂道で、たまに、人とすれ違った。

 箱根の山奥にいるには不釣り合いな格好の女性だ。

 部屋着や、それこそ寝間着を着たような女性とすれ違う。追い越す。ひとりやふたりではない。五人ぐらいはいたと思う。

 不思議に思っていたが、箱根には保養所や療養所が幾つかあった。何度かその前を通り過ぎた。

 そこの利用者なのだろう。

 そう思って坂道に挑んでいた。

 坂を登りはじめて一時間は過ぎただろうか。

 太ももはパンパンになり、汗まみれになった。

 そろそろ休憩をしようと思った頃に、沢に架かった高い橋に着いた。

 ここで休憩しよう。

 路肩に自転車を停めて、橋に近づく。

 すると、橋を渡りきったところ、五十メートルほど先のところに若い女性が立っていた。

 こんなに山奥に、とは思ったが、この先に保養所でもあるのだろう。

 じっと見るのも失礼なので目をそらし、橋の欄干に寄りかかって水を飲み、コンビニで買ったおにぎりを食べた。

 山の中を吹き抜ける風が気持ち良かった。

 汗も引いてきた。

 そろそろ出発をしよう。

 そういえば、先ほどの女性はどうしたのだろう。引き返したのかな。

 女性が立っていた場所に顔を向けたときだ。

 目の前に、欄干に括り付けられた枯れた花束があった。

 本当に、目の前に。

 えっ!

 心臓が縮み上がった。

 休憩をしているときは目にも入らなかった。

 まじまじと見ると、花束には一枚の写真が貼り付けられていた。

 部屋着で、無表情にレンズを見つめる、若い女性の写真。

 ここで飛び降りたのか。

 思ったとき、視線のさきで白い影がこちらに近づいてくる気配がした。

 勢いよく、こちらに。

 全身に鳥肌が立った。

 自転車まで全速力で駆け寄り、飛ぶようにまたがって箱根の山をおりた。

 箱根を離れるまで鳥肌がおさまらなかった。

 頭の中では白い影がいつまでも、いつまでも追いかけて来ていた。

 そして、写真の中にいた、無表情な女性。

 どうして花束に写真が貼られていたのかは、今でも理解できない。

 三十年ほど前の、箱根の怪。

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